深川の夜は、川水の匂いがする。
堀割を渡る風が昼間の喧騒をすっかり洗い流し、湿った土と川藻と、どこかの寺町から流れてくる線香の匂いを運んでくる。亥の刻を過ぎれば、木場の職人も船頭も煮売り屋の親父も、みな寝静まる。柳並木の影が、月のない夜には墨を流したように黒く、堀に濃い影を作っていた。
夜鷹の女──お琴はその黒い水辺の道を独り歩いていた。
草履の裏が、じっとりと湿っている。今夜は客がつかなかった。宵の口に一度、酔った職人に袖を引かれたが、見るからに一文なしの酔いっぷりで、お琴の方からあしらった。それきりだった。
筵を丸めて小脇に抱え、お琴はため息をついた。今日も実入りはなし。米櫃の底はもう見えている。明日はどうやって食いつなごうか──。
そんなことを考えながら歩いていて、ふと、お琴は足を止めた。
──見慣れた光景。
この刻限でも辻の角には夜鳴き蕎麦の屋台が出ている。喜助という気のいい親父がやっている屋台で、お琴のような夜鷹にも嫌な顔ひとつせず、あたたかい蕎麦を食わせてくれる。今夜も、その屋台はいつもの場所に出ていた。
提灯が灯っている。夜鳴き蕎麦と染め抜かれた、赤い温かみのある灯り。鍋からは白い湯気が、ゆらゆらと立ちのぼり、蕎麦つゆの香りが闇の中に漂っていた。
温かいものが恋しかった。お琴はふらりふらり、とその灯りへ寄っていった。
しかし──奇妙だった。
屋台に近づくにつれて灯りが蔭ってゆくのだ。
あれほど赤々と灯っていた提灯の火が、お琴が一歩踏み出すごとに少しずつ儚くなってゆくのである。やがて、お琴が屋台に手の届くところまで来た時には、灯りは既に消えていた。
──辺りは暗闇。
鍋の湯気も、幻のようにいつの間にか消えている。蕎麦つゆの香りも失せていた。ただ火の消えた屋台が、ただぽつんと辻に置き去りにされて在るばかり。
「……喜助さん?」
と、声をかけた。返事はない。屋台の陰を覗き込んでも誰もいない。確かに灯りが灯っているのをみた。湯気が立ち、香もしていた。それなのに、火も、湯気も、人の気配も、まるで初めから無かったかのように……無人の屋台だけが置き去りにされている。
「……なんだか薄気味悪いねぇ」
お琴は屋台を離れて足を速めた。長屋への帰路を急ぐ。だが、歩けば歩くほど薄気味悪さは濃く、違和感は大きくなっていった。
誰もいないのだ──。
夜更けとはいえ、これほど人の気配のない夜はなかった。犬の遠吠え一つ、赤子の夜泣き一つ聞こえてこない。木戸番の姿も見えない。ただ、自分の草履の音だけが、ザリザリと湿った地面に響いている。まるで自分一人だけが、この夜に取り残されているかのように。
その時、背後で音がした。
ぴちゃ──。
濡れた足の裏が地面を離れる音。
お琴は、はっと振り返った。
──しかし、誰もいない。
黒い道が月のない闇の中に、ただ伸びているだけ。柳の影が化け物のように見える。その影に何かがいる気がして怖くなった。
気のせいだ。そう己に言い聞かせて、お琴はまた急くように歩き出した。
ぴちゃ。ぴちゃ──。
間違いではない。また聞こえた。
自分の草履の音に、もう一つ、別の足音が重なっている。濡れた足音。お琴が足を速めれば、それも速まる。お琴が立ち止まれば、ほんの一拍遅れて、それも止まる。
振り返っても誰もいない。
だが、確かに何かがいる。見えないだけで、すぐ後ろに──!
お琴の心の臓が早鐘のように打ち始めた。息が浅くなる。この感覚をお琴は知っている。忘れたくても、忘れられない。この、背後にぴたりと張りつくような、逃げ場を塞ぐような粘つく気配。
やがて、声がした。
ごぼ、と、水を吐くような音だ。
──……ォ、こ、トぉ…
水で満たされた肺の奥から無理矢理空気を絞り出すような声であった。生きた人の喉から出る声とは到底思えない。
お琴の全身が硬直した。
その声を聞き間違えるはずがない。それは三年前に死んだ亭主の声だったのだから。
耳のすぐ後ろで、ごぽり、と、水の溢れる音がした。滴る水の音がパタタ、と地面に染みを作るような。生ぬるい息がうなじにかかる。恐怖──お琴はたまらず、すぐ傍にあった長屋の戸に取りすがった。
「もしッ、もし!お助けをっ、どうか開けておくんなさいましッ」
戸の向こうは、暗い。中に人がいるのかどうかも、わからない。だが、選んでいる余裕などなかった。お琴は拳が痛むのもかまわず、必死にその戸を叩いた。
「後生です、助けてッ。誰か、誰かいるんでしょうッ」
だが──。
いくら叩いても、返事はなかった。障子戸一枚、隔てたすぐ向こうに、人がいるのかどうかすら分からない。物音ひとつ、返ってこない。まるで、お琴の声など、初めから届いていないかのように。
次の家も、その次の家も、同じだった。叩いても、叩いても、誰も応えない。人の気配が感じ取れない。お琴の声は誰にも届かない。それはまるで、お琴が、生きている者の世から少しだけずれた場所に、引きずり込まれてしまっているかのように。
ぴちゃ。ぴちゃ──。
逃げるお琴に……足音は着実に近づいてきていた。
§
お琴の亭主は、ろくでもない男だった。
所帯を持った当初こそ、多少はまともに働きもした。だが、じきに酒に溺れた。酔えば人が変わった。些細なことで怒鳴り手を上げる。お琴が銭のやりくりに苦労していると知れば、甲斐性なしの亭主を持った女房が嫌味を言いやがると、茶碗を投げつけた。
嫉妬深い男でもあった。お琴が井戸端で近所の男衆と世間話をしただけで、よその男に色目を使いやがってと髪を掴んで引きずり回した。実家の母が案じて訪ねてくれば、女房に逃げるよう焚きつけに来たかと追い返す。しまいには、お琴が一人で買い物に出ることすら許さなくなった。
お琴の暮らしは牢にいるようだった。六畳一間の逃げ場のない牢。
──その亭主が三年前のある晩に死んだ。酔って夜道を帰る途中、足を滑らせて堀に落ち溺れ死んだのである。
お琴は涙を流さなかった。流せる筈などなかった。亭主の亡骸を前にして、お琴の胸に真っ先に湧いたのは悲しみではなかったのだから。
ああ、これで楽になれる──。真っ先にそう思ってしまった。そして、そう思ってしまった自分を恥じた。恥じながらも、その安堵を消すことはできなかった。
だが──。
楽になど、なれはしなかった。
亭主が死んでから、お琴の身には不可思議なことばかりが起こるようになった。
肩身の狭い後家暮らしに見かねて、実家の父母が戻っておいでと言ってくれた。だが、お琴が実家に戻る算段がまとまりかけると、決まって実家に不幸が続いた。父が原因の知れぬ熱で寝込み、職人の弟が仕事場で大怪我をした。母は青ざめ、お前が戻るとどうも家の具合が悪い、しばらく様子を見ようと言葉を濁すようになった。
──親切な人が、再婚の話を持ってきてくれたこともあった。
相手は真面目な職人や小商人。だが、話が進みかけた矢先、その男達は突然心変わりした。あるいは、祝言の日取りが決まった途端、大怪我を負ったり、途端に体が弱ったりして、この話はなかったことにと向こうから断ってきた。そういうことが、二度三度と続いた。
奉公に上がったこともあった。だが、奉公先では決まって奇怪なことが起きた。夜中に台所の器が戸棚から落ち割れる。廊下に水に濡れた足跡が現れる。お琴が寝ていると、夜具の上にずしりと重いものが乗る。奉公先の主人は気味悪がって、お前がいるとどうも良くないことが起こる、と暇を出した。
お琴は、そのたびに逃げ道を一つずつ塞がれていった。
実家にも戻れず、再婚もできず、奉公にも上がれず。まっとうに生きる道を、ことごとく目に見えぬ何かに断たれていった。
そうして追い詰められた末に──。
お琴が生きるための最後の手段として、選ばざるを得なかったのが夜鷹だった。
筵一枚を抱えて夜の辻に立ち、見知らぬ男に身を売る。それより他に食いつなぐ術がなかったのだ。
初めて客を取った晩のことを、お琴は今でも覚えている。屈辱と、嫌悪感と、それでも生きねばならぬという薄暗い覚悟。自身の中で何かが壊れ──筵の上で目を閉じたとき、お琴は亭主が生きていたらどれほど怒り狂ったろうと嘲笑った。
そして、それはある意味当たっていた。
お琴を抱いた客に死人が出始めた。
一人は、原因の知れぬ熱で床に寝付き、そのまま息を引き取った。一人は、ある朝から足腰が立たなくなって衰弱してゆき……また一人は、瓶の水に頭を突っ込んで亡くなっていた。みな、お琴を買った男たちだった。
初めのうちは偶然だと思おうとした。だが、二人、三人と続けば、もう偶然では済まされなかった。同じ仕切役の下に付いている夜鷹達の間で、お琴を買った男は祟られるという恐ろしい噂が囁かれるようになった。
お琴にはわかっていた。
──あの人だ。死んだあの人が、あたしに憑いている。あたしがよその男に抱かれるのが許せないのだ。だから、あたしを買った男を次々に病ませているのだ、と。
わかってはいた。けれど、どうすることもできなかった。祈祷師にも見てもらったが、どうにも出来ないばかりか、祈祷師自身が障りに当てられて寝込んでしまった。逃げようにも……どこへ逃げても気配はついてくる。お琴はただ怯えながら、それでも食ってゆくために辻に立ち続けるより他なかったのだ。
そして今宵──。
ついに、その牙は客ではなく、お琴自身に向けられようとしていた──。