浅草の外れ──人目につかぬ路地の奥に出会い茶屋の灯が見えた。
訳ありの男女が、忍んで一夜を過ごす宿である。源一郎が暖簾を潜り声をかけると、心得ている女将が奥まった一間へと二人を通した。
──行灯の灯が一つ。床は既に敷かれている。
源一郎は腰の一本を鞘ごと抜いて枕元に置いた。それから懐から十手を取り出す。十手は普段から肌身離さず持っている。非番とはいえ、それは変わらない。
源一郎はその十手の柄の緒に鈴を、そっと結わえつけた。指で鈴を軽く突けば、ちりん、ちりん、と、澄んだ音が続く。
「──良い音だ。これで御用の折にも、この音が供をしてくれるな」
お鈴が何も言わず、その結い付ける様を眺める。その口元は綻んでいた。
──夜が更けるにつれ、秋の冷えが障子越しに忍び寄ってくる。お鈴が甲斐甲斐しく源一郎の世話を焼く。茶を淹れ、肩の凝りをほぐし──やがて、行灯の灯を落とした。
薄闇の中、源一郎はお鈴の手を取り引き寄せた。
お鈴は抗わなかった。源一郎の膝の上、横向きに収まるように身を預ける。源一郎の手が、お鈴の頬に触れ、顎をそっと上向かせた。薄闇の中で二人の目が合い──お鈴の睫毛が震えた。どちらからともなく、唇が重ねる。柔らかな感触であった。
その髪には源一郎が贈った簪が挿されている。ちりん、と鈴の飾りが微かに音を立てた。
源一郎の手がお鈴の帯に掛かった。しゅるり──衣擦れの音を立てて帯が解けてゆく。
小袖がはだけ、長襦袢が現れる。お鈴の白い喉元から、鎖骨のあたりまでが、薄闇にほのかに浮かんだ。源一郎の手が、その肩を、腕を、なだらかな腰の線を辿る。
細い体つきに似合わず、その肌はしっとりと柔らかく掌に吸いつくようであった。触れれば指が沈み、押し返してくる確かな弾力がある。お鈴の口から堪えるような、艶やかな吐息が漏れた。
「……源一郎、さま……」
小さく、お鈴がその名を呼ぶ。源一郎は応えず、ただ、その白い首元に唇を寄せた。お鈴の体がびくりと跳ね、それから力を吸われるようにして脱力していった。結い上げた髪は綺麗に整い、しかし、その蕩けた表情、乱れゆく姿との対比が、いっそう妖艶さを感じさせた。
源一郎は、お鈴の体を床へとゆっくり倒した──。
廊下から漏れる行灯の淡い明かりが、暗闇の二人を仄かに照らす。お鈴の細腕が源一郎の背に縋るように回された。
衣の乱れ、擦れる音。源一郎の耳元で切れ切れに交わされる、言葉にならぬ艶声。その声には狂おしい情が籠もっていた。
お鈴の所々丸みを帯びた体の曲線、白く柔らかな肌が薄闇に陰影を浮かばせ、源一郎の腕の中で悶える──。
抱き寄せれば、その柔らかさ、その香りに──源一郎は魅了させられ虜となった。甘い吐息──体を揺さぶるたび、お鈴は小さく身を震わせ、こらえきれぬ嬌声を漏らす。その声が源一郎の名を幾度も、余裕なく呼ぶ。
秋の夜の静寂の中、二人は声を押し殺すようにして互いの肌の温もりを深く確かめ合った。長い、睦み合いであった──。
やがて──程度の差こそあれ、息を弾ませた二人が床に並んだ。
息も絶え絶えのお鈴は、寄り添う源一郎の胸に頬を寄せ、その鼓動を聞いていた。源一郎の手が、お鈴の汗ばんだ背をゆっくりと撫でている。
乱れた息が少しずつ鎮まってゆく。心地よい、穏やかな沈黙を迎えていた。
「……源一郎さま」
源一郎の胸に頬を寄せたまま、お鈴が、ぽつりと言った。
「本当によろしかったのですか。大事な十手に鈴を結んでしまって。役目のお邪魔にならなければよいのですが……」
源一郎は枕元の十手へ、ちらと指先を伸ばした。柄の緒に結わえた小さな鈴が、指先で、ちりん、と澄んだ音を立てる。
「構わん」
源一郎は低く、断じるように答えた。
「お前がくれたものだ。ここが一等ふさわしい」
源一郎の言に、お鈴がくすりと笑う。火の落ちた薄闇の中、しばらく穏やかな会話を楽しんでいたが、やがて──。源一郎の方からぽつりと切り出した。その声からは、先ほどまでの戯れの色が消えている。
「……お鈴。一つ、言わなければならないことがある」
「はい?」
「今回の一件のことだ。──お前の中の狐が表に出た、あの時のことだ」
お鈴がそっと顔を上げた。薄闇の中で、その表情が僅かに曇るのが分かる。
「……はい」
「狐が表に出てきたのは──俺のせいだった」
源一郎は静かに言った。
「近江屋へ入る密偵の役目を、俺はお絹殿に任せると決めた。段取りにばかり気を取られ、お前なら理解してくれるだろうと……一言、問うことすらしなかった。──萬屋の時のように、此度も自身が行くものと信じていたのだろう。それを俺は相談することなく他の者に渡してしまった」
お鈴の瞳が揺れた。
「お鈴は昔から大事なことは隠す。不平も、不満も、口にせぬ性分だと……よく知っていた筈なのだがな。──その胸の内では、ずっと願ってもいたのだろう。役に立ちたいと。認められたいと。それを俺が蔑ろにしてしまった。行き場をなくしたお前の想いが、狐となって表に出てきた。──そうなのであろう」
お鈴は俯いた。しばらく、答えなかった。しかし、やがて消え入るような声でぽつりと言った。
「……私は怖かったのです。居場所がなくなってしまうようで」
源一郎の手が、止まった。
「萬屋の時は私が参りました。此度も、きっと──と、そう思ってました。お傍で役に立てる。それがあればこそ、私は屋敷に身を置けるのだと。──ですが、此度はお絹様が。わたしの出る幕はどこにも……」
お鈴の声は震えていた。
「私と源一郎さまは……その、なんと申せばよいのか。夫婦でもなく、ただの主従とも違いましょう。名の付けようもない、あやふやなもの。──そのあやふやなものを繋いでいたのが、役目だったと思います。お傍で働くこと。それだけが、私の確かな居場所で」
源一郎は言葉を失った。
お鈴にとって役目とは、ただの役目ではなかった。それは名を持たぬ二人の関係を、辛うじて結び留めていた細い糸だったのだ。その糸を、源一郎は何の気なしに断ってしまった。お鈴が己の居場所を失ったと感じ、行き場をなくした想いが狐となって溢れ出たのも──無理からぬことだった。
「……そう、か」
源一郎はようやくそれだけを口にした。
「俺は、何も分かっておらなんだな……」
心情を反映するかのように、お鈴の頭をそっと胸に抱き寄せる。
「すまなかった、お鈴。──お前の居場所を奪いかけたのは俺だ。お前の想いを、俺は長いこと当たり前のものとして受け取ってきた。だから、すまぬ」
お鈴の肩が小さく震えた。じわりと、その目が潤んでゆく。
「そのようなこと……源一郎さまが詫びることなど、何も……」
「どうか詫びさせてくれ。俺の気が済まぬ」
お鈴はそれきり言葉にならぬようであった。ただ、こくりと頷いて、源一郎の胸に額を押し当てた。
──源一郎は天井を見上げた。
お鈴の内にある狐──鈴狐を疎む気持ちはない。鈴狐は、お鈴が胸の奥に押し込めてきた願いそのもの。紛れもなく、お鈴の一部なのだ。封じるのでも追い払うのでもなく、名を与え家の者として迎える。それは既に腹を決めたことだった。
だが──恐れがないと言えば嘘になる。
鈴狐が表に立てば、お鈴は奥深くへ眠り、その間のことを何一つ覚えていない。あの近江屋の一件の折、お鈴が己の中の狐に身を明け渡した、あの時。源一郎は、確かに一度、お鈴を失ったのだ。腕の中で目を覚ましたお鈴が、寝ぼけ眼で「わたしは、何か仕出かしたのでしょうか」と問うたその声を聞いて、ようやく一心地つけた。──あの綱渡りのような緊張。二度と味わいたくはなかった。
──そして、もしもいつか。鈴狐が表に出たきり、お鈴が目覚めなくなったら。あるいは、お鈴が己に見切りをつけ、狐に身を譲ったまま奥へ退いてしまったら。どちらであれ、源一郎は己の半身を失うことになる。
母を早くに亡くし、人とは異なる子どもとして独りであった頃から、常に傍にいてくれた娘。お鈴のいない暮らしなど、源一郎には考えることすらできない。それを失うことは、盗賊の刃を受けるよりも、ずっとずっと恐ろしかった。
「……源一郎さま?」
黙り込んだ源一郎を、お鈴が不思議そうに見上げた。
「いや」
源一郎はまた、お鈴の体を強く抱き寄せた。
「近江屋で目を覚ましたお前が、何も覚えていなかった時。俺は肝を冷やした。腕の中に、お前がいるのに……お前がいなくなる気がして。あの時ほど恐ろしいと思ったことはなかった」
源一郎は言葉を切った。
お鈴は源一郎の腕の中で、キョトンとしていた。それから──ふと、その口元に悪戯めいた笑みが浮かんだ。薄闇でもそれと分かる。
「まあ。──では、源一郎さま。それはもしや、私のことを、それほどまでに必要としてくださっていたのですか?」
冗談めかした軽い声だった。だが、その奥に隠しきれぬ嬉しさが滲んでいる。
源一郎はばつの悪そうな顔をした。それから観念したように低く答える。
「……当たり前だ」
短い、けれど、まっすぐな言葉であった。
お鈴の目が驚いたように瞬く。冗談のつもりで投げた問いに、源一郎がこれほど素直に答えるとは思っていなかったのだろう。
「……源一郎さまは」
お鈴の声が震えた。
「ずるう、ございます。そのように、まっすぐに仰られては……わたし、どうしてよいか、分からなくなります」
お鈴は源一郎の胸に顔を埋めた。その肩が小さく震えている。源一郎はその背を、またゆっくりと撫で始めた。
ふと、源一郎は思った。
──このままでは、いけない。
夫婦の約束もなく、行く末を語ることもなく。ただ、名の付けようもない情に甘えて、お鈴の献身を当たり前のものとして受け取ってきた。その曖昧さの上に胡座をかいていたからこそ、お鈴は役目一つに己の居場所を賭けねばならず、それを失いかけて傷ついた。
──悪いのは煮え切らぬ己の方だと。
今宵、鈴を交わした。名を持たぬ二人の関係を繋ぐものが、役目の他に、もう一つ増えた。だが、それとて曖昧なものに変わりはない。いつまでも、こうしてはいられない。この娘に対して己がどうしたいのか。いずれ、きちんと腹を括らねばならぬ時が来る。
その答えを、源一郎はまだ持っていない。だが──失いたくないという想いは確か。いつか必ず。逃げずに向き合わねばならない。
源一郎は腕の中のお鈴を、静かに見下ろした。
「お鈴」
源一郎は、静かに言った。
「鈴狐のことは、これから、ゆっくり考えてゆけばいい。白狐殿も、灰狐殿も、力を貸してくれる。──お前も鈴狐も、二人とも俺が守る。お前の居場所は俺が必ず守る。お前をどこかに行かせたままにはしない。だから、案ずるな」
自らに言い聞かせるような言葉。お鈴は顔を上げた。涙の跡の残る目で源一郎を見つめる。
「……はい。源一郎さまが、そう仰るなら──わたしは何も恐れません」
お鈴が綻ぶように笑った。
源一郎も目元を緩めた。お鈴は、もう一度、源一郎の胸に頬を寄せた。今度は安らいだ吐息とともに。
しばし、二人はそうしていた。
やがて──源一郎の手が、また、ゆっくりと動き始めた。汗の引いたお鈴の背を、腰の線をゆるりと辿り下ってゆく。
お鈴の肩が小さく跳ねた。
「……もうっ」
咎めるような、けれど拒む響きのない声。源一郎は、クツクツと悪戯気に笑った。
「今夜は本所には戻らんのだし──夜は長いだろう?」
「……源一郎さまは、本当にずるいお人にございますね」
ジットリした視線を向けて言いながら、お鈴の腕はまた源一郎の首に回されてゆく──。
今度は、明確にお鈴から唇を重ねた。
一晩中続くのであろう。障子の外では酉の市の賑わいの名残が遠く聞こえていた。手締めの音が風に乗って届き、夜の静けさの中に溶けてゆく。
枕元の十手の鈴が二人の身動ぎで、ちりん、と一つ鳴った。
二人の重なる影を、そっと見守るように──。