庄左衛門がちらりとお鈴に視線を向け──源一郎に向き直る。
「近江屋殿──」
声を、ひと呼吸落とした。
「あの行者と巫女がやっておった祈祷は──験力を装った騙り。商売の怨みだの、娘の命が危ないだのと申したも、すべて近江屋殿を怯えさせ、金倉を開けさせるための方便。あれには神も仏も、まして験力など関わりはしておらぬ」
そこで源一郎は、ほんのわずかに言葉を選ぶ間を置いた。
「──だが、後から巫女に降りたものが何であったか。あれを手妻と言い切るには、某にも少々事情があってな。口が重くなる」
庄左衛門が顔を上げた。
「では、やはり……」
「さて──」
源一郎は視線を外した。否定も肯定もしない。
「世には、人の知恵で解き明かせるものと、未だ解き明かせぬものがある。あれが何であったかは、好きに捉えて貰って構わぬ。信じるも信じぬも、近江屋殿の勝手。某の口からは『本物』とは申さぬ」
それは庄左衛門の問いをはぐらかす言葉でもあり、同時に──源一郎自身の、嘘をつかない誠意でもあった。
「ただし──これだけは申しておく。目に見えぬものに縋るな、とは言わぬ。だが、頼みにしすぎるのは危うい」
庄左衛門が顔を上げる。
「神も仏も、狐も、確かにこの世にあるのやもしれぬ。──だが、それらは人の代わりに茶碗の毒を見抜いてはくれぬ。娘の手を引いて医者へ連れていってもくれぬ。今日、お美乃殿を苦しみから救うたのは、神でも狐でもない。傍にある者の目と、手だった」
源一郎の視線が、庄左衛門から仁助、お美乃へと移る。
「見えぬものに縋るは、人の弱さゆえ。先の見えぬ闇は、誰しもが恐ろしい。それを咎め立てる気は某にはない。なれど──縋りすぎては、見えていたものすらいつか見失う。あの者どもに縋っておった間、近江屋殿は、お美乃殿の状態から一度も目を逸らさなんだと、果たして言い切れるか」
庄左衛門は傍らの娘を見下ろした。靄の残る虚ろな目が、それでも父を見上げている。庄左衛門の喉が、ぐ、と鳴った。
「……仰る通りに、ございます。手前は……最も大事なものから、目を逸らしておりました……」
「──分かっておるのならば、それでよい」
源一郎は静かに頷いた。
「親が子を案ずる心は尊い。──だがな、近江屋殿。その心が、いつしか『誰ぞに何とかしてもらいたい』という願いにすり替わってしまえば、人は己を見失う。あれの真贋がどうあれ……某が『本物』と申さぬのも、あやふやなものを頼りにして欲しくはないからだ。──今宵のことは、たまたま運が良かった。日頃の豊川稲荷への信心が、たまさか報われた。その程度に思うておいて貰いたいと願うばかり」
源一郎がそう説くと、庄左衛門は意図を噛み砕いたのだろう──深い吐息と共に、肩からようやく強張りが解けた。そして、深く、深く頭を垂れる。その目の縁は、薄く濡れていた。
源一郎は頷くと、廊下へ目をやった。お沙世らを岡っ引きに引き渡し、役宅へ戻る支度を整えた本太郎を呼び止める。
「本太郎──」
「は」
「この、お鈴も役宅まで連れて行ってくれ。しかと頼むぞ」
「承知いたし──なんと……貴女はあの時の……」
本太郎の返事が、お鈴の方を見て一拍遅れた。女好きで知られる狸顔が驚きに染まり、つい、その身を上下にまじまじと眺めてしまう。うなじに覗く白い肌、手足の甲、僅かな尻の丸み──知らず、その頬がだらしなく緩む。
源一郎がお鈴の方へ向き直った。
「お鈴。この狸顔について役宅へ戻っていてくれ。俺はまだ役目が残っておるのでな」
「……はい、旦那様。お役目、無事に果たされますよう──どうか、お気をつけください」
お鈴は深く頭を下げた。その目の奥には、いつものように源一郎を案じ慕う想いが、静かに揺れている。だが、お鈴はそれを口にしない。自分が付いていったところで何もできはせぬと──ただ、無事に戻ることを、胸の内で祈るばかりであった。
「ささ、お鈴さん。──こちらへ。夜道は暗いですからね。私が提灯で道を照らしますゆえ。役宅までは渡辺様に代わり、私がしかとお送りいたしますので何もご案じめされず」
「え、えぇ……ありがとうございます」
「──ところで、覚えておいでですか?確か山王祭の頃でしたが──以前、役宅でお会いしたことがありました。あのむさい男所帯に花が現れて、心洗われた心地であったことを覚えております」
「は、はぁ」
「あ、申し遅れました、私、鳥居本太郎と申します。いやぁ、あの時の花にまたお会いできるなんて、これは何という偶然──」
本太郎が口早に言い添える。その表情は晴れやかである。しかし──。
「オイ、本太郎」
源一郎の声が低くなる。複雑な心境──お鈴が言い寄られるのが気に入らぬとばかりに地を這うような声が轟く。恐ろしげな圧がゆらりと立ち上った。
「ひ、ひぇっ……た、ただ少しお話ししただけじゃないですかぁ……何をそのように怒っていらっしゃるのです……」
「少し──?妙な気を起こすなよ、なァ……ポンタァ──」
「と、とんでもございません……!渡辺様のお身内を口説くなど、それは恐れ多いことで……!」
本太郎が慌てて十手を握り直し、雷に打たれたように背筋を伸ばした。
それから身を震わせ、いそいそとお鈴を先に促した。
溜息を一つ。源一郎は廊下に出ると、表で控えていた権助、熊造、それに新吾へ目をやった。この後の行動は既に決まっている。
──浅草。料理茶屋『鶴喜』への御用改め。実の所、徳次郎の塒はすでに割れているのだ。
先だって、お富が店を抜け出た際に、新吾と本太郎の二人が女の跡をつけていた。そこで、お富が繋ぎ役と接触したのを確認──その繋ぎ役が出入りしていた先が、浅草の料理茶屋『鶴喜』であった。
──近江屋と鶴喜の二重監視が進んだ。
鶴喜に出入りする顔ぶれ、店の主である恰幅の良い男。この男の正体の素性を調べたところ、富士講の講元であり──かつて東海道筋で猛威を振るっていた『外法頭』の徳次郎であると割れた。
黒幕まで嗅ぎつけた新吾のお手柄であった。
つまるところ──、近江屋はあくまで、『外法頭』の標的となった末端。口寄せ騙りの現場──。この頭を抑えねば、また同じ絵図が別の商家で繰り返される構図となっている。
「権助、新吾、熊造。──浅草へ、急ぎ参るぞ。ここから先が本陣だ。本太郎は行者どもを役宅へ送り届けてから合流する」
「承知」
「あの野郎にゃ、手柄の一つも残してやりませんや」
「合点でさぁ。へへ……滾りますねぇ、若旦那……!」
「──では邪魔したな、近江屋殿。我らは先を急ぐのでな、これにて失礼致す」
幾つもの足音が、廊下から表へと足早に流れ出てゆく。
「あ……お、お待ちを!──せめて、お見送りをっ……!」
庄左衛門が腰を浮かせた。源一郎を呼び止めようとして、しかし呼び止めたところで引き留める道理が無いと気づき、声を途切れさせる。
その背に仁助がそっと手を添えた。
「旦那様。お嬢様は手前が付いております。──どうぞ、皆様方のお見送りを」
「う、うむ」
庄左衛門は娘を仁助に託すと、表口まで小走りに追った。土間に降り、草履を爪先に引っ掛けるのももどかしく、暖簾を撥ね上げて表へ出る。
──秋の夜の通りには、幾つもの提灯が揺れていた。
『火盗改』の文字の入った御用提灯。その朱の灯が連なり、夜気を割って浅草の方角へと流れてゆく。源一郎を先頭に、十手を提げた同心と岡っ引きの一行が、その灯を伴って歩を進めてゆく。
山伏装束のまま夜の闇に紛れるその背は──討ち入りに殺気立つ男達を率いるに相応しい武士のものであった。
──庄左衛門は通りの真ん中で深く腰を折った。
声を掛けては、役目の邪魔となる。礼の言葉も、詫びの言葉も、今は尽くしようがない。ただ黙って頭を垂れ、その背が夜の闇に溶けてゆくのを見送るより外なかった。
提灯の灯が辻を曲がり、足音が絶える──。
通りに残ったのは、虫の音ばかりであった。庄左衛門はしばし頭を垂れたまま動かず、やがてゆっくりと身を起こす。秋風が、額に滲んだ汗を冷たく撫でていった。
背後で、衣擦れの音がした。振り返ると、戸口には仁助に支えながらのお美乃が立っていた。父を案じて、ここまで出て来たらしい。
「お父様──もう行ってしまわれたのですか……?」
「あぁ……嵐のような御方だった……」
「……そうですね」
「旦那様──。あまり秋の冷たい夜気に当たっては、お嬢様のお体に障ります。そろそろ中へ入りましょう」
「ああ、そうだな。医者も急ぎ呼ばねばならんか──」
庄左衛門は番頭に支えられた娘を見た。お美乃の顔色は白く、薄く目を開けて父を見ている。庄左衛門は黙って番頭に代わりお美乃を支えた。
父と娘の間を妨げるものはもうない。二人、共に支え合い店の内へと戻っていったのだった──。
§
同じ刻──浅草。
料理茶屋『鶴喜』の奥の一間。
徳次郎は神棚の前に座していた。仙元大菩薩の札に灯明が上げられている。その前で徳次郎は両手を合わせ深く頭を垂れていた。日が落ちると徳次郎は必ずこうして手を合わせる。
──その傍らに、もう一人、客があった。
六畳間の片隅で薬箱を脇に置き、湯呑みを傾けている男。年の頃は三十半ば。中背、中肉──これといった目立つ特徴のない男だが、その目だけが妙に静かで、感情が中々見えない。
──薬売り。
月に一度か二度、徳次郎のところへ顔を出す男。最近では、嘗め役として狙い目な商家を提案することもある。表向きは生薬を扱う行商だが、徳次郎にとっては絵図に欠かせぬ薬の仕入れ先。お沙世が娘たちに盛ってきたあの毒の元は、もとを辿ればこの男の手から出ていた。
二人の間にさほどの言葉はなかった。徳次郎が祈り、薬売りは茶を飲む。それだけの、もう何年も繰り返してきた、いつも通りの夜のはずだった。
その背後で廊下を転がるような足音が近づいてきた。
「お頭……お頭ッ、てえへんだ……!」
障子が荒々しく開いた。配下の一人だった。蒼白な顔をしている。
「外の繋ぎから連絡が──。今しがた届きやした!祈拝み屋に化けてた兄貴に、姐さん、それと引き込みのお富、揃って火盗改に引っ立てられたと……!」
徳次郎はすぐには振り返らなかった。手を合わせたまま最後の祈りを静かに終え、ゆっくりと神棚に一礼した。
そうして振り返った。
「……奉行所より先に火盗改が出て来やがったか」
声は低かった。
「へ、へぇ。外の監視役が近江屋に別口の修験者と巫女が乗り込んだのは見てたらしいんですが……そいつらの正体が火盗改だったようで。その内の一人が鬼切りやら剣鬼やらと言われてる男だったと……」
徳次郎が口の中でその異名を呟いた。聞き覚えのある名ではない。だが火盗改の鬼平の配下に若い切れ者がいるという話は裏で耳にしたことがあった。
その時──。
徳次郎の傍らで、薬売りの湯呑みが、ことりと畳に置かれた。
徳次郎が振り向くと、薬売りは既に立ち上がっていた。薬箱の紐を肩にかけている。慌てた様子はない。だがその動きには寸分の無駄もなかった。
「鬼切り、と申されたか」
薬売りが初めて口を開いた。声は穏やかで低い。
「何だ、知り合いか」
「いいえ。──ただ、その御仁の話は別の筋から色々と」
薬売りは口元にうっすらと笑みを浮かべた。何かをすでに知っている者の含みのある笑み。
「私はこれにて失礼させていただきますよ、徳次郎殿。──次にお会いするのはいつになるか分かりませんが……お達者で」
「おい、どういうつもりだ」
「どうもこうもありませんが──」
薬売りはやんわりと遮った。
「その御仁、少々厄介でしてな……私はまだ捕まる訳にはいかないのです。徳次郎殿──自身の引き際は私で決めさせていいただきますよ」
言うが早いか薬売りはすっと障子の方へ歩み出した。配下の前を通り過ぎる時、軽く会釈をする。配下はその薄気味悪い笑みに気圧されたようして道を譲った。
障子が静かに閉まり、廊下を遠ざかる足音もまた不思議なほど静かだった。裏口ではなく、店の奥へ向かう足音。──薬売りはこの店の奥から外に続く逃げ道まで知っていた。
徳次郎はその後ろ姿を見送りもしなかった。
追わなかった。追えなかったというのが正しい。厳密には、あの男は徳次郎の配下ではない。商売相手であり、いざとなれば縁を切ることができる関係。そして、それは向こうも同じ。──縁が切れたのが今夜だったというだけのことだ。
徳次郎は短く息を吐いた。
「……薄情な男だ」
呟いたが声に怒りはなかった。むしろある種の納得があった。火盗改の名が出た瞬間、即座に危険を感じて身を引いた。──それが商売人として正しい。
徳次郎は配下に向き直った。
「小頭を呼べ。江戸を引き払う。仕度を急がせろ。──今夜のうちに、だ」
小頭は現場を束ねる者。徳次郎の右腕だった。荒事と銭勘定の両方を任せられる男で、この絵図の裏方をひと通り取り回している。逃げ仕度の段取りを付けられるのは、右腕の男をおいて他にない。
「お、お頭──」
「お富はしくじったことのない女だ。だが気が弱い。まだ猶予はあるだろうが、あの鬼平に締め上げられればすぐに吐く」
徳次郎は立ち上がった。神棚をちらりと見た。仙元大菩薩の札が灯明に照らされている。心の中で念じ──加護を願う。
──配下が頷き、廊下へ駆け出そうとした、その時だった。
突然──表口の方で、めりめりと、戸を蹴破る派手な音が轟いた。桟の折れる音、戸が土間に倒れ込む音が、立て続けに響き渡る。
店の表の方が、にわかに騒がしくなった。
奉公人の悲鳴。反射的な怒声。客達の戸惑う声。──夜更けの料理茶屋には、およそ似つかわしくないざわめきが、廊下を伝って奥の一間にまで届いてきた。
徳次郎の動きが、止まった。
そして、静寂を裂いて、よく通る侍の声が表口から響いた。
「──火付盗賊改方であるッ!『外法頭』の徳次郎、神妙に縛を頂戴いたせッ──!!」
徳次郎の顔から、表情が消えた。
神棚の灯明がその時、すっと揺れる。誰も触れていないのに。
──まるでたった今、店奥の逃げ道から出ていった者の起こした風が、座敷の中にまで届いたかのように。