徳次郎を熊造に預け、その背を見送ってから、源一郎はもと来た道を引き返した。
辻から鶴喜までは、存外に近い。徳次郎が体感、幾刻もかけて彷徨い歩いた道はどこにも見当たらなかった。狐と天狗が織り上げた幻の道は、術が解けると共に夜の中へ溶け去ったのだろう──。
源一郎が今たどるのは、観音裏の入り組んだ横町をただ真っ直ぐに戻るだけの何の変哲もない道筋。半町も行かぬうちに見覚えのある板塀と、料理茶屋の灯が見えてくる。
鶴喜の表は、まだ騒がしさを引きずっていた。
倒された引き戸はそのままに、土間には御用提灯の朱い灯がいくつも揺れている。客と奉公人は座敷の一間に集められ、同心と岡っ引きの監視のもとで膝を揃えていた。すすり泣く女中の声、宥める男の低い声、縄を打たれた同心に引き立てられてゆく足音――。修羅場の名残がまだ店のそこかしこに燻っている。
「渡辺様。お戻りで」
表口を固めていた権助が近づいてきた。
「逃げた頭目はいかがでしたか」
「あぁ、無事に捕らえた。外法頭の徳次郎は熊造が引いていった──もっとも……あれを無事と言っていいかは、分からんがな」
源一郎は言葉を濁した。徳次郎がどうなったかを、率直に語るのは憚られた。
「命に別状はない。だが……しばらくは口もきけまい。正気を失っていてな、詮議の先が思いやられる」
「は、はぁ……」
権助は気の抜けた相槌を打ち、それから、訝しげに眉を寄せた。あれほどに悪名を轟かせていた盗賊団の頭目が。たかだか半町、一町先の向こうへ逃げる間に、どんな理由があって正気を失うというのか。どうにも腑に落ちぬ、という顔だ。
「いったい何が……」
「さて、な。俺が見つけた時には、すでにあの様だった」
源一郎は努めて素気なく言い、それ以上は語らなかった。狐だの天狗だのと言ったところで詮無いこと。権助もそれ以上は問わなかった。
「それより、新吾は」
「肩口をやられました。先に役宅へ戻し、手当てをさせております。──刀を握れるようになるには、しばらくかかりましょう」
「深手でなければよいが」
「骨までは届いておりませぬ。奴もまだ若い。安静にしていれば、すぐに傷は塞がりましょう。何、すぐに顔を見せるようになりますよ」
権助が、ふっと口の端を緩めた。場の張り詰めを和らげようという気遣いであった。源一郎も小さく頷き返す。
「客と奉公人は」
「表の一間に。一人も外へは出しておりませぬ。ただ――」
「ただ?」
「奉公人たちから聞いたのですが……奥の座敷に入ったという客が一人、どうにも見当たりませぬ。皆で店中を検めましたが影も形もなく」
源一郎の眉がわずかに動いた。
「分かった。奥の座敷は、今一度、俺が検める」
源一郎は倒れた戸板を踏み越え、店の奥へと進んだ。
厨房の横を抜け、板張りの廊下を奥へ。先ほど徳次郎配下の二人を捕縛廊下には、漆喰の破片が散り、天井には弾き飛ばした長ドスが突き立ったままになっている。
その先には勝手口に続く板間。源一郎が下した用心棒がいた場所。
それよりも奥。廊下を通って、店でも奥まった場所にある神棚の間へ。源一郎は再び足を踏み入れた。
六畳ほどの座敷。神棚に灯明、仙元大菩薩の札。
一度は通った部屋であった。徳次郎を追ってこの座敷へ辿り着いたが既にもぬけの殻。すぐに座敷を出て廊下のさらに奥──店の最奥にあった板間。その壁際にあった隠し通路へ身を滑り込ませて、納戸から外へ抜けた。
あの時は足を止めるわけにもいかず、落ち着いて神棚の間を検める暇はなかった。源一郎は腰を落とし、畳の上に転がる湯呑みへ目を落とした。
源一郎は湯呑みの転がり方をしばし眺めた。座敷にはもう一つ。座卓の上にある湯飲みは、きちんと置かれている。一方、畳の一つは横倒しに転がっている。
こちらの人物はよほど急いで腰を上げたか。あるいは、御用改めの騒動の最中、弾みでこぼれたか。
二つの湯飲み。
一つは座卓の上に。もう一つは座卓から離れた畳の上に転がっている。源一郎は畳の方を取り上げ、底を覗いた。零れきってはおらず、まだ茶が残っている。一方、座卓の上のものはこぼれてはいない。これを検めると、こちらの残りはごく少なかった。
座敷を検める。
座敷に湯を温めるような鉄瓶や、箱囲炉裏は置かれてはいない。つまりは、茶は座敷の外から運ばれた。同時に二つの湯飲みが運ばれてきたのだとしたら……
――茶の残りからして、畳の方の人物は早くに座敷を出て、座卓の方の人物はしばらく座敷にいて逃げるのが遅れた可能性がある。
二人が座敷から出て行くのには時間差があったということになる。片や茶を干す間もなく慌ただしく立ち、片や茶を飲み干すほどの余裕があった。
──想像する。
御用改めの声が、廊下の向こうから雪崩れ込んできた、その刹那。神棚の前に座していた徳次郎は廊下を出て逃げる仕度へ。そして、畳側にいたもう一人は……その時既に座敷を後にしていた――。そう読めば、おおかた辻褄が合う。
ここに二人いた。一人は徳次郎。だが、もう一人が誰であったかが分からない。
源一郎は廊下へ戻り、権助を呼んだ。
「権助。この店の奉公人に、若い女中と、丁稚の小僧はおるか。客あしらいには関わらぬ、まだ下働きの者に話を聞きたい」
「は。年若い下女が二人ばかりと、元服前の丁稚が一人いた筈です」
「その三人を、別々に呼んでくれ。一人ずつだ。──ああ、それと咎めはせぬとよう言い含めてな。脅しては出るものも出てこぬ」
番頭や古株の女中では駄目だ。この店は徳次郎の根城だった。長く奉公する者ほど、徳次郎の裏の顔を承知し、口裏を合わせて庇おうとする恐れがある。だが――入って間もない下働きの娘や、まだ年端もゆかぬ丁稚であれば悪事には取り込まれてはおるまい。見たものを、見たままに話す筈。
ただし、一人の話から判断することも出来ない。一人の覚え違いか、見間違いか、はたまた嘘か。口裏を合わせをしているか判ずるには、別々に呼んで話の内容を突き合わせるべきだ。
──まず呼ばれたのは、十六、七のお夏と名乗る下女。膝を揃え、青ざめた顔で俯いている。源一郎は高い目線を低く合わせ訊ねた。
「そう怖がらずともよい。お前を縄になどせぬ。少し教えて貰いたいことがあるだけだ。奥の座敷に茶を運んだのはお前か?」
「は、はい。今宵は、あたしが……」
「客は何人いたか覚えているか」
「お一人、いらしてました。旦那様と差し向かいで」
「どんな客か分かるか」
「く、薬売りの行商をしている方です。月に一度か、二度ほど、お見えになる……旦那様が、あの方が来たら、すぐ奥へ通して人を寄せるなと、いつも……」
――薬売り。
その言葉に源一郎の動きが、ふと止まった。だが、面には出さぬ。
「その者の、名は知っているか?」
「……いいえ。ただ皆さん、『薬売りの旦那』とだけ。お名前は聞いたことも……」
「顔は覚えているか」
「……あ……え、えっと……それが」
お夏は困り果てたように眉を寄せ、泣きそうになった。
「ご、ごめんなさい……何度かお茶をお持ちしてるのに、お顔が、あまり思い出せなくて……並みの背丈の、痩せても太ってもいない御方、というだけで……特に特徴らしい特徴のない方で……」
源一郎は黙って頷き、下女を下がらせた。
次に呼んだのは、もう一人の下女。続いて、十二、三の丁稚――留吉という名の小僧。源一郎は同じことを、別々に繰り返し問うた。
三人の答えは、概ね整合性が取れていた。薬売りの行商人。月に一度か二度。名は知らぬ。そして――どうにも顔の特徴が思い出せぬ。三十がらみの中背、これといって人目を引くところのない男。
「――留吉。最後に一つだ」
源一郎は声を和らげた。
「その薬売りが、今宵、帰るところを見た者はいるか。表の戸口まで、客を見送るのが普段の決まりではないか?」
「へぇ。お見送りは決まりです。でも……薬売りの旦那さんだけは、いつもお見送りした覚えがなくて。気づくと、お部屋が空いてて、お膳だけが残ってるんです。今宵も、たぶん……」
源一郎は目を細めた。曰く、物静かで、いつの間にか来て、いつの間にか帰っているという。
来る時は、表から。帰る時は、誰も見ていない。客でありながらこの男は、店の奥の隠し通路をいざという時の逃げ道として知っていた。いや――使っていたのは今宵に限ったことではないのだろう。幾度も、そうして音もなく、この店を後にしてきたのだ。
「よく話してくれた。留吉、お前は何も悪くはない。──権助、厨房の者に言って、この子らに握り飯でも食わせるように言ってやれ」
小僧が下がると、源一郎は一人、神棚の間に立ち戻った。
灯明がゆらりと揺れる。
――薬売り。印象の残らない男。
脳裏の片隅で、とある記憶がゆっくりと頭をもたげた。
この夏のことだ――。赤坂山王の一件。日枝の神事を狙った奉納金強盗のその裏に、ついぞ姿を見せなかった影があった。講の者へ痛み止めと称して阿芙蓉を流し、四千両の奉納金には目もくれず、ただ一つ、天竺の麻の種だけを欲しがった――「御師」と呼ばれた男。
あの時、捕らえた盗賊どもが口を揃えて言っていた。中背、中肉、これといった特徴のない男。年の頃は三十か、四十か。気づくといて、気づくといなくなっている。印象の残らぬ男だと。源一郎が、その尋問の中で耳にした言葉だ。
――符合する。偶然か?
茶を運ぶ女中にも、小僧にも、顔の印象を残さぬ。それが生来のものか、意図したものであるかは分からないが……偶然の一致ではないのだろう。この初夏、源一郎が追い、ついに尻尾も掴めなんだ、あの「御師」と呼ばれた存在。
徳次郎が娘たちに盛り、何人もの女の身を病ませてきた毒。その毒薬を商う男が、月に一度二度と忍びやかに出入りし、徳次郎がことさら人を遠ざけて迎えていた――とすれば、その毒の出処は、この薬売りであろうと察しはつく。商売物の生薬の陰で、ひそかに毒を商っていた疑いは濃い。徳次郎が騙り集団の頭目に過ぎぬのなら、この薬売りは、ただの仕入れ先では済む訳がない。
源一郎は、ふと、思い至った。
――待てよ。
神棚の間を出て、廊下を引き返す。表口の方へ。土間に下りると、倒れた戸板の隙間から夜気が冷たく流れ込んでくる。
お絹の放った矢。料理茶屋の外に置かれた納戸から始まり、点々と打たれていた、あの矢のこと。徳次郎は隠し通路を抜けて納戸の外へ転がり出た。その納戸の出口を、お絹は見張っていた筈だ。
現に闇夜の中、かすかな月明りを頼りに腿に一矢を浴びせ、右へ逃げれば右に、左へ逃げれば左にと矢を放ち、一方へ追い立てていた。それだけの仕事をできる者を源一郎は他に知らない。お絹は、確かにこの店の外にいたと考えるべきだ。
ならば――。
源一郎の眉間に深い皺が寄った。
薬売りは火盗改が踏み込む、その前に座を立っている。徳次郎よりも先に。そして店の奥の隠し通路から外へ抜けた。
お絹が店の周りを見張り、徳次郎の出てくるのを待ち構えていたのなら――それより先に別口から一人の男が抜け出てゆくのを、見ていなかったはずがない。
夜目の利く女だ。闇夜の中、逃げ手の足の運びすら矢で操る手腕。闇に紛れて店から抜ける男の影を見逃すとは思えない。
――見たはずだ。
なのに、薬売りの逃げただろう道には矢の一本もなかった。地に突き立つものも、血に汚れたものも何一つ。
見たが射なかった。そして、見ても追わなかった。
――見逃したのは何故だ?
徳次郎は執拗に追い立てた。なのに、薬売りは易々と見送った。隠し通路から逃げてきたのであれば、疚しいことを抱えているのは明白。逃がすべきではない人物と判別は容易。お絹の行動はあべこべだ。釣り合いが取れていない。
源一郎は、しばし戸口の外の闇を見つめていた。
お絹は――いや、御庭番である卯木は。その薬売りが何者か、すでに知っているのではないか。知っていてなお、泳がせたのではないか。捕らえるよりも泳がせて手繰る方が、よほど大きな何かに繋がると見ていたのではないか。
だとすれば、その「大きな何か」とは──。
答えは出ない。今、ここで源一郎が一人いくら思案したところで思索が追いつくものではなかった。
――お絹殿に、いや、差配している神谷殿に問わねばなるまい。
胸の内で、そう独りごちた。だが、あの兄妹が易々と口を割るとも思えぬ。御庭番には御庭番の都合がある。火盗改とは見ている絵図は、はなから違う。
源一郎は戸口を離れ、もう一度神棚の間へ戻った。
仙元大菩薩の札が、白々と灯に照らされている。徳次郎は、この札に毎晩手を合わせていたのだろう。そして今、その心は狐と天狗に砕かれ、神の名を怯えながら呟き続ける『憑き物』の成れの果てとなった。
一味は捕らえ、お富も繋ぎ役も縄を打った。だが、絵図の頭目たる徳次郎は、果たして白州の場に立てるかどうかも怪しい。
そして――肝心の薬売りは、するりと鶴喜を抜け出た。
源一郎は座卓の脇の、横倒しになった湯呑みを見下ろした。
――名も知れぬ。顔も定かでない。だが、確かにこの座敷にいたのだ。今宵、徳次郎と差し向かいで、茶を啜りながら。湯呑み一つ、わずかな痕跡だけを残して消えた。一連の事件に関わる黒幕とも呼べる者が。
神棚の灯明が、また一つゆらりと揺れた。店の奥の逃げ道から流れ込む、冷たい夜気のためか。それとも――先刻、そこを抜けていった者が逃げおおせたことを暗示でもしているのか。
どちらにせよ、源一郎には判じかねた。
ただ一つ確かなのは……今宵の捕物は全てが片がついたようでいて、その実、何か一欠片、肝心のものを取り逃がしたという座りの悪い手応えであるということ。
その想いとは関係なく、秋の夜は更けてゆく。
源一郎は湯呑を睨み、しばし黒幕について思案したのだった――。