源一郎はしばし考え、それから再度問い掛けた。
「その薬売り。人を狂わせる薬の他には何を扱っていた」
「眠り薬や、痛み止め。腹を下した折の薬に、精のつく薬など……まっとうな生薬も、色々と。よく効くと評判で講の者達にも分けておりました」
お沙世は、ふと思い出したように付け加えた。
「そう言えば──徳次郎も、薬売りから貰う丸薬を欠かさず飲んでおりました。精がつき、疲れを知らぬ妙薬だと申して。ツガル──、一粒金丹のごとき有り難い薬だと」
源一郎の眉根が寄り、表情が険しくなる。
ツガル。一粒金丹。阿芙蓉──つまり、阿片を原料とした薬の名称。
名くらいは源一郎も知っている。気付けにも強壮にも効くという評判の丸薬。だが、あれはただの町人がおいそれと口にできる品ではない。一粒が目玉の飛び出るほどの高値で、よほどの分限者──富豪でなければ買えぬ代物の筈だ。
それを、盗賊の頭領とはいえ一介の町人風情が欠かさず飲み続けていた──?
まず真っ当な出所の薬ではあるまい。
「……」
源一郎の肝に冷たいものがよぎった。精がつき、疲れを知らず、一度知れば手放せなくなる薬。そして、それを握る者が、飲む者を意のままに操れるのだとしたら──。
だが、それを口には出さなかった。確かめる術が今はない。
──しかし……やはり、そうか。
源一郎は内心で深く頷いた。『薬売り』が、ただの薬の仕入れ先ではないと、鶴喜の神棚の間で読んでいたことが、今、お沙世の証言によって裏づけられた。
的を選び、計画を立て、毒を備える──現場の頭目である徳次郎すら操る男。この『薬売り』こそ、祈祷騙りの真の描き手だ。そして、徳次郎を縛る糸の一本は、その丸薬の『依存性』にあったのかもしれない。
「話を戻す。先ほど、その『薬売り』は富士講に関わる御師の家筋だと言ったな」
「はい。何でも──『御師』の使いで、江戸に来ていると……徳次郎が漏らしたことがございます」
徳次郎が富士講の講元であったこともまた、既に調べはついている。表向きは信心深い先達として講中に敬われ、その裏で詐欺の絵図を引いていた。講そのものは堅気の信心の集まりで、徳次郎の裏の顔を承知していたのは、お沙世ら一味の者だけ──そこまでは、火盗改も摑んでいた。
摑めていないのは、その先のこと。
「『御師』の使い、とは?」
富士の信心には疎い。源一郎が問い返すと、お沙世は静かに答えた。
「まず、御師と申しますのは、富士の麓に屋敷を構え、講中を迎えてお山へ導く、信心の元締めのようなお方にございます。徳次郎の講も富士を詣でておりました。徳次郎は講元先達として毎度の登拝に加わり、講の者達も、年ごとに順々にお山へ登っておりました。──ただ」
お沙世は、わずかに首を傾げた。
「お山の麓の宿坊では、御師ご当人は、いつも留守にしておられたとか。代わりに講中を迎え、宿の世話をし、御札を配るのは──いつもあの『薬売り』。御師の代理だと、そう名乗っておったそうにございます」
「では、あの男は『御師』そのものではない、と」
「左様でございます。薬売りは御師の使い。富士のお山の霊験あらたかな薬草を商い、御師に代わって講中の世話をする。講の者達の目には、御師の名代として御札や薬を届けてくれる、『御師』のように有り難い人と映っていたことでしょう。──けれど」
声がわずかに沈んだ。
「わたくしは女子の身。富士は女人を入れぬお山ゆえ、登拝に加わったことはございません。御師にお目にかかる機会も、ついぞございませんでした。──いえ、お山に登った男たちでさえ、誰一人、御師ご当人に会うてはおらぬのです」
「誰も会ったことがない──?」
「はい。徳次郎がどうかは分かりませんが……ただ、あの男が御師の使いだと申すなら……その上にいるはずの御師は、どこにいるのか。まことに、おわすのか……わたくしには、それすら分かりません」
──御師の使い。
源一郎の中で過去の事件が繋がった。この夏の赤坂山王での出来事。富士講。御師。阿芙蓉。そして、顔の覚えられぬ薬売り。別々に見えていた事件が一本の糸で繋がっている。
「話すべきことは、それで全てか」
「……はい」
火盗改の男達に囲まれたお沙世が、深く、深く頭を下げる。源一郎はしばし黙考し、それから傍らの平蔵へ声を掛けた。
「御頭、いえ、長谷川様――。一点、申し上げたき儀がございます」
平蔵が目だけで源一郎を見た。言ってみろと。
源一郎は白州のお沙世を見やり、それから平蔵に向き直った。
「この女──お沙世。罪は決して軽くはございませぬ。その毒で幾人もの娘が苦しみ、中には命を落とした者もいるとのこと。それは紛れもなき事実」
「うむ」
「なれど──この女は責めも受けぬうちに、己から一切を吐き出しました。それも、罪から目を逸らさず、命乞いも、言い訳も口にせず。この度の絵図の全容を明らかにし、徳次郎の罪状を詳らかに出来たのは、ひとえに、この女の証言あってのこと。──そして、思えばこの女もまた、『薬売り』と徳次郎に人生を狂わされた犠牲者でございます」
平蔵は黙って聞いている。
「薬売りと呼ばれた男は、今なお野に放たれたまま──。『薬売り』の顔を知り、その手口を内側から知る者は、もはや、この女をおいて他にございませぬ。長谷川様――。この女を、ただ罪人として裁き葬ってしまうのは、私にはあまりに惜しく感じられます」
源一郎はまっすぐに平蔵を見た。
「このお沙世を――密偵として、使うことはできないでしょうか。──この女の知る闇は、必ずや『薬売り』を手繰り寄せる糸となります」
平蔵は、しばし源一郎を見つめていた。
それから、ゆっくりと白州のお沙世へ目を移した。
お沙世は、源一郎の嘆願を聞き、目を見開いていた。己の処遇が今、思いもよらぬ方へ動こうとしている。だが、その顔には喜びよりも、戸惑いと、信じられぬという色の方が濃い。
長い沈黙があった。
やがて、平蔵が口を開いた。
「お沙世」
「……は、はい」
「お前、冷てえ石を、胸に抱えて生きてきたと言っていたな。人を欺き、闇に紛れ、己を偽って。──これまでずっと日の当たらねぇ所で」
平蔵の声は、咎める響きではなかった。むしろ、どこか、しみじみとした温みがあった。
「──その石、もうしばらく抱えておく気はねぇか」
お沙世の肩が、びくりと震えた。
「お前のしてきたことは、消えやしねえ。盛った毒も、死んじまった娘も、帳消しにはならねえ。それは、お前が生涯背負っていくしかねえ罪だ。──だがな」
平蔵は莚の上の女を、まっすぐに見据えた。
「お前はその罪を誰よりも深く分かってる。目を逸らさず、軽くも見せず、己の口で洗いざらい並べてみせた。それができる者は男女関係なく、多くはねえ。──お前が悪事に使ってきたその知恵、その目、その肝の据わり方。そいつを今度は、闇に堕とされかけてる誰かを引っ張り上げるために使っちゃあくれねえか」
「……」
「どうだい。今一度──日の当たる場所で必死になって働くってのは。なぁ、お沙世」
お沙世の双眸が、見る間に潤んでいった。
堪えようとしたのだろう。唇を噛み、俯こうとした。だが、堪えきれなかった。大粒の涙が、ぼろぼろと莚の上にこぼれ落ちてゆく。
生家を奪われ、両親を殺され、狐憑きと蔑まれ、悪事の道具にされ、人の娘に毒を盛り続け──そうして、己はもう、二度と日の当たる場所へは戻れぬと、とうに諦めていた。その女に今、思いもかけぬ手が差し伸べられたのだ。
「……よろしいので……ございましょうか……わたくしのような、者が……こんなにも……罪深い、わたくしが……」
「ああ。──過ぎたことは、変えられねえ。だが、これから何を成すかは、お前が決められる」
お沙世は、とうとう声を上げて泣いた。縄を打たれたまま莚に突っ伏し、子供のように、しゃくり上げて。長い間、胸の底に抱えてきた冷たい石――罪を贖うことを許されたのが救いとなったのか。
源一郎は、その様を静かに見守っていた。
庭の隅では、先ほどの若い同心が、今度は隠そうともせず、袖で顔を覆っている。本太郎が武士らしくもなく鼻をすすり、権助が苦笑いを浮かべて、その肩を軽く叩いた。
平蔵が、ふう、と息を吐き、源一郎を見てひとつ頷いた。源一郎も頷き返す。
白州に、秋の柔らかな日が一筋差し込んだ。
あの拷問部屋の、重い闇とは何もかもが違う光であった。同じ咎人を裁く場でありながら──ここには人を人のまま掬い上げようとする、人情が確かに流れている。
お沙世の泣き声が──しばらく、その日溜まりの中に響いていた。