火付盗賊改方の役宅。その一隅に、罪人を責めるための部屋がある。
日の差さぬ板間であった。壁には縄、鞭の類が掛けられ、床には黒く染みの沈んだ筵が敷かれている。幾人もの咎人が、ここで血と汗を流してきた。空気そのものに、饐えたような臭いと、拭いきれぬ怨念めいたものが染みついている。
その梁から、縄で吊られた男が一人、ぐったりと項垂れていた。
徳次郎一味――小頭の金五郎という男であった。
肩と腕は竹に括り付けられ、吊るされた爪先がかろうじて筵に触れている。剥かれた背には、鞭の打ち据えた赤黒い筋が幾条も走り、油汗の珠が浮いていた。
荒事と銭勘定の両方を取り回してきた徳次郎の右腕──。年の頃は四十ほど、若い時分には喧嘩の修羅場も潜ってきたであろう骨太の体躯。その体が、今は半ば白目を剥いて、ひゅう、ひゅうと喉を鳴らしている。
息も絶え絶えであった。
だが──まだ折れてはいなかった。
「……何度、訊かれても……同じこって……ござんす……」
切れた唇の端から、血の混じった唾を垂らしながら、金五郎は呻くように言った。
「あっしは……ただの、料理茶屋の……奉公人で……何も、知らねえ……」
吟味方の同心が舌打ちをして鞭を握り直す。その腕を源一郎が片手で制した。
「もうよい。これ以上は無駄だろう」
源一郎は吊られた金五郎を静かに見やった。
──大した男だ。
胸の内で、そう思わぬでもなかった。この苛烈な責めに耐え、なお口を割らぬ。徳次郎という頭への忠義か、己の意地か……それとも吐いた先に待つ死罪への恐れか。いずれにせよ、並の男にできることではない。
だが、源一郎にはこの手の男を責め抜くことの不毛さが骨身に染みて分かっていた。
以前――甚五郎という海千山千の博徒の頭を相手取った折に、嫌というほど思い知った。裏の世界で年季を積んだ男は、痛み責めに慣れている。痛みに蓋をする術を心得ている。吊して打てば打つほど、その意地はかえって凝り固まり、岩のように動かなくなる。死ぬまで耐える者は現にいる。耐えて死なれては真実は永遠に闇の底だ。
――痛みでは、この男の口は開かぬ。
ならば──開けるべきは口ではない。心だ。
「金五郎」
源一郎は、この場で初めてその名を呼んだ。
吊られた男の瞼が、わずかに震えた。己の名を呼ばれ、かすかな動揺を見せたのだ。
「お前は、よく辛抱した。徳次郎への忠義か、盗賊仲間への義理立てか。──だが、その忠義を立てる相手が今どうなっておるか。お前は何も知らぬのであろうな」
金五郎は答えない。ただ、濁った目をうっすらと開け、訝しげに源一郎を見た。
源一郎は戸口の方へ、軽く顎をしゃくった。
「連れて参れ」
板戸が開いた。
二人の小者に両脇を抱えられて、一人の男が引きずり込まれてきた。
その姿を見て──金五郎の喉が、ひゅっ、と鳴った。
徳次郎であった。
だが、その徳次郎は、最早、金五郎の知る徳次郎ではなくなっていた。
あれほど威勢の利いた、恰幅の良い料理茶屋の主の面影は、数々の盗みをこなした大盗人の矜持などどこにもない。月代は乱れ、頬はこけ、口の端には乾いた泡の跡。両の目は大きく見開かれているが、怯え以外何も映してはいない。源一郎たちのことも、目の前の金五郎のことも、その焦点の合わぬ目には入っていないのだろう。ただ、虚空の一点を見つめ、間断なく両手を動かしている。
「……おち……る……たすけ……せんげんだい……ぼさつ……おたすけ……」
譫言がひっきりなしに漏れている。時おり、びくり、と全身を跳ねさせては、何かに縋ろうとするように両手を握りしめ、また、力なく開く。
その身を支えていた小者が手を離すと、徳次郎はぐにゃりと筵に崩れ落ち、体を丸めて、なおも床を掻きむしり続ける。
「だ……旦那……?」
金五郎の声が、掠れた。
「旦那ッ……どうしなすった……何が……何が、あったんで……ッ」
吊られたまま、金五郎は必死に身を捩り声を張った。徳次郎は応えない。もはやその心は、金五郎の声など届く場所にはないのだ。ただ、虚空を掻き、神の名を呟き、落ちる落ちると怯え続けている。
金五郎の顔から、みるみる血の気が引いていった。
責めの鞭にも、体の痛みにも、びくともしなかった男。その顔が今、はっきりと恐怖に歪んでいる。痛みではない。もっと根の深い、得体の知れぬものへの怖れだ。
「……何を……何を、しやがった」
金五郎の声が震えた。
「あんたら……この人に、何をしやがったッ……! こ、これは……こんなものは……人の所業じゃ、ねえ……ッ!てめぇらが、この人をぶっ壊したのか……!」
源一郎は静かに首を振った。
「我らは何もしておらぬ。──俺が見つけた時には、すでにこの有様であった。恐らくは……徳次郎は己の罪に追われたのだろうよ。散々に狐を騙り、神を都合良く求めた『罰』が当たったとも言えるかもしれないが」
それは嘘ではなかった。狐と天狗の仕掛けたことではあれ、徳次郎の心を壊したのは、徳次郎自身が積み上げてきた業に他ならぬ。
「このままでは、お前も同じ道を辿るのではないか。何せ、この憐れな男の右腕だったのだろうからな」
源一郎は、崩れ落ちた徳次郎を見下ろし、それから金五郎に目を戻した。
「自身の犯した罪を見つめ懺悔し、最後くらいは人に戻るか。それとも──この徳次郎のように壊れ、尊厳も何もない身代に堕ちるか……お前の口の利き方ひとつで、その先が変わると思え」
金五郎は、徳次郎を目を見開いて見ていた。
己が右腕として支えてきた頭目。その縋りついた先の信心ごと心を砕かれ、憑き物のように成り果てた姿を。長い沈黙があった。吊られた体が、ぎし、と縄を鳴らす。
やがて──金五郎の双眸から、ぽろりと、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「…………話し、やす」
絞り出すような声だった。
「みんな……みんな、話しやす……だから……あっしを、この人みてえには……しねえでくだせえ……後生だ……ッ」
骨太の肩が子供のように怯え震えていた。目の前の惨めな男を、徳次郎とは認められない。金五郎の慕った大盗人はもう死んだのだ。断じて目の前の『これ』ではない。こんな存在になどなりたくない──そう願ったのだろう。
源一郎はひとつ頷くと、同心に縄を解くよう命じた。
心を折ったのではない。一切を砕いたのだ。痛みでは決して開かなかった心の蓋が、徳次郎の成れの果てを目にした瞬間、脆くも崩れ落ちた。
梁から下ろされた金五郎は筵の上に頽れ、肩で大きく息をしている。怯えを含むその目は、虚空を掻きむしり続ける徳次郎からまだ離れていなかった。
源一郎は立ち上がりながら、もう一度その壊れた男を見やった。
──やはり、後味の悪いものだ。
胸の内で独りごちる。心を砕くという手立ては、責めの鞭よりも、よほど深いところに傷をつけるのだろう。だが、それで罪が一つ明らかになるのであれば──と。
源一郎は自身に言い聞かせたのだった。