鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百三十三話 狐変化

 

 ──障子戸の家並みを抜けると、不意に視界が開けた。

 

 町人地を抜け、町屋が途切れたのだ。

 

 その代わり目の前に広がっていたのは、田圃だった。月明かりに、稲が黒々と波打っている。刈り入れにはまだ間がある。重く実った穂が、夜風に押されて、ざわり、ざわりと頭を垂れて揺れていた。田と田の間を畦が細い筋となって闇の奥へと延びている。新吉原のものか──遠くに、ぼんやりとした灯りの群れがにじんで見えた。

 

 ──ここまで来たか。

 

 徳次郎は束の間安堵した。田圃に出れば見通しがいい。隠れる場所はないが追っ手もまた、身を隠せぬ。あとは畦道を伝いながら更に北に移動し、新堀川へ出れば舟が──。

 

 そう考えていた時だった。畦道の向こうに女が立っているのが見えたのは。

 

 月明かりの中、こちらに背を向けて。ほっそりとした肩、結い上げた髪。見覚えのある、その立ち姿。

 

 女が振り返り、徳次郎を見て控え目に手を上げた。──こちらへ、こちらへと手招きしている。

 

「誰だ……お沙世……?」

 

 徳次郎の喉から、掠れた声が漏れた。

 

 近江屋へ引き込みに入っていたはずの女。そして、火盗改に引っ立てられたと繋ぎが入った。その女が何故ここに──?だが──今はそんな理屈はどうでもよかった。見知った顔だ。気心の知れた己の女。

 

 徳次郎はよろめきながら駆けた。脚を引きずり、転びかけてはまた持ち直し、女の立つ畦道の向こうへと急ぐ。

 

「お沙世ッ……無事だったか……!」

 

 辿り着いた、女の元。お沙世は微笑んでいた。そして囁くように言った。

 

「お頭。──ご無事で、何よりでございます」

「おう……お前こそ……しかし、繋ぎでは火盗改に……」

「何とか逃げてまいりました。今は、お頭をお迎えにと。──さあ、こちらへ。新堀に舟を押さえてございますから」

 

 その声に徳次郎の強張った肩から、ふっと力が抜けた。

 

 ──助かった。

 

 脚の痛みも、背を追ってきた怪異も、束の間、遠のいた。膝ががくりと折れそうになる。徳次郎は、一気に力が抜けたように深く溜息を吐いた。

 

「……すまねぇ。手前は、お前らを置いて逃げる気で……肝の小せぇ話だ。お前を捨てて己一人助かろうと──」

「いいんですよ、お頭」

「よくねぇさ。だが……生きてた。お前が生きてた。それだけで御の字よ」

 

 徳次郎は手の甲で目元を乱暴に拭った。だが、その安堵はすぐに別の色に染まっていく。腹の底で燻っていた熾火が、息を吹き返したように熱を持ち始めた。

 

「……にしても、火盗のやつらめっ……!豊川稲荷の使いに扮して店に入っただと?馬鹿にしやがって……」

「お頭……」

「神仏を騙りやがって。神使の真似事なんざ、むしろ奴らこそ罰当たりじゃねぇか」

 

 徳次郎の声が次第に低く、ねばついていく。

 

「たしか……鬼切とか言ってたか。忘れやしねぇぞ。全部台無しにしやがって……。いいか、お沙世。この屈辱は、必ず晴らさせて貰う。きっとだ。喉笛に喰らいついてでも、その面に泥を塗ってやる」

 

 お沙世は何も言わなかった。ただ静かに、徳次郎の言葉を受け止めているように見えた。徳次郎はそれを己への同意と取り、いっそう熱を上げた。

 

「逃げ延びて、東海道あたりで銭を貯めて、人を集め直す。もういっぺん初手からだ。そんで今度こそ──」

 

 そこまで言って、徳次郎はふと言葉を切った。熱に浮かされていた頭の隅で、冷徹な考えがもたげてきたのだ。

 

「……だがよ。そもそも、何でこんなことになった」

 

 徳次郎はお沙世を置いて、畦道の先へと足を踏み出す。

 

「考えてみりゃあ、おかしいだろうがよ。あの店の仕掛けは綺麗に運んでた。火盗が嗅ぎつけてくる筋合いなんざ、どこにもなかったはずだ。──なのに、何で割れた」

 

 徳次郎の足が、また止まった。今度は安堵からではない。胸の底から、別の熱がせり上がってくる。

 

「そもそもだ──!これも全てテメェが、しくじったせいじゃねぇかっ……!火盗改に嗅ぎつけられやがって。引き込みのテメェがどっかでボロを出したに決まってる。テメェがもう少し、上手く立ち回っていれば、俺ぁ、こんな泥ン中、逃げ惑うこともなかった……!おい、聞いてんのか──」

 

 言いかけて徳次郎は口をつぐんだ。

 

 背後からの返事がないのだ。

 

 いつもなら「申し訳ございません」と、しおらしく詫びる女だ。それがひと言もない。ただ、しん、と静まり返っている。

 

 妙な予感がしてきた徳次郎は足を止め振り返った。

 

 すると……お沙世がその場に立ったまま徳次郎を見ていた。

 

 ──笑みの消えた、冷たい表情で。

 

 さっきまで微笑んでいたその顔から、笑みが消えていた。代わりにあったのは、能面のようなのっぺりとした無表情。だが──目だけが、じっとりと徳次郎を見据えている。瞬きもせぬ、感情の籠もらぬ眼で。

 

「……お、おい、お沙世……」

 

 徳次郎は思わず半歩、後ろへ退いた。

 

 何かがおかしい。背筋を得体の知れぬものが、這い上がってくる。理屈ではない。獣が危険を嗅ぎ取るような、生命の危機を報せる本能が警鐘を鳴らしていた。

 

 徳次郎は更に後退った。一歩、二歩と。畦を踏み外し、足が湿田の泥にずぶりと沈んだ。

 

 お沙世が徳次郎の後退りに合わせるよう、すっと一歩踏み出した。無表情のまま。視線だけを徳次郎に向けたまま。

 

「……どォしたんですカぁ、オ頭ぁ──」

 

 声が低く、くぐもって聞こえた。人の口が出すにはどこか調子の狂った響き。

 

 月明かりに照らされた、お沙世の双眸。その黒目が、すうっと細く縦に裂けた。

 

 そして、その時になってようやく気づいた。田圃に落ちた徳次郎に差し伸べられたお沙世の手。その手指がいつの間にか灰黒の毛に覆われていることに。これの正体はお沙世ではない、と──。

 

「ひっ──」

 

 その差し出された手を振り払おうとした、その刹那。お沙世の顔がぐにゃりと歪んだ。

 

「どう、シて……」

 

 鼻が伸び、引っ張られるように口がずるりと前へ突き出、頬がパックリと裂けた。その隙間から赤色が覗く。吊り上がった目が金色に光る──結い髪の間から尖った耳がぴくりと立ち上がった。

 

 ──狐。

 

 化けの皮が剥がれたように、女の顔が狐の面相に変じていた。それはまるで狐に憑かれた女の深い怨みが現れたかのように。

 

「う、うわぁああッ──!」

 

 徳次郎は今度こそ悲鳴を上げて身を翻した。

 

 脚の傷も忘れていた。湿田の中へ転がるように分け入り、稲を掻き分け、泥に塗れて、無我夢中で逃げる。這々の体とは、まさにこのことだった。裾が泥を吸って重い。草履はとうに片方脱げていた。

 

 背後で稲の擦れる音がした。

 

 ざ、ざ、ざ、と。何かが、稲をかき分けて追ってくる。徳次郎と同じ速さで。いや、それより速く。しかし、追いつきはしないという遊びを持って。

 

『オ頭ぁ』

 

 すぐ後ろで声がした。

 

『待っテェ、ドこへ行クのぉ』

 

 稲の擦れる音に混じって、あのくぐもった声が徳次郎の名を呼ぶ。

 

『オ頭の犯シタことは──みぃンな、知ってルんだかラぁ……逃がさナイよぉ』

 

 振り返る勇気は、なかった。振り返ればあの金色の眼がすぐ後ろにあるような気がしたから。

 

「来るな……来るなぁ……ッ!」

 

 ようやく田を突っ切ると、足が固い土を踏んだ。別の畦道。徳次郎はその畦道を北へ北へと駆けた。だが──逃げ込む先の闇の奥から声が湧く。

 

『──逃がさナイィ』

 

 右の田から。

 

『──ドコへ行くのぉ』

 

 左の田から。

 

『──待ッテヨォ、オ頭ァ』

 

 頭の上、夜闇の中から。

 

 声は一つではなかった。男のような、女のような、年寄りのような、子供のような──。あらゆる声が彼方此方から、ケタケタと徳次郎を嬲るように呼びかけてくる。

 

 それに何も聞こえぬと耳を塞ぎ、我武者羅に畦道を駆けた。

 

 徳次郎はもうどこをどう走っているのかも分からなかった。畦道を駆け、藪を抜け、ただ遠くに見える新吉原の灯りを頼りに進む。

 

 と──畦道の行く手が、ふいに三つに分かれた。今度は畦道と畦道の交差路──新たな四つ辻。

 

 その道端に、小さな石の道祖神が据えられていた。風雨に削られ、像の表情どころか姿形も判然としない。里と里の境を守り、外から来る災いを防ぐという村の神。月明かりの中、それはポツリと浮かぶように存在していた。

 

 ──どちらへ行けばいい。右か、左か、まっすぐか。徳次郎は息を切らし、四つ辻の真ん中で数瞬立ち竦む。

 

 ふと……道祖神に視線が向かう。崩れて在るはずもない目鼻の、その削れた窪みが──此方を見ているような気がした。

 

「気味が悪ぃ……」

 

 ぞわりと総毛立って、慌てて徳次郎は目を逸らした。気のせいだ。ただの石くれ。そう己に言い聞かせ、新吉原の灯りの方を向いて辻を折れた。

 

 いい加減、ゼェゼェと息が切れていた。

 

この僅かな時間にどれ程、駆けたか。ただ、声から、眼から、追っ手から逃れたい一心で我武者羅に脚を動かした。脚の傷が裂け、血で足を濡らすほどには。

 

 しかし、それが功を奏したのか、背後からは声が聞こえなくなり──恐る恐る振り返る。『狐となった女たち』は遠く畦道の向こうに立ちつくしている。

 

 ──引き込み役に毒を盛らせて、憑き物に仕立て上げた。そして、狐憑きと呼ばれ身の置き場の無くなった娘を拾い上げては、悪事に加担させ散々に利用し尽くしてきた。

 

 そんな女たちの怨みの籠もった眼差し。しかし、最早追い掛けることもなく、ただただ遠くから徳次郎をじっと見ているばかり。

 

 ──だが、諦めた訳ではないのだろう。

 

 彼女たちは嗤っていたのだから。歪む口元。仄暗い愉悦。悪事の代償。むしろ、まるでその道の先に何が待つかを知っているかのように。そこで徳次郎がどんな目に遭うかを愉しみにしているかのように──。

 

 

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