その様を見て、源一郎は口の端を緩めた。それから口許を引き締めて神谷へ向き直る。
女二人が庭の方に気を取られている、その隙を見計らうように源一郎は声を落とした。
「神谷殿。──回りくどいのは性に合わぬ。ひとつ、貴殿に訊いてもよいか」
神谷の眉が、わずかに動いた。
「鶴喜の一件だ。徳次郎を追い詰めた、あの夜のこと」
源一郎の言葉は神谷に向けられていた。だが、縁側の端で、お絹の肩がぴくりと震えた。お鈴と談笑していたその表情が硬くなる。──源一郎は、それに気づかぬふりをした。お絹を問い詰めるつもりは、端からない。お絹は御庭番である兄、神谷の差配で動いたのだろう。事情を訊くべきは、指示された娘ではなく指示した側だ。
「──あの夜、『外法頭』の徳次郎が逃げた道には、点々と矢が打た追れていた。逃げる徳次郎を右へ左へと揺さぶり、一方へと追い立ててある。──夜闇でも狙いを外さぬ技量……あれは、お絹殿の弓だろう。そして、矢を引かせたのは神谷殿、貴殿だ」
神谷は否定も肯定もせず、ただ盃を傾けている。
「咎めている訳ではない。お絹殿の助けがなければ、徳次郎を逃がしていた可能性もある。礼を言うべきところだ。──だが、どうしても解せぬことがある。お絹殿の役目は、近江屋への潜入と取り決めた筈。引き込み役を突き止め、繋ぎを寄越す。それで、お役目は終い。なのに、何故わざわざ奥浅草の鶴喜にまで出した。あそこは火盗改の捕物の現場。御庭番が出張る筋ではあるまい」
神谷は、しばし黙していたが、やがて、ふっと笑った。
「……頼まれ事がございましてな。具体的には、この屋敷に逗留しておられた貴殿のお師匠あたりから」
「それについては既に承知の上」
源一郎は内心でため息をついた。あの食えぬ師匠が灰狐殿と謀って徳次郎の心を破壊した。その前段階、結界へ追い込むのに、お絹の腕を借りた。世話になった俊源坊に請われれば、神谷もまた、無下にも断れなかったのだろう。
「──だが、本当に解せぬのは、その先」
「はて、その先……」
惚けるような神谷に、源一郎は声を低めた。
「あの夜、店の隠し通路から、徳次郎より先にもう一人外へ抜けた男がいた筈だ。舐め役や口合い人をしていた薬売りの男。一味に毒を商い、祈祷騙りの絵図を描いた男。──お絹殿は、あの晩、通路の出口を見張っていた。ならば、その前に同じ口から抜けた薬売りの姿を見ておらぬはずがない。夜目の利くお絹殿が、見落とすとは思えん」
縁側の端で、緊張したお絹が表情を固くしていた。
「辻の別れ道を塞いでいた矢は一本ずつ、徳次郎を誘導するための物だ。しかし、先に薬売りが逃げたのであれば、矢は二本となる。つまり、お絹殿は薬売りが逃げるのを見ていながら射ることはなかった」
源一郎は神谷を見据えた。
「お絹殿が独りでそう決めたとは思えぬ。射るな、追うな、見送れ──そう命じた者がおるはずだ。神谷殿。なぜ、薬売りをみすみす逃した」
責めるような響きはなかった。ただ、嘘偽りは許さないと、まっすぐに神谷へ問う。
お絹が何かを言おうとして──唇がわずかに開く。だが、声にならなかった。視線を彷徨わせ、行き場をなくしたように、また伏せられる。
存外に分かりやすい娘だ。嘘をつこうとして……つけぬ自分に戸惑っていると源一郎は見て取った。
見ていないと言えば済む。気づかなかった、と押し通すことも出来る。御庭番の密偵ならば、その程度の誤魔化しは造作もないはずだ。だが……お絹には、それができなかった。
先ほどまで、お鈴と話し、菖蒲に己の憑き猫をもみくちゃにされ気を緩めていた、この娘には……この屋敷の者を欺くことができなかったのだろうか。
縁側で俯くお絹を、お鈴が心配そうに見ている。
──これ以上は、酷か。
そう思った時であった。
「……ふむ」
神谷が猪口を置いた。
「渡辺殿。──ひとつ、世間話をしてもよろしいか」
源一郎は黙って神谷を見た。その声は、いつもの飄々とした調子とは少し違っている。どこか憂いを含むような、宙に向けて呟くような響き。
「以前──神田伊勢屋の一件の折に、阿芙蓉の話を少しばかり申し上げたのは覚えておいでか」
源一郎の脳裏に、あの夜の話が蘇った。
清国に蔓延する阿芙蓉の禍。英吉利の商館が天竺で専売を握り、大陸へ大量に流し込み、銀を吸い上げていること。長崎の風説書に上がる、不穏な報せ。幕府は輸入の窓口を長崎会所に絞り、民の間に過度に広まることを避けつつ、阿芙蓉の流通を厳しく管理している。
その一方で、津軽や紀州に国産の芥子を育てさせ、阿芙蓉を生産精製させていること。阿芙蓉は貴重で高価だ。国産化を進め、輸入による銀の流出を防ぐ狙いがある。だが、国産であろうと、その管理が滞り裏に流れれば、大陸と同じ轍を踏みかねぬ──そう、神谷は語っていた。
そして、赤坂山王で用いられた阿芙蓉と、同時に浮上した『御師』と呼ばれる存在──。神田伊勢屋主人殺害に使われた阿芙蓉と曼荼羅華の出所。伊勢屋の事件と山王祭の事件は、実は根と根が繋がっているという話。
「無論、覚えている」
「ならば、話が早い」
神谷は宙へ目をやったまま続けた。お絹の方も、源一郎の方も見ていない。
「たとえばの話──その、お上の管理の外に流れる阿芙蓉。それを講の者から講の者へと配って回る、薬売りの体をした、窓口のごとき男がおったとする。何が言いたいかは想像の通りだが──神田伊勢屋で番頭に毒を売った薬売りも、此度、鶴喜で徳次郎に毒を都合した薬売りも、そして赤坂山王で、無宿人らに痛み止めと称して阿芙蓉を握らせた、あの御師を名乗る人物も。──実は、みな同じ一人の男だとしたら」
源一郎の目が細められた。
──やはり、そうか。
予感はしていた。だが、それが今、神谷の口によって、はっきりと一本に繋がった。赤坂山王。神田伊勢屋。京橋近江屋。別々に見えていた事件の背後では、一人の薬売りが糸を引いていた。
「その男はな──ただの薬の売り手ではない。お上の目を逃れて裏に流れる、出所の知れぬ阿芙蓉。その流れを知る、流通の結び目のごとき男だ。あの男の行方を手繰れば、阿芙蓉がどこで作られ、どこに出回っているのか──その大本に辿り着けるやもしれぬ」
神谷の声が低くなった。
「そういう男を鶴喜で、ただ縄にかけて終わらせては惜しい。糸の結び目を切れば、その先の糸は闇に消える。──ならば、泳がせる。泳がせて、足取りを追う。我らは今、その男の影を追うておる。江戸の内だけでは済むまい。いずれ、江戸の外までも伸びてゆくであろうな。──まあ、これはあくまで、たとえばの世間話でしてな」
神谷はそう言って、ふっと笑った。
源一郎は、しばし黙していた。
──そういうことか。
すべてが腑に落ちた。
お絹が薬売りを見逃したのは、先を見据えてのこと。御庭番は、あの薬売りこそ、裏に流れる阿芙蓉の結び目だと見抜いた。薬売り一人を捕らえ流れを断つことよりも、その奥にある大本──阿芙蓉がどこで作られ、誰の指図で行われているのか、その源を突き止めることを選んだ。
火盗改は目の前の咎人を捕らえる。御庭番は国を揺るがしかねぬものの根を探る。見ているものが、はなから違う。
「……なるほど。よく分かる、世間話だった」
源一郎は静かに言った。神谷もまた、ようやくいつもの調子に戻り、ふっと笑って猪口を傾けた。
「ご理解が早くて、助かるというものです。頭の固い御仁でなくて、安堵しておりますよ」
お絹が、おそるおそる顔を上げていた。その目には、まだ、躊躇いと申し訳なさのようなものが揺れている。
源一郎は、その目を見て小さく首を振った。
「お絹殿。気に病むことはない。お主は、御役目に従うたまで。──それぞれの役目で、それぞれの本丸を追う。それだけのことだ。むしろ近江屋から鶴喜まで、此度の捕物に力を貸してくれたこと、礼を言わねばならん」
源一郎が礼のために軽く頭を下げると、お絹の肩から、ようやく強張りが抜けた。
「……申し、訳……ございません」
ぽつりと、それだけを言った。
「謝ることでもない」
源一郎は庭の方へ目をやった。日溜まりの中で菖蒲がなおもアカをもみくちゃにしている。その長閑な光景とは裏腹に、あの薬売りは今もどこかで糸を引いているのだろう。
「いずれ、薬売りとは、相まみえることになろう。御庭番が手繰る糸の先で、か。火盗改が踏み込む先で、か。──その時は、互いの目的が合っているとよいのだがな」
神谷が盃を干して、にやりと笑った。
「その時は、是非とも手を携えたいものです。火盗改の鬼と、御庭番と。──存外、悪くない組み合わせかもしれません」
源一郎も、口の端を緩めた。
話が一区切りついたところで、源一郎は、お絹に向き直った。
「お絹殿。──猫のことだが」
お絹の目が、はっと源一郎に向いた。
「白狐殿が、お絹殿を直に見たいと仰っていること、神谷殿を通じて既にお伝えした通りだ。──此度、近江屋の一件は片がついた。白狐殿に頼まれていた、信心を食い物にする祈祷師どもの始末は、一先ず果たしたと言える」
源一郎は続けた。
「約定を忘れられぬ内に、白狐殿に、お絹殿と、憑いている猫を見ていただく。共に赤坂に参ろうか。──お絹殿と、神谷殿さえ、よければだが」
お絹は、しばし言葉を失っていた。
約定は果たされた。あとは自分が赤坂へ赴くだけ。長く己を苛んできた障りが、ようやく何か変化があるかもしれない──その予感が、このまだ年若い娘の胸に静かに満ちてゆくのが、源一郎にも見て取れた。
お絹は源一郎に対し、ゆっくりと深く頭を下げた。
「……よろしく、お願い、いたします」
その声は相変わらず低く訥々としていた。だが、行き場をなくした震えとは違う。確かな意志の宿った、まっすぐな声であった。
その横で神谷は何も言わないでいた。
ただ、深々と頭を垂れた妹の姿を、じっと見ている。その目には、いつもの飄々とした色はない。妹の障りに、ようやく射した一条の光を、喜ぶ──その奥に、もう一つ、何か思い悩むような翳りが差している。
源一郎は、その翳りに気づいた。
──何か抱えているようだ。
大凡の察しはつく。薬売りの足取りを江戸の外までも追う。その役目を誰が負うのか。あるいは、神谷の先程の口ぶりからすれば──既に上役から何かしらの沙汰が下りているのかもしれない。そして、もし自身が長く江戸を離れることになれば。口下手で、頼る知り合いもろくにない、この妹を、誰が面倒見るのかと──。
神谷は、それを口にはしなかった。ただ、猪口を手の中で弄びながら、チラと、もう一度お絹を見やり、何か言いかけて──やめた。
源一郎は、あえて問わなかった。言いたいことがあるならば、いずれこの男の方から切り出すだろう。──そう思い、ただ、黙って空になった猪口を満たしてやったのだった。