鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百三十一話

 

 廊下を曲がった先──裏手の勝手口に続く板の間で、乱戦が起きていた。

 

 権助と新吾が、一人の男を相手に押し込まれている。

 

 四十前後ほど。中背だが骨格は太く、どこぞの元藩士が食い詰めた風がある。着物はくたびれているが、手にしているのは長ドスではない。研ぎ澄まされた打ち刀だった。そして、刀の柄巻きが丁寧に巻き直されていた。刀の手入れを怠らぬ男──それだけで、この男が何に矜持を置いて生きてきたかが分かる。

 

 構えは正眼。切先を相手の喉に据え、力みがない。目は冷たく、しかし不敵に笑んでいる。

 

 ──徳次郎一味の用心棒か。

 

 源一郎は一目で見て取った。

 

 権助が刀で打ちかかる。男は刀の腹で受け、返しの一手で弾いた。権助が体勢を崩す。横から新吾が斬り込むが、男は半身をずらしただけでかわし、返す刀の峰で新吾の肩口を切った。深くはないが、肩口から赤く血が滲み出る。

 

「ぐ──ッ」

 

 新吾が膝をつく。二人がかりで止められない。男は息一つ乱さず、構えを微塵も崩していなかった。

 

「──そこまでだ。二人とも鍛錬不足のようだな」

「は……面目次第もございません」

「新吾、傷は」

「これしきのこと……かすり傷ですよ」

 

 源一郎が、板の間に踏み入った。

 

 用心棒の目が、源一郎を捉えた。山伏装束の男。右手に十手を提げ、修羅場を歩くその面に、緊張の色一つない。歩みも呼吸も、凪いだ水のように静かだ。

 

「……貴様が、火盗改の頭か」

「まさか。頭などという器ではない。俺は火付盗賊改方与力、渡辺源一郎。──降れ。これ以上の手向かいは、命に関わるぞ」

「断る」

 

 用心棒は構えを取り直した。切先が源一郎の喉を向く。

 

 ──源一郎は静かに十手を構えた。

 

 用心棒の目が、一瞬、その鉄の得物に留まる。

 

「……十手で、俺の相手をするつもりか。腰に刀を差しておきながら──舐めているのか、それとも、自惚れか」

「どちらでもない。十手で足りると見ただけだ」

 

 その平坦な声が、かえって用心棒の神経を逆撫でした。

 

「……足りる、だと」

 

 眉間に深い皺が刻まれ、その目に怒りが満ちる。長年刀を振るい、それを頼みに食ってきた男の矜持が、侮辱された。

 

「ならば──見せてもらおう」

 

 用心棒が踏み込んだ。初太刀は正眼からの面。腰が据わり、踏み込みが深い。一撃で仕留めに来ている。

 

 源一郎は十手で受けた。衝撃は思ったほどではない──鉤の根元に刀身を噛ませ、角度で斬撃の力を逃がす。鉄と鉄が噛み合い、一瞬火花が散った。

 

 ──初太刀を難なく見切られたことに、用心棒の目が見開かれた。

 

 十手一本で刀を止めている。それも力で抑えたのではない。受けの角度と鉤の噛みで、斬撃の圧そのものを殺した。敵の刀を受けて鉤で挟み、剣の理を逸らす──十手術の基本の理合が、寸分の狂いなく決まっていた。

 

 源一郎が刀を押さえ、距離を詰めようとすると、用心棒は慌てて逃げた。距離を取った用心棒は歯を食いしばって踏みなおし、脇構えから二の太刀。咆哮と共に横薙ぎ──。胴を狙う。

 

 しかし、源一郎はあっさりと退きながら、左手を腰の脇差にかけていた。

 

「──なるほど、それなりの使い手のようだ」

 

 用心棒の三の太刀が、一拍遅れる。

 

「十手一本では不服のようだったが──では、二刀ならば文句はあるまい」

 

 源一郎は脇差を抜いた。鞘から滑り出た短い刃が、行灯の灯を映す。

 

「二刀には近頃凝っていてな。実践の相手には申し分ない」

 

 右手に十手、左手に脇差──奇異にも映る、その構え。

 

 源一郎が十手と刀の二刀に触れたのは、父、藤治郎が集めていた資料──十手術の古い伝書や覚書を目にしたことがきっかけだった。

 

 十手術の源には、刀を受け鉤で絡める鉄の得物と、斬突を担う刃物との理合が組み合わさっている。とある流派においては、右手に十手、左手に鉄扇を持ち、相手を無力化する捕縛術の理合を極めんとした。

 

 源一郎自身はその流派を修めたわけではない──。だが、父の残した資料に記された術理──利き手の鉄で受け、絡め、流し、添えた刃で打ち突き薙ぐ──が、源一郎の中に活きていた剣理と符合していた。

 

 鬼切流は本来、人ならざるものとの戦を想定した渡辺家の家伝剣術であるが──、一刀流で磨いた正中への切り込みの精度と、他の術理を抱合する鬼切流の貪欲な剣が、十手と脇差の二刀の中で一つに溶けていた。

 

 太刀よりも短い二つの得物が、互いの死角を埋め合うように構えられている──。

 

 右の十手は受け、絡め、打ちの役割を担い、左の脇差は突き、薙ぎ、斬りを担う。十手の間合いは刀より短く、脇差の間合いもまた打ち刀より短い。しかし、二つの「得物」が一つに連動する時、それは刀一本では生まれぬ変幻自在の術理を露わにする。

 

「っ……!」

 

 だが──用心棒が悟ったのは、そんな術理の妙などではなかった。相対して全身で感じる圧力──どんな渾身の一刀をも受け流され、逆に返されてしまう予感……それだけだった。

 

「──さぁ、行くぞ」

 

 源一郎が踏み込んだ。先刻までの十手だけの捌きとは動きが変わっていた。

 

「ぐっ……!」

 

 ──気の乗りきらない一太刀。

 

 右の十手が用心棒の刀身を受ける。鉤が鎬を噛んだ刹那に手首を返して刃を外へ流す。用心棒の手が捻れ、剣先が逸れた──その一瞬の空白に、左の脇差が入った。胴を掠める。布が裂け、浅い朱線が走った。

 

「ッ──!」

 

 用心棒が飛び退いた。胴に灼けるような痛み。着物の合わせが一文字に裂けている。皮膚には線のような傷、血は僅かにしか出ていない。

 

 ──浅い。わざと浅くしやがった。

 

 理解した瞬間、背筋が凍った。殺せたのに、殺さなかった。突こうと思えば突けた。それをただ薄皮一枚切るに留めたことに気づいたのだ。

 

 まさか、二刀を抜かせたのだ。これで終わりではないのだろう──?と。

 

 源一郎は構えを崩していなかった。右の十手を前に据え、左の脇差をやや引いている。呼吸も乱れず、額に汗の一筋もない。泰然自若とした構えには余裕が見える。

 

 用心棒は刀を構え直した。正眼。切先を据える。──だが手が震えている。止めようとしても止めらなかった。

 

 長年剣を握った者だからこそ分かる。構え一つで、その者がどれほどの高みにいるかが見える。

 

 ──山だ。

 

 剣士とは──果てなき、山を登り行く者の如し。

 

 その遥かな高みから見下ろされている。頂が見えぬ。いや、頂は霞んでさえいる。どれほど登ろうと、あの頂には手が届かない。険しい壁を乗り越えられぬ。自身では……どれ程の高みかすら正確には見通せない──それを、一合交えて骨の髄まで思い知らされた。

 

 背筋が寒くなる。

 

 面を打てば、その前に見切られ脇差が胴を断つ。胴を狙えば、十手の殴打が手首を砕く。突きを放てば、逸らされ脇差に首元を撫でられる。──どこに打っても、終わるのは自分の方だ。

 

 額に脂汗が滲み、刀を握る掌が濡れる。呼吸が浅くなり、肩が上がる。足が動かない。切り掛かれば死ぬと、他ならぬ人を斬ってきた体が知っている。

 

「……化け物め」

 

 掠れた声が漏れた。

 

 源一郎は答えなかった。ただ、一歩踏み出した。たった一歩──。

 

 それだけで、用心棒の体が動いた──。いや、動かされたのだ。追い込まれた剣客の本能が刀を振らせる。咄嗟に放たれた上段からの渾身の一太刀。その太刀筋には長年の鍛錬で磨かれた技があった。並の相手なら確実に仕留める一撃。しかし──。

 

 後の先──源一郎の左の脇差が動いた。

 

 振り下ろされた刀身にピタリと合わせる。鋼が触れ合った刹那──シャリン、と涼やかな音が鳴った。

 

脇差の刃が用心棒の刀の鎬を削ぎながら滑り、その勢いごと地へと流したのだ。斬り合いとなる間合いを外した、一刀流の『切り落とし』の理そのもの──相手の力を受けず方向だけを逸らし、斬撃そのものを流し払う。脇差の短い刃の上で、それが寸分の狂いなく決まっていた。

 

 用心棒の刀の切っ先が床板に触れ、押さえ込まれた。

 

 その刹那、源一郎は踏み込んだ。十手の間合い──刀では近すぎるが、十手と体術にとっては、ここが本懐の距離。

 

 源一郎が今度は逃げることを許さぬとばかりに、用心棒の足の甲を踏みつけ──そしてそのまま右の十手が手の甲を強かに打つ。そのまま逆手に返し、鉄の柄で肋を穿った。深く、正確に捻じ込まれる。

 

「ぐ、がぁッ……!」

 

 激痛に声にならない息が漏れた。用心棒の膝が折れ、刀が手から滑り落ちる。その首筋に──脇差の刃が、静かに添えられた。

 

「──終いだ」

 

 源一郎の声は静かだった。

 

 用心棒は肋骨を庇い、板間に片手をついた。脂汗を流し、肩で息をしている。目だけが源一郎を見上げていた。そこにあったのは、憎悪でも屈辱でもない──戦慄。

 

 己が生涯をかけて積み上げてきたものの、その遥か上に、この男はいる。それを、剣を握る者であるがゆえに、誰よりも深く理解してしまった。

 

 用心棒が心折れたように項垂れた。

 

 ──その様を見ていた無頼の三人が、長ドスを取り落とした。刃物が畳に転がる音が三つ続く。源一郎は一言だけ言った。

 

「縛れ」

 

 もう、抗う者はいなかった。

 

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