「うわぁあああああッ──!」
咄嗟に手が伸びた。頭上へと上った田圃──そこに実る稲の株。徳次郎の両手が、夢中で稲穂の束を握りしめた。
「ひっ……お、おち……おちるっ」
夜闇の空が、足の下にあった。底のない闇が大口を広げて徳次郎が落ちるのを待っている。徳次郎は稲株にしがみつき、宙吊りとなっていた。
「たすけ……っ、だれか、だれかぁッ……!」
稲が、ぶちり、ぶちりと、根の方から千切れてゆく。豊かに実り、深く張った筈の根が、徳次郎の重みを受けて土からずるりと抜けかかる。
──富士講においては、米は富士のお山の神が人に賜うたとされる。仙元大菩薩の恵みと、徳次郎が毎晩拝んできた菩薩、稲穂はその化身。それが今、徳次郎を拒むように、するすると手のひらから逃げていく。
「な、なんで……なんでだッ……てまえは、ちゃんとおがんでた……ちゃんと、しんじん、して……ッ」
その時、徳次郎を取り囲むように——天地の逆しまになった闇の中に、人影が、ぽつり、ぽつりと湧いて出た。
毒を盛られた娘たち。苦しみ病んだ娘たち。徳次郎に拾われて現の地獄に落とされた女たちが──宙吊りの徳次郎を見やり、腹を抱えて嗤っている。指を差し、裂けた口で、ゲラゲラと嘲り笑う。
騙し、身代を奪った商人たちがいた。落ちくぼんだ眼窩──怨みの籠もった目で、じっと徳次郎を睨めつけている。一言も発さず、ただ睨む。
畜生働きにより、手にかけ殺させた者たちがいた。口々に呪詛を吐いていた。
『落ちろ』
『落ちろ』
『地獄へ、落ちろ……ッ』
その声が幾重にも重なり、徳次郎の耳を、頭を、心を──内側から削っていく。
「ち、ちが……てまえは……てまえはッ……!」
ぶちり、と。また一握り、稲が根を切った。
「やめてくれ……ゆるして……ごしょうだ、ゆるしてくれぇッ……!」
残った稲の、その太い根が限界まで伸び、土から白い髭を覗かせ——そして。
ぶつ、と。大地から根を離した。
「あ、あ……ぁああぁあぁあッ──!」
徳次郎は、底のない夜空へ、真っ逆さまに落ちていった。掴むものは、もう何もない。握りしめた一掴みの稲穂だけが、手の中で空しく揺れていた。嗤い、睨み、呪う者たちの輪が見る間に遠ざかり、しかし、声だけは木霊する。頭上の——否、足元の黒い空がぐんぐんと迫る。
落ちる──。落ちる──。どこまでも、どこまでも。終わりのない闇の底へ。
救いはどこにもなかった。神も、仏も、弥勒の世も。ただ、己が壊してきた存在の嗤いと呪いだけが後を追ってきた。
徳次郎の中で、何かがぷつりと切れた。
§
源一郎が所々に突き立つ矢を頼りに辻に駆け込んだのは、御用改めも詰めの頃であった。
息を切らして角を曲がると、徳次郎がひとり、地に転がっていた。
仰向けに倒れ、両手で虚空を掻きむしっている。指の爪は割れ、血が滲んでいた。何もない宙を掴もうと、必死に掴もうと虚しく指を蠢かせている。目は大きく見開かれているが、何も映してはいない。口の端から泡を吹き、ひゅう、ひゅう、と喉を鳴らし、手足を不規則に痙攣させていた。
「ぁ……ぁ……おち……おち……ッ」
譫言とも、悲鳴ともつかぬ声が、ひっきりなしに漏れている。時おり、びくり、と全身を跳ねさせ、何かにしがみつくように両手を握りしめては、また、力なく開く。
源一郎は足を止めた。
辻の空気が妙だった。
夜気の中に微かに——多数の獣の匂いと、山の樹々の匂いとが入り混じって漂っている。江戸の田の畦では、あまり嗅ぎ慣れない匂い。そして、その場には、まだ何かの「気配」が薄く残っていた。からかうような、悪戯っぽい、人ならざるものの気配。
源一郎の眉間に皺が寄った。
──この気配は。
覚えがあった。屋敷に逗留している、あの二つの存在。豊川の勧請の縁で屋敷に居着いた灰狐と、檀那場巡りの途中で屋敷に逗留することになった源一郎の師。
──お師匠。それに、灰狐殿か……
源一郎は、深く、息を吐いた。そして、こめかみを押さえた。
あの二人は御用改めのことを屋敷で聞き及んでいた。だが……まさか勝手に出張ってきて、捕り物に手を出すとは聞いていなかった。恐らくだが豊川稲荷の信者にちょっかいをかけられた、修験の檀那場を侵された──どうせ、そんな意趣返しだろう。狐と天狗が口裏を合わせて、逃げる徳次郎を散々に弄んだに違いなかった。
そして、足元に点々と続いていた、あの矢。
──お絹殿まで、グルか……
あの女が、意外と義理堅い性分なのは何となく承知していた。重要な知恵を授けた俊源坊あたりに頼まれれば、世話になった手前、無下にも断れまい。近江屋を後にした後に鶴喜の周辺で待機、矢で徳次郎を追い立て、狐と天狗の仕掛けの中へ追い込んだと考えられる。
源一郎は、もう一度ため息をついた。
──やれやれ。後でしかと、話を聞かせてもらわねばな。
怪異の気配は、源一郎が辻に踏み込むと潮が引くように薄れていった。役目は済んだとでも言うように。狐の太鼓も、天狗の囃子も、何も後には残らない。ただ後に残ったのは、地に転がって喘ぐ一人の男だけ。
源一郎は、徳次郎の傍らに歩み寄った。
「──おい、徳次郎」
声をかけても、徳次郎は応えなかった。源一郎の顔を見上げもしない。見開いた目は、源一郎を通り越しその遥か向こう──ありもせぬ夜空の底を見ている。
「おち……ゆるし、ゆるして……ぁああッ」
不意に、徳次郎が源一郎の足にしがみついた。藁にも縋るというより、落ちまいとして近くのものに無我夢中で取り縋る、水に溺れる者のような手つきだった。源一郎は徳次郎を蹴飛ばした。
「お、おたすけを……っ、じごくは、いやだ……じごくは……てまえは、てまえは……ッ」
言葉はもはや繋がっていなかった。許しを乞う声と、落ちる恐怖とがぐちゃぐちゃに混ざり合い、口から溢れては意味を成さぬまま夜気に散っていく。
源一郎はしばし、その男を見下ろした。
咎める言葉も、問い質す言葉も、もう要らなかった。──否、届かない。この男はもう源一郎の声の届くところにはいない。狐と天狗が見せた幻影──地獄の底へ、心ごと落ちてしまっている。
──やりすぎだ。
源一郎は胸の内で独りごちた。あの二人、懲らしめるつもりが、この男の正気を根こそぎ刈り取ってしまった。この調子で白州で罪を問うことなど可能なのであろうか、と。
遅れて熊造が、隠し通路の方から駆けてきた。息を切らしている。
「若旦那ッ──! こちらで──」
熊造は地に這いつくばり、源一郎の足元で泣き喚いている徳次郎を見て、ぎょっと足を止めた。
「こ、これは……外法頭……こいつに一体、何が……?」
「さて……俺が見つけた時には既にこの調子だ。何やら正気を失っておるようだな。傷は、脚に矢を一つ。命に関わるものではない。──だが、心の方はどうであろうな……しばらくすれば正気に戻るかもしれんが」
源一郎は努めて平静に言った。狐だの天狗だのの仕業と言ったところで、今さら詮無いことだ。
「新吾は」
「肩の傷を縛って、先に役宅に戻りました。歩けやすが、暫くは得物も振れんでしょうなぁ……」
「そうか。熊造──縄を打て。逃げられぬよう丁重にな。とは言え、暴れる気力も残ってはおらんだろうが」
熊造は、おそるおそる屈み込み徳次郎の手首に縄をかけようとした。徳次郎は抵抗しなかった。されるがままに、ただ虚空を掴んでは離し、神の名と許しの言葉を呟き続けている。
「……せんげんだいぼさつ……せんげんだいぼさつ……おたすけを……せんげんだいぼさつ……」
縄を打たれてもなお、徳次郎の目は源一郎たちを映さなかった。自分の現状も見えてはいない。誰に縄を打たれているのかも、もはや分かってはいまい。
──哀れな、と源一郎は思った。
最後まで、己の罪とまっすぐに向き合えなんだ。神の名に縋り、神の陰に隠れ、そうやって生きてきた男。その縋りついた先の神でさえ、この男にとっては己を慰めるための手段に過ぎなかった。そして今、狐と天狗に心を狂わされ、残ったのは『憑き物』のようになった男の成れの果て。
熊造が縄尻を握り徳次郎を引き立てようとした。だが、徳次郎は立てなかった。腰が抜けたように、地に座り込んだまま、がくがくと震えている。熊造が、ほとんど抱えるようにして、その体を起こした。
「……若旦那。こいつぁ……」
「運んでやれ。──まぁ、多少手荒でも構わんだろ」
熊造は無言で頷いた。元は博徒の修羅場を潜ってきた男だ。その熊造が縄を打った咎人を、憐れみの目で見ているのが源一郎には分かった。
源一郎はその様を見下ろしながら、辻の闇にちらと目をやった。
もう気配はない。狐も、天狗も、射手もとうに引き上げたあとなのだろう。
──まったく。後始末ばかり此方に回すつもりか。
胸の内で、そう独りごちた。屋敷に戻ったら、あの食えぬ者達には、一言……いや、二言三言は釘を刺しておかねばなるまい。咎人を壊すな、吟味が大変だ──と言ったところで、どこ吹く風でけろりとしているのだろうが。
源一郎は、地に落ちていた徳次郎の長ドスを拾い、鞘に収めた。それから、熊造が引きずる男を見やった。神の名を呟き続ける、その壊れた顔を。
秋の夜風が、辻を吹き抜けていった。どこか遠くで──ひゅるりと、笛のような音が一つだけ鳴った気がした。