鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百四十二話 師の出立

 

 俊源坊より屋敷を発つと話があったのは、それから数日の後であった──。

 

 よく晴れた朝であった。秋の空はいよいよ高く、庭の萩はあらかた散って、代わりに庭石のあたりに(すすき)が白い穂を揺らしている。

 

 旅立ちの支度を済ませた俊源坊は、墨染めの鈴懸に頭襟を戴き、錫杖を手にして庭に立っていた。見送りに出たのは渡辺家の者ばかり──源一郎、お鈴、おたか。そして縁の下の日溜まりには、いつのまにか菖蒲がちょこんと座っていた。

 

 ――神谷とお絹を交えたささやかな酒宴の後、それぞれの役目へ戻っていった。だから今朝の庭には、先日の賑やかさはない。ただ、澄んだ秋の朝の静けさが、庭いっぱいに満ちていた。

 

 庭の隅の祠は、ひっそりと静まっている。灰狐とは昨夜のうちに別れを済ませてあったらしい。夜更け、源一郎が祠へ酒を供えに行くと、俊源坊が狐塚の前にしゃがみ込み、何やら奥へ話しかけていた。灰狐はこの豪放な天狗にはどうにも慣れないようだ。俊源坊が声をかけるたび、狐塚から見え隠れする灰色の尾が、びくりと震える。それでも、塚の奥から畏れを含んだ声で「……お達者で」と返していた。それが、灰狐の精一杯であったらしい。

 

 俊源坊はひとしきり皆を見回すと、ふと庭の隅に立てかけてあった木刀へ目をやった。

 

「源一郎」

「は」

「木刀を取れ」

 

 源一郎は師の顔を見た。その、いつもの笑みの奥に静かなものを湛えている。

 

「発つ前に、一手。──それが餞別代わりよ」

「餞別に稽古でございますか。──お師匠らしいことです」

 

 源一郎はしばし師を見つめていたが……やがて口の端を緩めて木刀を手に取った。

 

「では、遠慮なく」

「おう。──手加減は無用よ」

 

 二人は庭の中ほどで向かい合った。

 

 源一郎が木刀を中段に構える。俊源坊もまた無造作に木刀を上げ、その切っ先を源一郎の切っ先へ、そっと合わせた。

 

 こつ、と。木刀と木刀の先が触れる。

 

 ──それきり、二人は動かなくなった。

 

 お鈴は縁側からその様子を見守っていた。傍らには盆を抱えたおたかも立っている。

 

 稽古、と源一郎は言った。だが、二人はいっこうに打ちかからぬ。木刀の先を合わせたまま、まるで根が生えたように、その場から動かぬのである。

 

 打ち込みもせぬ。踏み込みもせぬ。ただ、切っ先と切っ先を、こつ、と触れ合わせたまま身じろぎひとつしない。

 

 傍から見れば、二人はただ庭の真ん中に突っ立って、木刀の先をくっつけ合っているだけであった。

 

「……お母さん」

 

 お鈴がたまらず、小声で養母である、おたかに問うた。

 

「旦那様と俊源坊様は何をなさっているのでしょう。ちっとも、お動きになりませんが……」

「さてね」

 

 おたかは、のんびりと首をかしげた。

 

「剣のことは私にはわかりませんが──あのお二方にしか見えていないものがあるのでしょう。下手に声をかけると邪魔になりますからね。黙って行く末を待つしかありません」

 

 そうなのだろうか、と思い──お鈴は、そこで息を呑んだ。

 

 源一郎の額に、うっすらと普段にはない汗が滲んでいた。俊源坊の赤ら顔も険しく引き締まっている。

 

 風が渡り、薄の穂が揺れる。庭の隅で菖蒲が面白くもなさそうに、その二人を眺めていた。

 

 どれほどの時が経ったであろうか――。

 

 小半刻か、あるいは、もっと短い間であったのかもしれない。だが、見守るだけのお鈴には、それがひどく長い時に思われた。

 

 と──。

 

「──ぬ、はっ、はっ」

 

 不意に俊源坊が笑い出した。

 

 からからと笑いながら、ひょいと木刀を引き、一息に後ろへ跳んだ。触れ合っていた切っ先が離れ、張り詰めていた気がフワリと解ける。

 

「参った、参った。──いや、参ったわ」

 

 俊源坊は木刀を肩に担ぐようにして呵々と笑った。

 

「これ以上は、爺の身が保たぬ。──降参よ、源一郎」

「お戯れを。──お師匠が『本気』であれば、私など、とうに床に転がされておりましょう」

「ぬかせ。──そのような心にもない世辞はいらぬわ」

 

 俊源坊はじろりと源一郎を睨んで、それから、ふっと目元を緩めた。

 

 源一郎は、ふうと、大きく息を吐く。中段に構えていた木刀を静かに下ろす。俊源坊がしみじみと源一郎を眺めやり、それから、ぽつりと言った。

 

「……馬鹿みたいに強くなりおって」

 

 その声には、呆れとも慈しみともつかぬ響きがあった。手塩にかけた弟子が、いつのまにか己の手に負えぬところまで来てしまった──そういう、師の感慨であった。

 

「儂が初めておぬしに木刀を持たせた時は、まだ洟垂れの小僧であった。──それが今では、剣に限定してとは言え、この大天狗を相手に遊びよる」

「お師匠の仕込みの賜物にございます」

「カ、カ、カ──師の手柄にしておくと、角が立たぬと思うたか。口の上手い奴よ」

 

 俊源坊は憎まれ口を叩きながらも、その目は笑っていた。源一郎は黙って頭を下げる。

 

 その様子を、お鈴はまだ半ば呆けたように見ていた。二人はついに一度も打ち合わなかった。ただ切っ先を合わせて、傍目、突っ立っていただけである。それなのに、二人ともまるで長い斬り合いを終えたかのように汗を掻き、息を弾ませている。

 

 一手終わり、俊源坊が井戸端へ顔を洗いに立った隙に、お鈴はそっと源一郎の傍へ寄った。

 

「あの……旦那様」

「うん?」

「先ほどの、あれは……一体、何をなさっていたのですか。お二人とも、ちっともお動きにならなかったのに……」

 

 源一郎は額の汗を拭いながら、ふ、と笑った。

 

「ああ、あれか」

 

 庭の中ほど、先ほど二人が立っていた辺りへ目をやる。

 

「──師と立ち合うとな。刀を振るうというより、詰め将棋のようなものになる」

「詰め将棋……」

「こう指せば、ああ来る。ああ来れば、こう返す。──切っ先を合わせた、その一点から、互いの手が、幾十手も先まで見えるのだ。ここで踏み込めば、こう斬られる。それを避ければ、次はここを突かれる。気の競り合いと言うのか──打ち合わずとも勝負はつく」

 

 源一郎はお鈴に剣の稽古とは打ち合うだけではないと説いた。

 

「先に読み切った方が勝ち。──今日は、お師匠が退いてくださった。それだけのことだ」

 

 お鈴は目を丸くした。

 

「まあ……。では、あのじっとしていらした間、ずっと頭の中で……?」

「将棋のように実際に頭の中で、という訳でもないのだが……要は気のぶつけ合いだ。一刀を打つ、受け流す、刀を返す、突く、凌ぐ──気に威を乗せ、斬り合うのだ。幾度もな」

「はぁ……女子の私には何やら難しいお話にございます」

 

 お鈴の釈然としない表情に、源一郎は笑みを浮かべた。

 

「競り合いで俺は一度死んだ。逆に俺の刃も、師に何度か通った。──もっとも、お師匠の本分は剣にはないのだがな」

 

 源一郎は事もなげに言った。お鈴は、改めて庭の中ほどを見つめた。何もない、ただの秋の庭。だが、つい今しがた、そこでは目には見えぬ斬り合いが繰り広げられていた。

 

「──剣の道とは何やら奥深いのですねぇ……」

 

 お鈴が、なるほど、と頷く。源一郎は今度は答えず、また可笑しそうに笑った。

 

 やがて、顔を洗い終えた俊源坊が、さっぱりとした顔で戻ってきた。

 

「さて──江戸にも長居が過ぎたわ。そろそろ参るとしよう」

 

 俊源坊は錫杖を手に取り、あらためて、渡辺家の面々を見回した。

 

 まず、おたかへと視線を合わせる。

 

「おたか殿。世話になったな。──おぬしの膳は美味かった。あの煮つけの味は、当分忘れられそうにない。あれだけが、この屋敷を発つのに名残惜しく思うところよ」

 

 おたかが表情をほころばせ深々と腰を折った。

 

「もったいないお言葉で。──お口に合いましたなら何よりでございます。また、いつでも、お立ち寄りくださいまし。腕によりをかけて拵えますので」

「おう。それを楽しみに、また来るとしよう」

 

 俊源坊はからりと笑った。

 

 次に、お鈴へ。

 

「お鈴──。源一郎を頼むぞ。この男は剣は立つが、存外に危なっかしいところがあるでな。傍で見ておらぬと、いつ無茶をするかも知れぬ」

「は、はい。心得ております」

「うむ。──おぬしがおれば、儂も安心して発てるというものよ。逆に、おぬしも源一郎を頼りにな。それなりの甲斐性はあるのだろうからな」

 

 お鈴が、ぺこりと頭を下げた。

 

 それから、俊源坊は庭の隅の日溜まりへ、ゆっくりと向き直った。そこには菖蒲が相変わらず表情の読めない顔で座っている。その小さな座敷童子の前に立つと、意外なほど丁寧に腰を折った。

 

「菖蒲殿。──長々と邪魔をいたした。この屋敷をよう守っていてくだされた。おかげで、儂も心安く羽を休めることができ申した。──礼を申す」

 

 家を守る神への礼。天狗が座敷童子へ頭を垂れる。

 

 菖蒲はその丁寧な物言いを不思議そうに見上げていたのだが──やがて、ちいさな手を、ひょい、と挙げた。

 

「……ばいばい」

 

 俊源坊の動きが止まった。

 

「……ばい、ばい?」

 

 怪訝そうに眉を寄せる。聞いたことのない言葉であった。諸国の檀那場を巡り、数百年と人の世を眺めてきたが、そのような別れの言葉はついぞ耳にしたことがない。

 

「はて。──菖蒲殿。その、ばいばい、とは、なんのことか」

 

 菖蒲は答えない。俊源坊はしばし首をひねっていたが、やがて、ちらと源一郎を見やった。

 

 源一郎は素知らぬで、庭の空を眺めている。

 

 ──はて。この座敷童が、どこでそのような言葉を覚えたのか。

 

 訝しむ。座敷童子は住まう家の者の口ぶりを、いつのまにか写し取る。この屋敷でそのような妙な言葉を使う者といえば──。

 

 俊源坊の視線が、じろりと源一郎に向いた。源一郎は視線を合わせない。あまりにわざとらしく。

 

「……源一郎。おぬし、幼少期の奇妙な言葉を写し取られたな」

「……はて。何のことやら」

「まったく──聞き馴染みのない奇妙な言い回し。おぬしの他に誰がおる」

 

 俊源坊はやれやれと首を振り、それから菖蒲へ向き直ると意を決したように、己もれも、ひょい、と片手を挙げてみせた。

 

「……ばい、ばい。これでよいのか、菖蒲殿」

 

 菖蒲は、それにはもう応えず秋晴れの空を眺めている。手を挙げたのは、ほんの気まぐれであったらしい。俊源坊は毒気を抜かれたように笑った。

 

「……菖蒲殿の考えはとんと分からぬわ」

 

 そう独りごちて、源一郎へ向き直る。

 

「源一郎。剣の稽古を怠るなよ。──先はああ言うたが、お主の剣はまだ底が見えておらぬ。精進する限り、まだまだ伸びるのであろうよ」

「肝に銘じます、お師匠」

 

 源一郎が深々と頭を下げた。

 

「それから──な」

 

 俊源坊は、ふと思い出したように言い添えた。

 

「その内、高尾の山へも顔を出せ。──烏天狗どもが退屈しておってな。お主と手合わせがしたいと煩いのよ。お前が来たと申せば、あやつら山深くから飛んで出てくるわ」

 

 源一郎は苦笑した。

 

「烏天狗の稽古相手でございますか。──それはまた骨が折れます」

「なに、ちょうどよい修行になろう。あやつら宙を飛ぶでな。地に足のついた剣ばかりでは届かぬ間合いというものを思い出させてくれるであろうよ」

「人の世では、地から足が離れることの方が珍しいですからね」

「はっはっ。──分かっておるではないか」

 

 俊源坊は愉快そうに笑い、それから、にやりと目を細めた。

 

「──待っておるぞ、源一郎」

 

 そう言うと大天狗は、錫杖を、しゃん、と鳴らした。

 

 そして、ゆっくりと背を向けて歩き出す。一歩ごとに、しゃん、しゃん、と錫杖の遊環が澄んだ音を立てる。墨染めの背が秋の朝の光の中、遠ざかってゆく。

 

 源一郎、お鈴、おたか。三人は門前に並んで、その背を見送った。

 

 一度だけ片手を挙げた。しかし振り返りはしない。ただ、その大きな背中が、こちらの見送りに応えるように、ひょいと手を挙げてみせただけ。

 

 そして、その姿は角を曲がり見えなくなった。

 

 錫杖の音だけは、しばし遠く聞こえていたが──それも秋風の中に溶けるように消えていった。

 

 天狗はまたどこぞの山へ、檀那場へと去っていったのだ。

 

 源一郎は暫し、その消えた辺りを見つめていた。

 

 ──また、ふらりと戻ってくるのだろう。

 

 胸の内で独りごちる。あの御仁のことだ。風の向くまま、気の向くまま。そしてある日、何食わぬ顔で屋敷の縁側に座り、おたかの膳をつついているに違いない。

 

 庭へ戻ると、菖蒲が庭石のあたりを眺めている。もう天狗のことなど忘れた顔であった。

 

 ふわりと──金木犀の香が流れてきた。

 

 見上げれば、秋の空はどこまでも高く、青く澄んでいる。庭の薄がさやさやと風に鳴り、萩の散った庭に、ひとひら、またひとひらと木犀の小さな黄の花が舞い落ちる。

 

 源一郎は、その香を胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 ──父の役目を継ぎ、早幾月か。いつの間にか秋ももう深い。

 

 朝夕の冷えは、日に日に増している。庭の木々も、そろそろ色づき始めた。この金木犀が散り、木の葉が尽く落ちる頃には──江戸には厳しく長い冬が来る。

 

 源一郎はゆっくりと踵を返し、屋敷の中へと戻っていった。その背を澄んだ秋の日が静かに照らしていた──。

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