源一郎は脇差を鞘に収め、廊下の突き当たりの座敷へ進んだ。障子は開いている。
六畳の座敷。神棚に灯明、仙元大菩薩の札。──人の気配は、ない。
畳には湯呑みが二つ。一つは座卓の上に。もう一つは座卓から離れた畳の上に転がり、零れた茶が、じわりと染みを広げている。まだ乾いていない。
──ここに、二人いた。
源一郎はそう読んだ。一人は徳次郎であろう。だが、もう一人が誰であったかは分からない。
座敷の奥、壁際の板戸が一枚、外されている。その向こうに、人一人がようやく通れるほどの、狭い通路が口を開けていた。
──隠し通路。
源一郎は身を滑り込ませた。肩が壁を擦る。闇は深いが、前方から夜気が流れてくる。外に通じているのだ。
通路を抜けると、月明かりの差す、細い裏路地に出た。町屋の板葺き屋根が低く連なり、長屋と長屋の隙間に、雑多な桶や木材、竹材が積まれている。振り返れば、源一郎が抜け出てきたのは、料理茶屋を囲う板塀の外に建つ、小さな納戸であった。
──その納戸の脇に、矢が一本落ちていた。
鏃には黒く血が乾いている。
源一郎は目を細めた。細い路地を歩みながら視線を巡らせる。
矢は一本ではなかった。まず納戸の脇に血のついた一本。半町ほど先の地面に一本。さらにその先、辻の角に一本。竹矢に鉄の鏃。いずれも深々と地に突き立ち、矢羽が夜風に揺れている。真新しい。つい先刻、射込まれたばかりのものだ。
源一郎は辻の角の一本を引き抜いた。手の中で転がし、矢羽の整え方を検める。羽の合わせに、寸分の狂いもない。素人の仕事とは思えない。弓を得物とする者が、確と吟味して整えた矢だ。
──卯木……いや。お絹殿、か。
その名が、脳裏に浮かんだ。確証は何もない。だが、この夜闇の中で、これだけの矢を狙い違わず射込める者となれば……まず彼女が思い浮かぶ。
──だが、何故ここに?
矢はある一方へ向けて、点々と打たれていた。逃げた者の道を、塞ぎ、逸らさせず、ただ一方へと追い立てるように。
源一郎は矢を帯に差し込み、その方角へ、歩を進めた。
§
──時を、少しばかり遡る。
徳次郎は闇の中を駆けていた。
狭い隠し通路を抜け、納戸から裏路地へ転がり出た、その刹那だった。風を裂く、微かな唸り。次の瞬間、右の太腿に焼けつくような痛みが走った。
「ぐっ──!」
見れば、腿の肉に矢が突き立っている。幸い、鏃に返しはついていないようだ──慌てて引き抜くと、じわりと血が滲んだ。深手というほどではない。だが、走るたびに脚が痺れ、思うように力が入らない。
──どこから射られた。
徳次郎は物陰に身を寄せ、低く構えて辺りを窺った。月明かりの差す路地に、人影はない。町屋の屋根の上にも、闇が蹲っているばかり。だが、確かに射手がいる。火盗改の手の者が、回り込んでいたか。
こうしていても埒が明かぬと、徳次郎は物陰を出た。脚を引きずりながら、路地をひた走る。この界隈の裏道は知り尽くしている。ひとまず鶴喜から離れ、観音裏を抜けて田圃の方へ出る。堀沿いに北へ走れば、追っ手を撒ける抜け道がいくつもある。
だが──走り出して、すぐだった。今度は足元に矢が突き立った。
路地を右へ折れようとした、その先の地面に。
徳次郎は咄嗟に足を止めた。右へ逸れるのをやめ、左の路地へ目をやる。途端、また矢が来た。左の路地口に、ぴたりと。
──やはり、どこかから見られている。
まるで、その道へ行かせまいとしている。ここを通れば容赦なく射るぞと──。右へ逸れれば矢。左へ逃げれば矢。ただ一本、まっすぐ伸びた暗い小路だけが、矢で塞がれずに残されていた。
──そこへ、行けと言うのか。
迷う暇はなかった。背後からは、荒々しい怒号が聞こえている。今にも足音が追ってくる心地がした。徳次郎は脚を引きずり、その一本の暗い小路へ駆け込んだ。
小路を抜けると、四つ辻に出る。辻の角には、小さな稲荷の祠がぽつりと立っていた。
──と、矢が止んだ。その四つ辻の、どの道にも矢は突き立たぬ。
あれほど執拗に、徳次郎の逃げ道を狭め、追い立ててきた矢が、ぱたりと飛んで来なくなった。徳次郎は少し迷った。どの道を進めばよいのか。だが、足は止めている暇などない。射られぬなら好都合、このまま走り抜けるまでと──。
§
どれほど、走ったか。
徳次郎は、ふと足を止めた。
息を切らし、辺りを見回す。月は雲に隠れ、辻に人気はない。両側に板塀がどこまでも続いている。もう、かなりの距離を走った。十町、いや、十一町あまりは走ったはずだ。
これで逃げ切れた。背後の音ももう聞こえない。そう安堵しかけて──徳次郎は立ちすくんだ。
目の前に立っているのは──さっきの稲荷の祠だった。
──おかしい。
四つ辻の角の、見覚えのある小さな祠。徳次郎が追い立てられるようにして小路を抜け出てきた、あの辻の──。徳次郎が立つのは、見覚えのある四つ辻だった。
「……馬鹿な。偶然だ」
徳次郎は己に言い聞かせた。伊勢屋、稲荷に犬の糞。稲荷の祠など江戸には掃いて捨てるほどある。道だって同様で、よく似た辻など幾らでもある。それだけのことだ。
それに、まっすぐ走ったのだ。一度も曲がっていない。なのに元の場所へ戻る道理がない。──そんなはずがあるものか。
徳次郎はもう一度走り出した。今度は真っ直ぐではなく、四つ辻の右へ。板塀の続く道に方向感覚が狂う──竹林に囲まれ月の位置もまともに見えなくなる。息が上がる。脚の傷が、ずきずきと疼く。やがて、また四つ辻に出た。
徳次郎は凝視した。
稲荷の祠が、またそこにあった。
徳次郎の背を冷たいものが伝う。
四つ辻から出られない──。歩いた道が、どこにも行き着かぬ。どの道を通っても、同じ場所に行き着く。まるで分岐が全て四つ辻の入り口に繫がっているように、ぐるぐると巡らされている。
──と、その時。
どこからともなく、音が湧いた。
どん、どん、と。腹の底に響く太鼓の音。祭の囃子のような──だが、祭にしては寂しく、遠い。それに混じって、ひゅるり、ひゅるりと笛とも口笛ともつかぬ甲高い音。山の上で岩場に吹きつけられた風が鳴るような、人を不安にさせるような奇妙な囃子。
徳次郎は身を竦めた。こんな夜更けに、こんな人気の無い場所で祭などあろうはずがない。
太鼓の音が近づく。あるいは、囲んでくるように。前からも、後ろからも、頭の上からも。逃げ込もうとする路地のその奥からも。振り返る──しかし、そこに音を鳴らす者の姿はなく、ただぽっかりと闇だけが踞るのみ。
恐ろしくなった徳次郎は耳を塞ぎ、よろめきながら走った。今度は四つ辻を左へ──。
またしても板塀の続く路地の先。しかし、途中から景観が変わった。そこには片側に並ぶ家々があり、その変化に徳次郎は安堵した。それに──人がいる。その障子には、ぼんやりと灯りが点っていたから。
だがしかし──ふと、気づく。
徳次郎はその違和感に息を呑んだ。
家々の障子には影が映っている。
通り過ぎる障子戸の一枚ごとに、影が浮かんでは消えるのだ。
最初の家の障子戸。──床に臥した女の影が、苦しげに身をよじっている。喉を掻きむしり、頭を幾度も振り回す。狂い走りの毒のように。徳次郎がお沙世に盛らせてきた、毒に苦しむ女の影のように。
次の障子戸。──首を括った男の影が、ゆらりと静かに揺れている。徳次郎の騙りに身代を奪われ、首をくくった商人がいた。その足元に、すがりつく女房子供がいたことを思い出す。
次の障子戸。──刃物を振りかざす男と、逃げ惑う者たちの影。畜生働き。徳次郎が邪魔者を消すために配下へ命じた、夜毎の。何度も繰り返し見た光景。
障子戸の一枚一枚が、徳次郎の犯してきた罪を影絵にして映しているかのようだった。
そして──障子の奥から声までもが滲み出てくる。
『恨めしい……』
『よくも……よくも……』
『返せ……娘を、亭主を、返せ……』
幾人もの声が、重なり、軋み、徳次郎の名を呼ぶ。怨み呪う声。
「やめろ……やめろッ!」
ゾッとした徳次郎はよろめきながら走った。脚を引きずり、家々の障子の列から逃れようとする。
だが、走る先の障子にも影は待っていた。女が狂乱し、狐憑きと成り果てた、日常が崩れる始まりの場面。
徳次郎が目を逸らし、障子戸の前を通り過ぎる。
すると──その障子戸の一枚に映った影が変化した。口が突き出、耳の生えた女の横顔の影がすうっと映り込む。
それは正しく狐の横顔であり……耳を塞ぎ、目を逸らす徳次郎に、確かにその視線を向けていたのだった──。