鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百三十四話 天狗の問答

 

 狐となった女たちに追いつかれぬよう、息を切らして逃げ続ける。月の位置すら定まらぬ。道を違えている訳ではない──しかし、右にあったはずの月が、いつの間にか左にある──そのことにすら疑問を抱かず。

 

 ──それは、畦道が異界と化していることを示す。

 

 逃げて、逃げて、逃げて──その畦道を進み続けて。しかし、どれだけ歩いても新吉原にも、新堀川にも辿り着くことは出来ず、やがて……もう何度目かも分からない交差路に出た。

 

 徳次郎は肩で息をしながら、その辻を見渡した。畦が三方に延びている。道端に石碑がポツリと立っているのが目に入った。

 

 ──道祖神。

 

 見覚えのある光景。

 

 そこは先ほども通った辻だ。あれほど時間を掛けたのに、徳次郎はまた振り出しへと戻されていた。

 

 絶望。疲労困憊。身体は石のように重く、脚が震えて言うことをきかない。歩く気力も萎えていた。

 

 月明かりを吸収した道祖神の石肌が、ぬらりと濡れて見える。崩れた目鼻の輪郭。その削れ、丸みを帯びた窪みは、やはり徳次郎をじっと見据えているように思える。

 

 徳次郎は最早、怪異の存在を疑ってはいなかった。

 

「た、助けてくだせぇ……お地蔵さま、道祖神さま、どうか……どうか、お助けを……人のいる場所取りに通してくだせぇ……」

 

 道祖神に向かって、必死に縋りつき手を合わせた。

 

 すると──月明かりの下、古びた石像がぞろりと動いた。目の錯覚などではない。首がゆっくりと巡り、のっぺりとした窪みが徳次郎に向く。

 

 そして──にたり、と。形を失いかけた口が、ぐにゃりと弧を描いて嗤った。古びた石像が、徳次郎の懇願を嘲笑っていた。

 

「ひっ、ひいぃっ……」

 

 徳次郎は仰け反って尻餅をついて転がり、泥塗れとなりながら身を起こした。重い身体を引きずっては、道祖神から離れる。そして、少しでもその場から離れるために、またトロトロと分岐の一本道を歩み出す。

 

§

 

 ──どれほど歩みを進めたのか。半刻か、それとも四半刻か……いくら歩みを進めても、やはり灯りには近づけないまま。

 

 灯りは見えている。だが、近づくどころか逃げ水のように、進めば進むほど遠ざかっているように思えた。華やかな人の町はすぐそこに見えているのに、どうしてもそこに辿り着けない。

 

 まるで見えぬ手で押し戻されているかのように。

 

 ──そして気づけば、またあの四つ辻に立たされている。

 

 道端には道祖神がぽつりと立つ。嗤笑だった表情が、怒りを滲ませる歪みに変わっていた。

 

「な、なんでだ……なんで……おれがなにをしたって……」

 

 徳次郎は、がくがくと膝を震わせ頽れた。もはや逃げ場はどこにもなかった。

 

 ザワザワと稲穂が風に擦れて波を作り、音を鳴らす──。それが徳次郎を嘲笑っているようにも聞こえ、夜の全てが責め苛んでいるようであった。

 

「ゆ、ゆるして……もう、ゆるしてくれぇっ……」

 

 徳次郎の心が絶望に満ちたその時──不意に、生暖かい風が辻を巻いた。

 

 闇の中から、けたたましい高笑いが響く。

 

『カ、カ、カ、カ、カ……ッ!』

 

 山中での木霊のような、反響を伴った大哄笑。畦の彼方から、稲穂の波から、広がる夜闇の中から。どこにも姿はないのに笑い声だけが夜気を震わせる。

 

 ──天狗笑い。

 

 そして、天狗の礫と呼ばれるもの。どこからともなく、小石や砂がバラバラと飛んでくる。徳次郎の額に、肩に、背に降り注ぐ。痛みはさほどでもない──だが、次から次に起こる異常の、その不気味さに徳次郎の心は確かに削られていった。

 

「ひっ……いやだ……もういやだっ……なんなんだ……なんなんだよ、いったいっ……どうして、おればかりがこんな……こんな、めにあわなきゃならねぇ……!」

 

 草の蒸されたような濃い匂いと、山の樹々の香りを孕んだ一陣の風──否、渦巻く旋風。稲がいっせいに、ざああっと身をうねらせる。その風の唸りに重なって、低くよく通る声が頭上から降ってきた。

 

『──おぬしが、徳次郎とやらか』

 

 しゃらん、と。

 

 その声に重なって、地に着いた錫杖の遊環が鳴った。

 

 しゃらん、しゃらん、と。鉄の輪が触れ合う澄んだ音。山伏や僧が歩む時の、あの音だ。それが夜更けの辻に涼やかに、しかし鋭く響く。

 

 徳次郎はびくりと顔を上げた。

 

 四つ辻の真ん中。道祖神の傍ら。吹き荒んだ風が凪ぎ、月明かりの差すその一点に、いつの間にか人影が立っていた。

 

 異様な背丈。山伏の装束に、一本下駄。その顔は赤黒く、鼻が天を突くほどに高く、長い。そして、手には黒い羽団扇、背には大きな黒い翼。

 

 ──最も有名な山の怪、天狗の姿がそこにあった。

 

「ば、ばけもの……」

 

 徳次郎はがたがたと震えた。

 

 天狗──俊源坊は錫杖の石突きを、こつ、と地に突いた。遊環が、また、しゃらんと鳴る。ぎょろりとした目が徳次郎を見下ろしていた。

 

『クク……見ていたぞ。逃げ惑うておったな。あちらへ走り、こちらへ走りと、堂々巡り。──だが、いくら駆けたとて、おぬしはこの道から出られはせん。何故か、分かるか』

 

 徳次郎は答えられなかった。ただ、狼狽え、恐れをなした様子で首を横に振る。

 

『──境よ』

 

 天狗は傍らの道祖神を、羽団扇の先で指した。

 

『その碑は、賽の神。里と里の境を守り、外の災いを内へ入れぬ神。──内に穢れを閉じ込め、外へ出さぬ神でもある。おぬしのごとき汚れた者は、人の住まう町へは通さぬということよ』

 

 徳次郎が唖然と言葉を失った。

 

『して──おぬしをここへ招いたのは、この儂』

 

 天狗の声が、辺りの闇に、ずん、と重く響いた。

 

「まね、いた……?」

『そうよ。問答をいたそう。是非とも、おぬしの答えが聞きたくてな』

「な、なにを……」

『おぬしも富士講の講元先達ならば、話くらいは知っていよう。天狗に遭遇した者は、問いを掛けられる。これが我らの習い。──正しく答えれば、通してやらんでもない。答えに窮すれば──そのまま、魂を持っていく。古来より、天狗とはそういうものよ』

 

 徳次郎は、ひっく、と喉を鳴らした。逃げようと後ろへ身を引く。だが、足が動かない。地に縫い止められたように一歩も退れられなかった。

 

『逃がしはせぬ。──さて』

 

 俊源坊はぎょろりとした目を、すうと細めた。赤黒い面に底の知れぬ笑みが滲む。

 

『おぬし、富士のお山を拝んでおるそうだな。仙元大菩薩を信心しておるとか』

 

 その声は咎めるでもなく、嘲るでもなく、ただ静かに問うた。

 

「は……はい。てまえは……みろくさまの、おしえにしたがい、よを……よをただそうと──」

『世を正す、と申すか』

 

 天狗が、ずいと顔を寄せた。赤い面が月明かりに、ぬっと迫る。

 

『食行身禄は、弥勒の世を説いた。富士から開ける、飢えもなく、貴賤の隔てもなき、誰もが等しく救われる世をな。──おぬしの申す「世直し」も、それか』

「さ、さようで……てまえは……その、よのために──」

『では問おう』

 

 天狗の声が、低くなった。

 

『おぬしが世を直しを行ったあとに、誰が救われた。おぬしが毒を盛らせた娘──あれらは救われたか。身代を奪われ、首を括った商人──あれは弥勒の世に近づいたと言えるのか』

「そ、それは……」

『おぬしの嘯く世直しとやらの先にあったのは、弥勒の世からはほど遠い苦悩と、死穢に満ちておる。無実の娘が狂い、商人、女房子供が命脈を絶つ。──それで、いつ弥勒の世が来る。まさか、その者らが弥勒の世に相応しくなかったからとは……言うまいな』

 

 天狗の威圧に、徳次郎は慄くばかりで答えられなかった。

 

『……まったく、難儀な御託を並べたものよ。弥勒の世だの、世直しだの──ワシに言わせれば人の説く救いなどどれも眉唾でしかない』

 

 天狗は、ふん、と鼻を鳴らした。

 

『だが、あの食行は、己が口で説いたことを、その身で通した。そこだけは買うてやらんでもない。──しかし、おぬしは食行の名を借りて欺瞞とした。世を憂いた行者の名を使い、借りた名で世に毒を撒く。逆しまではないか』

「……っ」

 

 ぐ、と徳次郎は喉を鳴らした。

 

 天狗は、ふと、徳次郎の背後へ目をやった。畦道の彼方、月明かりに照らされた女たちの影がぼんやりと佇んでいる。

 

『いま一つ、問おう』

 

 その声に刃のような冷たさが宿る。

 

『食行は、女人の救いを願うておったそうだな。女人は富士に登ることを許されず、穢れを持つと退けられる世にあって──彼女らもまた等しく救われると、そう説いた。女人の登拝が許されるよう、生涯を費やしてな』

「……」

『その者の教えを、おぬしは尊んでおったのだろう。毎日、神棚に手を合わせ、教えを唱えながら』

 

 徳次郎の顔から、血の気が引いた。

 

『なれば、なぜ──おぬしの毒は、いつも女人に盛られた。なぜ、おぬしの引き込みは、いつも女人であった。利用し、騙し、使い潰し、踏みつけにしてきたのが──ことごとく、女人であったのは何故だ』

 

 答えよ、徳次郎──と、天狗の問答。しかし、何も答えられないでいると──天狗が羽団扇で、ゆっくりと徳次郎の背後を指し示した。

 

『見よ。おぬしが踏みつけにしてきた者らが、そこにおる。──女人を救うと願うた者を敬いながら、おぬしは女人ばかりを現の地獄へ突き落としてきた。これを瞞着と言わずして何と言う』

 

 徳次郎は、背後を振り返ることができなかった。背に幾つもの視線が突き刺さるのを感じていた。

 

『おぬしは奪いたいから、奪った。それだけのことよ。教えなどとは言うが──その実、己の欲を隠すための口実に過ぎぬ』

 

 断言され、徳次郎の思考が止まる。

 

 ──違う。違う。手前は真剣に神のために、世のために……

 

 反論し、叫ぼうとして叫べなかった。心の底でずっと蓋をしてきたものが鎌首をもたげた。

 

 ──本当は分かっていた。

 

 毎日、胸の奥で疼くものを抱えていた。女たちが毒に蝕まれるのを見た時の仄暗い快感。立場の弱い者をいたぶり支配する歓び。商人が首を括ったと聞いた夜の酒は美味かった──。

 

 そんな邪な欲望を信心で覆い隠してきた。神に祈れば全てが許される。己は天から与えられた役目を果たしている。これは世に金を回すための世直し、必要な事なのだと。そう言い聞かせて。

 

 だが──それは結局はただの建前であり、本心を覆い隠すものでしかないと。

 

『気づいたか』

 

 赤い顔が月明かりに歪む──天狗が目を見開き、凄絶な笑みを浮かべた。

 

『おぬしの縋った神は、おぬしを初めから許してなどおらぬのだろう。おぬしが許されたと思い込みたかった、それだけのこと。──罪を神に肩代わりさせて、己は知らぬ顔をしてきたのみ』

「ち、ちがっ……」

『違わぬ。では──おぬしに、一つ教えを授けてやろう』

 

 俊源坊は、錫杖をゆっくりと持ち上げた。

 

『山にはな「のぞき」という行がある。崖の縁から、身を宙へ乗り出すのよ。足の下には底のない谷。指一本、岩を放せば真っ逆さま。──行者はそこで、一度死ぬ』

 

 遊環がしゃらんと鳴る。

 

『己が地に縛られて生きておるのは当たり前のことと皆が思うておる。足の下には大地があり、頭の上に天がある。それが揺るがぬ、この世の理だとな。──だが、その理をひとたび引っくり返してみよ。何が起きると思う』

 

 天狗は羽団扇をゆらりと構えた。

 

『拠り所が消えるのよ。足を着けるべき大地が消える。己が己であることの土台が消える。人は地を這う生き物──人が正気でおれるのは足の下に確かな地があるからだ。それを奪われた者は、己を己として保てぬ』

 

 俊源坊の声に圧が帯び、ぐっと低まった。

 

『天狗が人を攫う時、まずすることがそれよ。空へ、引きずり上げる。天地の分からぬところへ放り込む。──そうして、その者の正気の根を断つ。地に足の着かぬ者は容易く我らの理に呑まれるでな』

 

 天狗の口が、にいと、吊り上がった。

 

『おぬしは信心を建前に、己の罪から目を逸らしてきた。地に足を着けて、己の悪欲を省みようとはせなんだ。──ならば、その足の下の地を、我が取り上げてやろう。天地の引っくり返ったところとなれば、しかと己の罪と向き合えるだろうよ』

 

 その言葉の意味を、徳次郎は解せなかった。否、解したくなかった。ただ、天狗の声に滲む底知れぬ気配に、全身の毛が逆立った。

 

 ──早く……一刻も早く逃げなければ。

 

 徳次郎の中で、理屈を飛び越えて本能じみた恐怖がそう叫んだ。

 

「い、いやだ……いやだッ……!」

 

 地面に縫い付けられていたように感じた脚が動いた──。そのまま徳次郎は転がるように身を翻し、畦道を駆け出した。だが、その行く手に──狐に変化した女たち。金色の眼を細め、裂けた口でニタニタと嗤いながら逃げ道を立ち塞いでいる。

 

「ぐぅッ──!」

 

 徳次郎はとっさに畦を踏み外し、稲の波打つ田圃の中へと分け入った。逃げ場を求め、夢中で稲を掻き分ける。重く実った穂が、ざわり、ざわりと身をうねらせ、徳次郎の行く手を阻む。泥に足を取られ、それでも我武者羅に、闇雲に。

 

 背後から女たちの嗤い声が聞こえる。頭上で天狗笑いが、けたたましく木霊する。

 

『カ、カ、カ、カ、カ、カッ……!』

 

 逃げて、逃げて、逃げて──そして、稲穂の海の只中で徳次郎は天狗の声を聞いた。

 

『──落ちよ』

 

 天狗が羽団扇をひと振りした。

 

 その刹那──徳次郎の足元から地面が消えた。

 

 否、消えたのではない。天地の上下が引っくり返ったのだ。

 

 頭の上にあったはずの夜空。その底知れぬ闇が、ぐるりと下に来た。下にあったはずの固い大地から脚が離れる。重力──地気が反転し、徳次郎の体が夜空に向かって落ち始めた──。

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