鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百三十話

 

 京橋から浅草まで、四十五丁──およそ五キロほど。

 

 通常半刻ほどの道のりだが、夜の江戸は昼と勝手が違う。橋は暗く、辻々の木戸は閉まりかけ、番太郎の眼が光る。火盗改の御用提灯を掲げて番所を素通りしつつ、源一郎は足を速めていた。

 

 ──秋の夜気が川面から立ち昇り、通りを薄く湿らせている。

 

 源一郎は山伏装束のまま。鈴懸の裾が夜風を孕み、腰の打ち刀が歩調に合わせて揺れる。修験者のなりでありながら武士の得物を帯びたその姿は、もはや化ける気のない討ち入りの様相であった。御用提灯の朱い灯に照らされ、浅草寺の裏手に続く路地を颯爽と抜けていく──。

 

 近江屋を出てから四半刻。駆け足に近い速さで京橋、日本橋、浅草橋と三つ渡ったが、健脚な武官衆──火付盗賊改方に属する武士達の息はいまだ乱れていない。

 

 集団の先頭付近を歩くのは熊造だった。深川を縄張りとする岡っ引きだが、江戸の裏道を歩き古した男の地理勘は、自身の庭を離れてもなお健在だった。人出の多寡、人目に付かぬ裏道、最短の道程──観音裏の入り組んだ横町でも迷う足取りはない。

 

「若旦那。鶴喜は観音堂裏手、並木通りから一本入った横町でさぁ。間口二間半ほど、平屋造りの料理茶屋で」

「客は」

「それなりに入っているはずで」

 

 熊造が声を落とした。

 

「──若旦那。観音様の裏手ってのは、表の参道とは別の顔をした町でしてね。日が落ちりゃあ夜鷹が辻に立つ」

「ほう」

「すぐ北に行きゃあ吉原。その手前にゃあ、吉原で遊べねぇ連中相手の岡場所が軒を連ねておりやす。寺社地ってのを隠れ蓑に、表に出せねぇ商売がいくらでも転がってる土地でさ」

 

 熊造が捕り縄を担ぎ直した。

 

「──そういう町だからこそ、徳次郎みてぇな男にゃあ都合がいい。講だの株仲間の寄り合いだのと言やぁ、どんな顔ぶれが出入りしてたって誰も怪しまねぇ。料理茶屋の暖簾は、外法頭の悪名を覆い隠すにゃあ、おあつらえ向きってわけで」

「徳次郎本人は」

「表ではそれなりの評判でさぁ」

 

 源一郎の眉が動いた。

 

「厄介だな。──客も奉公人も、一人として外へ出すな。一味が客に紛れて逃げる手もある。誰が誰やら判ずるまで、全員、店の内に留め置け」

「わかりやした。入り口さえ固めちまえば、外には出られやしねぇでしょう」

 

 浅草寺の裏手に差しかかると、源一郎は足を止めた。

 

「権助、新吾。お前たちは裏手に回れ。勝手口を押さえたら、指笛を一吹きしろ。それを合図に、俺が表から踏み込む。名乗りを聞いたら、一気に来い」

「承知」

 

 権助が短く頷いた。新吾を連れ、岡っ引き数人を伴って路地へ消えていく。

 

「熊造は俺に付いてこい。奥へ進む。──残りは店の表で客と奉公人を押し留めよ。一人たりとも外へ漏らすな」

「へい、あっしにお任せを」

 

 熊造が捕り縄を握り直す。太い指が縄をぎゅっと締めた。

 

 権助が裏に回るまでの時間を胸の内で数えながら、源一郎は横町へ歩を進めた。

 

 §

 

 観音堂の参道を外れると、通りは急に細くなった。両側に板塀と格子戸が連なり、軒先の行灯がぽつりぽつりと弱い灯を落としている。どこかから出汁の匂いが流れてくる。秋の夜気に溶けた、温かみのある匂い。

 

 その中に、料理茶屋『鶴喜』はあった。

 

 平屋造りの立派な軒。引き戸の上の暖簾には屋号が墨で太く染め抜かれ、表の行灯には火が入っている。格子窓から漏れる灯が通りを淡く照らしていた。

 

 中から、客の笑い声がする。膳の触れ合う音。三味線の音色に、誰かが小唄を口ずさんでいる。表向きは、何の変哲もない料理茶屋だった。

 

 源一郎は店の手前で足を止め、耳を澄ました。

 

 ほどなく、裏手から甲高い音が一吹き、夜気を裂いて届いた。権助が勝手口を固め終えた合図だ。

 

 ──よし。

 

 右手に十手を握り直し、左手で暖簾を掴んで引き落とす。引き戸に正面から立ち──蹴った。

 

 足裏が戸板の真ん中を捉える。桟がめりめりと折れ、戸板が内側へ倒れ込んだ。土間に叩きつけられた板が弾み、砂利と木片が散る。

 

 源一郎は倒れた戸板を踏み越え、店へと踏み込んだ。

 

「──火付盗賊改方であるッ!『外法頭』の徳次郎、神妙に縛を頂戴いたせッ──!!」

 

 声が店の奥まで突き抜けた。

 

 一瞬の沈黙。──次の刹那、店の中で悲鳴が弾けた。

 

 襖が一斉に開く。奥の座敷で膳を囲んでいた客が、われ先にと廊下へ転げ出る。銚子が倒れ、膳が引っくり返り、煮物の汁が畳に飛び散った。女中が抱えていた膳を取り落とし、瀬戸物の割れる音が立て続けに響く。

 

 連れの女の手を引いて出口へ走ろうとする男、柱の陰にしゃがみ込んで頭を抱える老爺、顔色を青くし右往左往する商人風の男たち──店中が、たちまち修羅の巷と化した。

 

 その混乱の中──店奥から、殺気が走った。

 

 廊下の暗がりから、目つきの違う男たちが次々と顔を出す。手には刃物。客とは明らかに纏う空気が違う。──十中八九、徳次郎の配下だ。

 

「動くなッ!客人も、店の者も、その場を動くでないッ!」

 

 源一郎が一喝した。

 

「御用改めである。咎なき者には手を出さぬ。──だが、外へ逃げ出ようとする者は盗賊一味と看做し、容赦せぬと知れ。皆、その場に控えておれ──!!」

 

 その威に客たちが凍りついた。出口へ走りかけた男が、女の手を握ったまま立ちすくむ。右往左往していた商人がゆっくりと座敷へ戻り、膝をついた。後から踏み込んだ同心と岡っ引き達が、勝手口の前に立ち、逃げ道を塞いでいく。

 

 ──堅気の客に紛れて賊が逃げる。その手は許さぬ。

 

 源一郎は未だ混乱の燻る只中を奥へと進んだ。

 

 厨房の横を抜け、廊下に入る。板張りの廊下が奥へ真っ直ぐ伸び、薄暗い先に座敷の灯りが見えた。

 

 ──足音。

 

 一つではない。複数。近づいている。

 

 その廊下の曲がり角から、男が二人、転がるように飛び出してきた。どちらも長ドス──打ち刀に近い長さの脇差を抜き放っている。憤怒の相、血走った目──追い詰められた獣の目だった。

 

「死ねやぁッ!」

 

 男の長ドスが振り下ろされる。狭い廊下を厭わぬ、脳天めがけての一撃。長い刃が行灯の灯を弾いて白く光る。

 

 源一郎が半歩右足を引き、半身となった。刃が前身を素通りし、風圧が鈴懸の裾を煽る。碌な鍛錬などしていないのだろう、振り下ろしの勢いで男の体が前のめりになる──。

 

 その隙を逃さなかった。十手を返し、長ドスを握る手首を上から強かに打ち抜いた。骨を打つ、鈍い音。男が苦悶の声を上げ、堪らず手を開くと長ドスが廊下に転がった。

 

 崩れた男の襟首を掴み、引き寄せざまに膝を鳩尾へ叩き込む。男は今度こそ声もなく折れ曲がった。そのまま体を捌き、男を横へ投げ飛ばす。投げられた体が廊下の壁に叩きつけられ、どぅん、と鈍い音を立てる。男はピクリとも動かなくなった。

 

「う、うぉおあぁぁッ!!」

 

 二人目が、仲間の沈む間に横から斬りかかってきた。狭い廊下で逃げ場のない距離からの、死物狂いの横薙ぎ。壁に刃が当たるのも構わぬ必死の一撃だった。

 

 ──源一郎は膝を折り、身を沈めた。刃が頭上を走り、壁板を削る。漆喰の破片が散った。

 

 沈めた姿勢から、下から掬うように十手で長ドスの腹を打ち上げる。鉄と鉄が噛み合う甲高い音。男の手から刃が弾け飛び、天井に突き刺さる。

 

 武器を失った男が、呆然と自分の手の平と天井とを交互に見つめ──その一拍に、源一郎の十手の柄が男の側頭部を──ゴリッ、と捉えた。危険な一撃。だが確実に意識を刈る加減。男はくたりと芯が抜けたように、力無く膝から崩れ落ちた。

 

「熊造、縛れ」

「へいッ」

 

 熊造が駆け寄り、倒れた二人に手早く縄をかける。その間に、源一郎は更に奥へと足を進めた。

 

 ──裏手の方から、怒号が聞こえた。金属同士のぶつかり合う音、男の悲鳴、何かが倒れる物音。

 

 源一郎は足を速めた。

 

 

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