鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

137 / 137
第百三十二話

 

 源一郎は脇差を鞘に収め、廊下の突き当たりの座敷へ進んだ。障子は開いている。

 

 六畳の座敷。神棚に灯明、仙元大菩薩の札。──人の気配は、ない。

 

 畳には湯呑みが二つ。一つは座卓の上に。もう一つは座卓から離れた畳の上に転がり、零れた茶が、じわりと染みを広げている。まだ乾いていない。

 

 ──ここに、二人いた。

 

 源一郎はそう読んだ。一人は徳次郎であろう。だが、もう一人が誰であったかは分からない。

 

 座敷の奥、壁際の板戸が一枚、外されている。その向こうに、人一人がようやく通れるほどの、狭い通路が口を開けていた。

 

 ──隠し通路。

 

 源一郎は身を滑り込ませた。肩が壁を擦る。闇は深いが、前方から夜気が流れてくる。外に通じているのだ。

 

 通路を抜けると、月明かりの差す、細い裏路地に出た。町屋の板葺き屋根が低く連なり、長屋と長屋の隙間に、雑多な桶や木材、竹材が積まれている。振り返れば、源一郎が抜け出てきたのは、料理茶屋を囲う板塀の外に建つ、小さな納戸であった。

 

 ──その納戸の脇に、矢が一本落ちていた。

 

 鏃には黒く血が乾いている。

 

 源一郎は目を細めた。細い路地を歩みながら視線を巡らせる。

 

 矢は一本ではなかった。まず納戸の脇に血のついた一本。半町ほど先の地面に一本。さらにその先、辻の角に一本。竹矢に鉄の鏃。いずれも深々と地に突き立ち、矢羽が夜風に揺れている。真新しい。つい先刻、射込まれたばかりのものだ。

 

 源一郎は辻の角の一本を引き抜いた。手の中で転がし、矢羽の整え方を検める。羽の合わせに、寸分の狂いもない。素人の仕事とは思えない。弓を得物とする者が、確と吟味して整えた矢だ。

 

 ──卯木……いや。お絹殿、か。

 

 その名が、脳裏に浮かんだ。確証は何もない。だが、この夜闇の中で、これだけの矢を狙い違わず射込める者となれば……まず彼女が思い浮かぶ。

 

 ──だが、何故ここに?

 

 矢はある一方へ向けて、点々と打たれていた。逃げた者の道を、塞ぎ、逸らさせず、ただ一方へと追い立てるように。

 

 源一郎は矢を帯に差し込み、その方角へ、歩を進めた。

 

 §

 

 ──時を、少しばかり遡る。

 

 徳次郎は闇の中を駆けていた。

 

 狭い隠し通路を抜け、納戸から裏路地へ転がり出た、その刹那だった。風を裂く、微かな唸り。次の瞬間、右の太腿に焼けつくような痛みが走った。

 

「ぐっ──!」

 

 見れば、腿の肉に矢が突き立っている。幸い、鏃に返しはついていないようだ──慌てて引き抜くと、じわりと血が滲んだ。深手というほどではない。だが、走るたびに脚が痺れ、思うように力が入らない。

 

 ──どこから射られた。

 

 徳次郎は物陰に身を寄せ、低く構えて辺りを窺った。月明かりの差す路地に、人影はない。町屋の屋根の上にも、闇が蹲っているばかり。だが、確かに射手がいる。火盗改の手の者が、回り込んでいたか。

 

 こうしていても埒が明かぬと、徳次郎は物陰を出た。脚を引きずりながら、路地をひた走る。この界隈の裏道は知り尽くしている。ひとまず鶴喜から離れ、観音裏を抜けて田圃の方へ出る。堀沿いに北へ走れば、追っ手を撒ける抜け道がいくつもある。

 

 だが──走り出して、すぐだった。今度は足元に矢が突き立った。

 

 路地を右へ折れようとした、その先の地面に。

 

 徳次郎は咄嗟に足を止めた。右へ逸れるのをやめ、左の路地へ目をやる。途端、また矢が来た。左の路地口に、ぴたりと。

 

 ──やはり、どこかから見られている。

 

 まるで、その道へ行かせまいとしている。ここを通れば容赦なく射るぞと──。右へ逸れれば矢。左へ逃げれば矢。ただ一本、まっすぐ伸びた暗い小路だけが、矢で塞がれずに残されていた。

 

 ──そこへ、行けと言うのか。

 

 迷う暇はなかった。背後からは、荒々しい怒号が聞こえている。今にも足音が追ってくる心地がした。徳次郎は脚を引きずり、その一本の暗い小路へ駆け込んだ。

 

 小路を抜けると、四つ辻に出る。辻の角には、小さな稲荷の祠がぽつりと立っていた。

 

 ──と、矢が止んだ。その四つ辻の、どの道にも矢は突き立たぬ。

 

 あれほど執拗に、徳次郎の逃げ道を狭め、追い立ててきた矢が、ぱたりと飛んで来なくなった。徳次郎は少し迷った。どの道を進めばよいのか。だが、足は止めている暇などない。射られぬなら好都合、このまま走り抜けるまでと──。

 

 §

 

 どれほど、走ったか。

 

 徳次郎は、ふと足を止めた。

 

 息を切らし、辺りを見回す。月は雲に隠れ、辻に人気はない。両側に板塀がどこまでも続いている。もう、かなりの距離を走った。十町、いや、十一町あまりは走ったはずだ。

 

 これで逃げ切れた。背後の音ももう聞こえない。そう安堵しかけて──徳次郎は立ちすくんだ。

 

 目の前に立っているのは──さっきの稲荷の祠だった。

 

 ──おかしい。

 

 四つ辻の角の、見覚えのある小さな祠。徳次郎が追い立てられるようにして小路を抜け出てきた、あの辻の──。徳次郎が立つのは、見覚えのある四つ辻だった。

 

「……馬鹿な。偶然だ」

 

 徳次郎は己に言い聞かせた。伊勢屋、稲荷に犬の糞。稲荷の祠など江戸には掃いて捨てるほどある。道だって同様で、よく似た辻など幾らでもある。それだけのことだ。

 

 それに、まっすぐ走ったのだ。一度も曲がっていない。なのに元の場所へ戻る道理がない。──そんなはずがあるものか。

 

 徳次郎はもう一度走り出した。今度は真っ直ぐではなく、四つ辻の右へ。板塀の続く道に方向感覚が狂う──竹林に囲まれ月の位置もまともに見えなくなる。息が上がる。脚の傷が、ずきずきと疼く。やがて、また四つ辻に出た。

 

 徳次郎は凝視した。

 

 稲荷の祠が、またそこにあった。

 

 徳次郎の背を冷たいものが伝う。

 

 四つ辻から出られない──。歩いた道が、どこにも行き着かぬ。どの道を通っても、同じ場所に行き着く。まるで分岐が全て四つ辻の入り口に繫がっているように、ぐるぐると巡らされている。

 

 ──と、その時。

 

 どこからともなく、音が湧いた。

 

 どん、どん、と。腹の底に響く太鼓の音。祭の囃子のような──だが、祭にしては寂しく、遠い。それに混じって、ひゅるり、ひゅるりと笛とも口笛ともつかぬ甲高い音。山の上で岩場に吹きつけられた風が鳴るような、人を不安にさせるような奇妙な囃子。

 

 徳次郎は身を竦めた。こんな夜更けに、こんな人気の無い場所で祭などあろうはずがない。

 

 太鼓の音が近づく。あるいは、囲んでくるように。前からも、後ろからも、頭の上からも。逃げ込もうとする路地のその奥からも。振り返る──しかし、そこに音を鳴らす者の姿はなく、ただぽっかりと闇だけが踞るのみ。

 

 恐ろしくなった徳次郎は耳を塞ぎ、よろめきながら走った。今度は四つ辻を左へ──。

 

 またしても板塀の続く路地の先。しかし、途中から景観が変わった。そこには片側に並ぶ家々があり、その変化に徳次郎は安堵した。それに──人がいる。その障子には、ぼんやりと灯りが点っていたから。

 

 だがしかし──ふと、気づく。

 

 徳次郎はその違和感に息を呑んだ。

 

 家々の障子には影が映っている。

 

 通り過ぎる障子戸の一枚ごとに、影が浮かんでは消えるのだ。

 

 最初の家の障子戸。──床に臥した女の影が、苦しげに身をよじっている。喉を掻きむしり、頭を幾度も振り回す。狂い走りの毒のように。徳次郎がお沙世に盛らせてきた、毒に苦しむ女の影のように。

 

 次の障子戸。──首を括った男の影が、ゆらりと静かに揺れている。徳次郎の騙りに身代を奪われ、首をくくった商人がいた。その足元に、すがりつく女房子供がいたことを思い出す。

 

 次の障子戸。──刃物を振りかざす男と、逃げ惑う者たちの影。畜生働き。徳次郎が邪魔者を消すために配下へ命じた、夜毎の。何度も繰り返し見た光景。

 

 障子戸の一枚一枚が、徳次郎の犯してきた罪を影絵にして映しているかのようだった。

 

 そして──障子の奥から声までもが滲み出てくる。

 

『恨めしい……』

『よくも……よくも……』

『返せ……娘を、亭主を、返せ……』

 

 幾人もの声が、重なり、軋み、徳次郎の名を呼ぶ。怨み呪う声。

 

「やめろ……やめろッ!」

 

 ゾッとした徳次郎はよろめきながら走った。脚を引きずり、家々の障子の列から逃れようとする。

 

 だが、走る先の障子にも影は待っていた。女が狂乱し、狐憑きと成り果てた、日常が崩れる始まりの場面。

 

 徳次郎が目を逸らし、障子戸の前を通り過ぎる。

 

 すると──その障子戸の一枚に映った影が変化した。口が突き出、耳の生えた女の横顔の影がすうっと映り込む。

 

 それは正しく狐の横顔であり……耳を塞ぎ、目を逸らす徳次郎に、確かにその視線を向けていたのだった──。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

怪異をぶちのめす(作者:富士伸太)(オリジナル現代/冒険・バトル)

ガッツで耐えつつ被ダメを攻撃力に変えて浪漫砲を撃つバーサーカー構成で、事故物件つかまされた被害者やよくわからんフラグを踏んだだけの被害者を殺しにくる日本の理不尽系怪異をぶちのめしていこうと思います。▼※カクヨムにも掲載しています 


総合評価:4247/評価:8.54/連載:41話/更新日時:2026年05月17日(日) 21:42 小説情報

プリミティブ・プライメイツ ~暴君転生~(作者:翠碧緑)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

気が付くと、俺は人間と魔族が争うクソみたいな世界で、赤ん坊として捨てられていた。▼孤児院で育ち、飢えと貧困に耐える日々。▼そんな中、外見の特徴を理由に貴族に拾われる。▼どうやら俺の血には「特別な何か」が混じっているらしい。▼理不尽(暴力)。▼理不尽(陰謀)。▼そして、逃れられない理不尽(因果)。▼それでも、俺は生きることを諦めない。▼「そっちがそう来るなら、…


総合評価:5945/評価:9.19/連載:134話/更新日時:2026年05月26日(火) 20:23 小説情報

バスタード・ソードマン(作者:ジェームズ・リッチマン)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

それなりに強力なギフトを持って異世界に転生したものの、モングレルには大きな野望も志もなかった。▼やろうと思えば強い魔物も倒せるし、世界を揺るがす先進的な知識もなくはない。▼だが、そうして活躍することによって生まれる軋轢やトラブルを考えると、保身に走ってしまうのが彼の性格だった。▼ギルドで適当に働いて、適当に飲み食いして、時々思いつきで何かをする。▼これは中途…


総合評価:127283/評価:9.17/連載:427話/更新日時:2026年06月13日(土) 01:28 小説情報

ミリ知ら転生超銀河悪役領主(作者:新人X)(オリジナルSF/戦記)

1mmも知らないSFファンタジーRPGのストーリー序盤で死ぬ帝国貴族に転生したストラテジーゲーマーが、ストーリーをガン無視で人型機動兵器を開発して覚悟ガンギマリの激重秘書官と一緒に銀河制覇を目指す話▼※この作品は『小説家になろう』『カクヨム』にも掲載しています。


総合評価:6285/評価:8.31/連載:43話/更新日時:2026年03月18日(水) 18:05 小説情報

おつかれ勇者とつるぎの魔女(作者:調味のみりん)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

▼『伝説の調律者となり、世界の英雄と共に魔王を討て!』▼
——そんなキャッチコピーで人気を集めたソシャゲ『ハールドファンタジア』。▼ガチャからは星6レアが排出され、プレイヤーは英雄たちと絆を結び、壮大な物語を描いていく……はずだった。▼だが、星5キャラ『王国の勇者ルーク』は違った。
性能は平凡、メインストーリーにはほとんど登場せず、誰からも忘れられた存在。▼…


総合評価:24824/評価:9.45/連載:96話/更新日時:2026年06月10日(水) 23:25 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>