その年は、二の酉まであった。
十一月の酉の日、浅草の鷲神社は、朝から夜まで人が絶えない。
源一郎がお鈴を伴って出向いたのは、日の傾きかけた頃であった。近江屋の一件も鶴喜の捕物も落着を見て、火盗改の役宅にも、しばしの凪が訪れている。長らく気の休まらぬ日が続いた。ようやく巡ってきた非番の日であった。
源一郎は堅苦しい羽織袴も脱ぎ、この日は着流しに一本差しの、ごく気楽な出で立ち。とはいえ、その長身と鍛え上げた肩や胸の張りは、着流しの上からも隠しようがない。
傍から見れば、鍛錬を欠かしていない番方の武士であるのは明白。連れの娘を伴った、その粋な立ち姿には人目を引くものがあった。
浅草の田圃道を抜けて社へ近づくにつれ、人の波は段違いに厚くなる。
日が傾き、あたりが暮れなずむにつれ、参道の提灯に次々と灯が入ってゆく。熊手屋の軒という軒に、朱や白の提灯が、鈴なりに吊るされている。それが、一つ、また一つと明るく揺れる様は、どうしてか心を浮き立たせて仕方がない。
宵闇の中に並ぶ灯りは非日常の光景──数え切れぬほどの灯が、うねる人の波の上にずらりと連なる。その明かりに照らされた参道は、人の賑わいに満ちている。
大きな熊手を担いだ男が威勢よく人をかき分けてゆく。あちらの店先で手締めが起これば、こちらの店先でも、たちまち、タン、タン、と手拍子が鳴る。売れた熊手の景気を祝う、独特の賑わいであった。
お鈴はその人混みの中ではしゃいでいた。
「まあ、源一郎さま。あれを、ご覧ください!」
指さす先には家の間口ほどもあろうかという、大熊手が飾られている。小判に大黒、鯛に宝船、ありとあらゆる縁起物をこれでもかと盛り込んだ、目もくらむばかりの代物であった。
「随分と大きなものだな」
「あれを買うのは、よほどの大店の旦那衆でございましょうねぇ……」
お鈴の頬が宵の提灯の灯を映して、ほんのりと染まっている。役目の折の、密偵としての取り繕った顔とは違う。源一郎のよく知る普段の顔であった。その横顔を飽かずに眺めた。
人混みに揉まれ、肩をぶつけられ、よろめいたお鈴がたたらを踏んだ。
ふと、そのままお鈴が人波にさらわれて、源一郎から離れかけた。源一郎は咄嗟にその手を掴んだ。お鈴が驚いてハッと見上げる。往来で女の手を取るのは武士の体面上憚られることだ。
「──はぐれるぞ。近くに寄れ」
源一郎は短く言った。それから手を離して袂を掴ませて歩き出す。お鈴は恥ずかしそうに俯いて、袂を引き寄せた。源一郎の背にぴたりと寄り添うように、その後を歩く。
やがて人混みが少し緩むと、お鈴はごく自然に源一郎の隣へと並んだ。肩を並べ、袖を触れ合わせて歩く。武家の作法からすれば、供の女は主の後ろに従うのが常。妻女であってさえ、人前で夫と並んで歩くなど、しまりのないことと陰口を叩かれる。
だが、源一郎は気にしなかった。
武士たるもの厳格であれと、いくらお上が触れを出したところで、人の情までは縛れぬ。現に、旅の街道筋で仲良く並んで土産を覗き込む夫婦者もいれば、妻可愛さに人目も忘れて肩を並べる侍もいる。そういう手合いは決まって「だらしない」と揶揄されるが──裏を返せば、揶揄されるほどに、そうする者が確かにいたということだ。
誰が見ていようと、何を言われようと、知ったことではない。源一郎はそういう男であった。だから、お鈴が隣に並んでも、袖が触れても、素知らぬ顔で歩いてゆく。触れ合うのは袖の端ばかり──それくらい良かろう、それとも江戸の町とはそれすら許さぬほどに狭量なのかと源一郎は思っていた。
──出店で熊手を一つ買った。
源一郎が選んだのは大熊手ではない。掌にも載るほどの、五寸ばかりの小さな、かっこめ熊手であった。
「これでよろしいので?」
熊手屋の親父がいささか拍子抜けした顔をする。源一郎は値を聞くと、言い値より多く紙に包んで親父の手に握らせた。
「酉の市は初めてでな。毎年、少しずつ大きくするのだろう? ほら、金だ。釣りはいらんぞ」
「──こいつぁ、旦那。話の分かるお人のようで」
親父の顔が、ぱっと明るくなった。すかさず傍らの手代に目配せする。
「ようがす、ようがす。それじゃ、粋なお客人に一丁いきやしょう。──よぉお」
タタタン、タタタン、タタタンタン。
景気のよい手締めが、高らかに鳴った。タタタン、タタタン、タタタンタン。
「よいさっ」
手代が火打ち石と打ち金を、その拍子に合わせて、かちかちと打ち合わせる。
「もう一丁っ!」
タタタン、タタタン、タタタンタン──。手のひらのぱちぱちと、火打ち石のかちかちとが、入り混じって鳴り渡る。清めと景気付け──切り火の小さな火花が、宵闇にちらちらと散った。
周りの客が振り返る。お鈴は恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに肩をすくめて笑っていた。
値切った分はご祝儀として店に置いてゆく。それが粋な旦那の作法とされた。源一郎はそういう振る舞いに、ずいぶんと馴染んできた己を可笑しく思う。
小さな熊手は、お鈴に持たせた。
「ほら、お前にやる」
「私に、でございますか?」
「お前の部屋にでも飾っておけ。──福をかき込むそうだからな」
お鈴は掌の熊手を大事そうに両の手で包んだ。
それから境内を出て、参道の露店を二人で冷やかして歩いた。
切山椒を売る店、八つ頭を積んだ店、黄金餅の甘い匂い。人の熱気と、灯の温もり──冷えた宵の道に、温もりすら感じられる。お鈴はあれを見ては笑い、これを見ては目を輝かせ、立ち止まっては源一郎の袖を引いた。
と──。
ある小間物屋の前で、お鈴の足が止まった。
簪や櫛、笄の類を並べた店である。行灯の灯に鼈甲や銀の細工がちらちらと光っている。お鈴はその中の一つに目を留めていた。
銀の平打ちに、小さな鈴を象った飾りの簪であった。揺らせば、ちりん、と微かに音の鳴る仕掛けである。
お鈴はそれをじっと見ていた。手に取るでもなく、強請るでもなく。己の名にちなむその意匠が気になるらしい。だがすぐに、いけない、というように目を逸らした。
「まいりましょうか、源一郎さま」
お鈴はそう言って歩き出そうとした。だが、源一郎は動かなかった。その簪を店の親父に指さして求める。
「オヤジ、そいつを貰う。幾らだ」
「源一郎さま──?」
「そのように物欲しそうな顔をされてはな、買わねば男が廃るというものだろう。──ほら、贈り物だ」
源一郎は事もなげに言った。買い求めた簪をお鈴の手にぽんと載せる。
「お鈴、お前に。──役目の際には使えぬだろうがな。屋敷におる時にでも挿していればいい」
お鈴が目を見開いた。掌の上の鈴の付いた簪を、まじまじと見つめる。それから、その目がみるみる潤んでいった。
「……よろしいのですか。こんな良いものを」
「たまには、な」
源一郎は、ぶっきらぼうに言って目を逸らした。人前でこういうやり取りをするのは、どうにも面映ゆい。
お鈴は簪をそっと胸に抱き、俯いていたが──。
ふと、小間物屋の品揃えに目を向けた。その店では簪や櫛、笄だけでなく、鈴そのものも多く売られていた。
大小さまざまの鈴。神楽鈴のような大ぶりのものから、掌に転がるほどの小さなものまで。行灯の灯に、銀や真鍮の肌が鈍く光っている。
酉の市の夜は、社の東にある吉原が格別に賑わう。市帰りの男たちが、そのまま門をくぐるのだ。そのため、参道には遊里の女への土産を売る店も出ていた。中でも、音色の美しい小さな鈴は女たちに喜ばれる土産であった。吉原の女は座敷の引き戸の錠前や、巾着の紐に綺麗な音のする鈴を付けるのを好む。ちりん、と鳴る、その音色の鈴を。
お鈴はしばし思案していた。
それから意を決したように、一つ鈴を手に取り、耳元でそっと振ってみる。ちりん、ちりん、と、音が店先に鳴った。
一つ一つ音を確かめ──やがて、お鈴は一つの鈴を選んだ。
銀の細工の鈴。掌に転がるほどの、小さくささやかなもの。だが、それを振ると一際澄んだ、清らかな音が鳴った。酉の市の雑多な喧騒の中でも、その音は不思議なほどはっきりと通る。
お鈴はその鈴を買い求め、掌に握りしめては、祈るように念を込めた。
「……源一郎さま」
お鈴が源一郎に向き直る。そして、握った掌をそっと開いて差し出した。掌の上に、その小さな鈴がちょこんと載っている。
「わたしからも。この鈴を源一郎さまに」
「うん?」
源一郎が、その鈴を掌に受け取った。
「源一郎さまは危険なお役目に就いておられます。火盗改の御用は命がけ。刃を交える相手も多くございます。──私では、お傍でお守りすることはできませんから」
お鈴の声は少し沈んでいた。
「せめて、これを。お守り代わりに持っていてくださいまし。──源一郎さまが、どんな場所へ行かれても。この鈴だけはお供できますように」
源一郎は掌の中の小さな鈴を見つめた。
ちりん、と一つ鳴らしてみる。澄んだ音色。心の澱みを晴らすかのような。そんな清らかな響きであった。
源一郎はその鈴を、しかと握りしめた。
「……ありがたく、貰っておく」
短い一言。それだけであった。だが、その一言に言い尽くせない情が籠もっていることは、お鈴にも分かっていたであろう。
簪と鈴。互いに贈り物を交わした。お鈴の名にちなんだ簪と、お鈴の選んだ澄んだ音の鈴と。二人は顔を見合わせ、そして……どちらからともなく笑った。
──やがて、日はとっぷりと暮れた。
参道の提灯が、いよいよ鮮やかに宵闇を彩る。だが、賑わいが増すほどに冷えもまた増してくる。秋も、もう深い。吐く息が白んでいた。
「……冷えてきたな」
源一郎が言った。お鈴の肩が寒さにわずかに縮こまっている。
「本所までは少々遠い。──まぁ……別に急いで帰る必要もあるまい」
源一郎は暮れた空を見上げてポツリと言った。
お鈴はちらと源一郎を見上げた。その頬が、灯のためばかりでなく仄かに染まってゆく。その意味するところを、お鈴も分からぬ訳ではない。
「……」
お鈴は、俯きがちに小さく頷いたのだった。