鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百三十八話 白州

 

 数日の後。

 

 火付盗賊改方の役宅、その白州である。

 

 奉行所の御白州のような、いかめしい構えではない。役宅の庭先に砂利を敷き、莚を一枚置いただけの簡素なものだ。だが、簡素であればこそ、そこに座す者と、それを取り囲む火盗改め役人たちとの間合いは近い。

 

 正面の縁側には火付盗賊改方の頭取、長谷川平蔵が座していた。その傍らに源一郎が控え、一段下――庭の左右には、権助、本太郎ら同心が居並んでいる。新吾は肩の傷が癒えず、この場にはいない。

 

 莚の上に座しているのは一人の女であった。

 

 お沙世──加賀屋では「おたね」、近江屋では「お富」と名乗った、引き込みの女である。

 

 縄こそ打たれているが、責めを受けた様子はない。ところどころ解れた結い髪、青白いながらも静かな面。左の目の下に、ぽつりと泣き黒子が一つ。どれほど名を変え、素性を変えても、この黒子だけは変えようがなかった。

 

 お沙世は俯いてはいなかった。

 

 背を伸ばし、まっすぐに前を見ている。裁きに怯える者の姿ではない。むしろ──ようやく重荷を下ろせる場所に辿り着いた者のような、奇妙な静けさが、その横顔にはあった。

 

「お富──いや、お沙世」

 

 平蔵が低く声をかける。

 

「お前は責めも受けておらぬうちから、洗いざらい話すと申し出たそうだな。なぜだ。仲間を庇い立てし、口を噤むのなら、まだ筋が通る。だが、なぜ己から罪を並べ立てる」

 

 お沙世はしばし黙していた。それから、静かに口を開いた。

 

「……もう、疲れましてございます」

 

 声は震えてはいなかった。

 

「逃げることにも、人を騙すことにも。己に言い訳をすることにも。──ずっと、胸の底に石を抱いておりました。冷たく、重い石を。それを、後生大事に隠して生きてまいりました。けれど、もう……隠す理由も、隠す必要もなくなりましてございます。ならばいっそ──何もかも吐き出してしまいたい。そう、思うたのでございます」

 

 その物言いには、捕らわれた者の怯えも、命乞いをする卑屈さもなかった。腹を括った者の静かな度胸が据わっている。

 

「ならば、話せ。一つ残らず、な――」

 

 平蔵が頷いた。

 

 お沙世は語り始めた。

 

 曰く――。

 

 生まれは駿河府中の茶問屋。松風屋という、蔵を複数持つほどの大店で、お沙世はその一人娘であった。何不自由なく育った、商家の箱入り娘であったという。

 

 その暮らしに罅が入ったのは、十六の年。店に出入りの薬売りがあった。富士講の御師の家筋と名乗り、信心深い父はこの男を気に入って、座敷に上げては富士の話をさせていた。お沙世にとっては、ただの愛想のいい行商人のおじさん。それ以上の何者でもなかった。

 

 ある日その男が、顔色が冴えぬからとお沙世に薬を一包寄越した。茶に混ぜれば気鬱が晴れる、と。お沙世は疑いもせず、その晩、寝際の茶に溶いて飲んだ。

 

「……それから、おかしくなったのでございます」

 

 お沙世は淡々と言った。淡々としすぎているほどに。

 

「夜中に目が覚めて、嘔吐したことを覚えています。それから見慣れた筈の家の中が、地獄のようにも思えました。己の手が、人の手とは違う化け物に見えて……怖くて怖くて、わけも分からず暴れました。止めに入った父に、噛みつきもいたしました。次の朝には大分落ち着きました……ですが――」

 

 お沙世は、いったん言葉を切った。

 

「それきりで、十分だったのでございます」

 

 白州が静まった。

 

 翌日には、もう噂が走っていたという。松風屋の娘は狐憑きだ、と。一度きりの狂乱でも、近所中に響くほど暴れたとなれば、噂に尾鰭をつけるには事足りた。客は途絶え、奉公人は去り、得意先は離れた。父がいくら事情を話して歩いても、人の好奇の視線は遮られない。そして件の薬売りは、それきり店に現れることはなかった。

 

 そして、人気の絶えた松風屋に押し込みが入ったのは、ひと月ほど後のことだったという。

 

「夜中に物音がして、とっさに押し入れに隠れました。暗がりの中で奉公人の声が、刃の音が、父母の呻きが聞こえました」

 

 庭の若い同心が、ぐ、と喉を鳴らした。

 

「そのまま隠れていたら、いつの間にか眠っていて……朝になって出てみたら、生き残っていたのは、わたくし一人」

 

 その先のことも、お沙世は声を荒らげることなく語った。狐憑きと囃された娘を引き取る親類などおらず、むしろ賊を呼び込んだ疫病神と疎まれたこと。逃げるように江戸へ下り、宿場の料理茶屋で茶汲み女になったこと。そこで、生きるために一つずつ身の振り方を学んだこと。

 

 白州に重い沈黙が降りた。

 

「ある晩、その茶屋に、客として現れた男が──」

 

 お沙世の声が低く沈む。

 

「徳次郎にございました」

 

 もはや「お頭」とは呼ばなかった。その名を突き放すように呼び捨てる。

 

 徳次郎はお沙世を身請けし、手元に囲い、やがて手駒に仕立てた。商家に下女として潜り込み、家の娘に薬を盛り、狐憑きに見せかけ、行者と巫女の祈祷で追い込む――その役目を担う引き込み役として。拒否は許されなかった。逆らえば命がない。そういう男であったから。

 

「囲われて、しばらく経った晩でございます。徳次郎が煙管をくゆらせながら、何でもない世間話のように申したのは。──昔、駿河で茶問屋を一つ畳ませたことがある、と」

 

 源一郎の眉が、ぴくりと動いた。

 

「血の気が引きました。徳次郎は、わたくしの顔を見て、面白そうに笑っておりました。──あれは薬売りが持ち込んだ仕事だ、と。富士講の『御師の家筋』の舐め役で、商家の座敷に上がっては信用を稼ぎ、蔵の場所も奉公人の数も主の信心も下調べして回る。お前に薬を盛って店の警戒を崩し、頃合いを計って自分に売り渡したのだ──と」

 

 お沙世の声が震え出した。怯えではない。長年抑えつけてきた怒りと哀しみ、屈辱が──心の奥底に沈んだ澱みが、せり上がってくるような震えであった。

 

「松風屋で一人だけ見逃されたのも、偶然ではなかったのでございます。──わざとだ、と徳次郎は申しました。わたくしが茶汲み女に身を落とし、体を売り始めた頃に拾ってやろうと、初めから決めていた、と。わたくしが手駒に成り下がるところまで、何もかも、あの男たちの算盤の内だったのでございます」

 

 白州は水を打ったように静まり返った。

 

「わたくしが商家の娘に薬を盛り、狐憑きに仕立てて家を潰してきた、あのやり口は──そっくりそのまま、わたくし自身が嵌められたやり口でございました。己が壊されたのと同じ仕掛けで、わたくしは幾人もの娘の心を壊してまいりました。それを承知で、なお……生きるために続けたのでございます」

 

 ──惨いことだ。

 

 源一郎は聞きながら胸の内で得心した。お沙世の境遇。薬売りを騙って懐に入り込み、娘に一服盛って狐憑きの噂を仕立て、店を内から崩す。今回の事件で嗅ぎ取った絵図の口寄せ騙り――これの大本の型となっていると。

 

 お沙世の目から涙が一筋、伝い落ちる。

 

「加賀屋のお嬢様。その前にも幾人か。中には、薬が効きすぎ、手当ての間に合わなんだ娘御もございました。わたくしの盛った毒で……──わたくしは己が落とされたのと同じ地獄へ、あの娘たちを突き落としてきたのでございます」

 

 庭の隅で、若い同心がたまらず袖で顔を覆った。武骨な肩が小さく震えている。お沙世の語る、あまりに惨い円環に──毒で人生を奪われた娘が生きるために、今度は別の娘たちの人生を奪う側に回らされた、その地獄に──こらえきれなかったのだ。権助でさえ、苦い顔で深く目を伏せていた。

 

 お沙世は、なおも語り続けた。徳次郎一味の畜生働き。押し入った先で、邪魔だてする者を容赦なく手にかけてきたこと。深く知りすぎた奉公人が、いつの間にか姿を消したこと。己が手を下したわけではないが、その絵図の中で、確かに人が死んでいったこと。一つ残らず、己の罪を、最も重い部分から目を逸らさずに。いや――罰を望んでいるかのように。

 

 源一郎は、しばし、その女を見つめていた。それから、静かに問うた。

 

「お沙世。──その薬売りのことを訊ねる。お前の生家を潰し、この道へ突き落とした、その男。徳次郎の元へは月に一度二度、出入りしていたと聞き及んでおる。その男のことを知るだけ話せ」

 

 お沙世の顔に複雑な色がよぎった。憎しみと、恐れと──諦観。

 

「……名は存じませぬ。ただ、徳次郎は『薬売り』とだけ。……わたくしは、駿河の生家を失ってからは、あの男と直接話したことはございません。あの男が来た時だけは、徳次郎も他の者を近づけませんでしたので」

「その者は何を商っていた」

「表向きは生薬の行商でございます。けれど──娘に盛る、あの薬。正気を失わせ憑き物のように見せる、あの薬を齎していたのは『薬売り』にございます。徳次郎が己で作れる代物ではございません。あの薬の秘密を知るのは、あの男だけ。何でできた薬なのかは、わたくしにも分かりませんが……」

 

 ──娘に盛った薬。

 

 その正体は、その実すでに割れている。お絹が近江屋の箱枕の二重底から採り、火盗改が薬種に通じた者に改めさせた。

 

 ハシリドコロと、麻の花穂。錯乱を呼ぶ草と、気を昂ぶらせ正気を奪う草本。二つを混ぜ、量を加減すれば、憑き物が出たように見せかけることもできる──忍びが阿呆薬と呼ぶ代物。徳次郎一味が幾人もの娘に盛ってきた毒の正体を、火盗改は既に把握していた。

 

「自ら盛った毒の正体を知らなかったと?」

「……はい。ただ、盛られた娘がああなる、とだけ承知しておりました。近江屋の娘ように──次にどの商家を狙うか、その的を選んでいたのも、しばしば、あの男。どこそこの店の娘が年頃で、家が信心深いと。あの男は、そうした話を仕入れてくるのです」

 

 お沙世は、ここで声を落とした。

 

「徳次郎はあの男を、殊の外頼りにしておりました。……いえ、頼りにしていた、というより──いいように操られているようにも。脅されている訳でも、言い含められている訳でもないのに……糸で手繰られているような……」

 

 

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