──ォ゛、こ、とぉ……お、ことォ゛……!
言葉と言葉の間に、ごぼ、ごぼ、と水を吐くような音が挟まり、ブツ切りの様態を成す。まるで、水に溺れながら喋っているようであった。
ただ、怒りと恨みが呻き声の羅列から滲み出ている──。同じ語を繰り返す調子の中に、明確な感情が感じられる。
それは強烈な念であった。
俺のものだという歪んだ執着。所有物が他所の男に触れられているという怒り。思い通りに支配下におけないことへの苛立ち。それらが混ざり合い、煮詰まり、どろどろと澱んでいる。
そして、その根幹には。
異常な妄執があった。
どれほど女房を縛っても、どれほど見張っても満たされない。所有物であることをやめようとしている。男に抱かれ、主人を忘れようとしている。手から離れられることを憎悪している。
何故、思い通りにならない。お前の主人は己だ。女房の全てを支配したい。自らと同じにしたい。その渇きが、この男を内から灼き続けていた。生きているうちも、そうだった。堀の水がその身を冷やしても、妄執の渇きだけは、ついぞ冷めなかったのである。
妄執の火で己を灼きながら、なおも生者の女房に固執し、追い詰めることを止められぬ。
──お琴は走った。
筵を放り出し、途中で草履が片方脱げても、無我夢中で走った。
走れた。足は動いた。息が上がるまで、お琴は走り続けた。
だが……
背後の足音は消えなかった。
ぴちゃ。ぴちゃ。
急ぐでもない。焦るでもない。ただ、一定の間合いを保って……どこまでも、いつまでも、追い掛けてくる。お琴がどれだけ距離を稼いでも、しばらくすれば、また足音が聞こえてくる。まるで、行き先など全て分かっているかのように。
息が続かなくなって、お琴は足を緩めた。荒く、肩で息をする。
その時、お琴は悟った。この人はあたしを離す気も、逃がす気も無いのだ。生きているうちもそうだったのだから、と。
何度逃げようとしても。実家に逃げようとしても、縁切り寺に駆け込もうとしても、亭主は目敏く察知してお琴を捕まえた。髪を掴んで引き摺り回し……逃げられたためしなど、一度もなかった。
その悍ましい記憶が、今の恐怖とピタリと重なる。
──逃げられない。あたしはこの人から、生きているうちも、死なれてからも、ずっと逃げられやしないんだ。
お琴が絶望すると、背後の気配が膨れ上がった。
保たれていた間合いが一気に詰まっていた。
ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ、と足音が速まる。逃げる気力を失くした獲物に歩み寄る足取り。それは、お琴の背後、すぐそこまで来ていた。
──生臭い、吐き気を催す臭気が鼻をつく。流れの絶えた腐った水底。汚泥の堆積した、または饐えた汚水のような嫌悪感を抱かせる。それが、お琴の首筋に湿った息とともに吹きかかった。
お琴は足をもつれさせて転んだ。
濡れた地面に横倒しになり、着物が泥に汚れる。その拍子に背後を振り返る。振り返ってしまった──。
そこにそれはいた。
異形の姿の、人の形をした何か。
お琴の心を縛り、恐怖させる形をしたもの。
お琴の体が動いた。
考えるより早く、膝が地についていた。両手をついて怯え、額を泥に擦りつけていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……あたしがわるうございました……どうか、どうか……」
──ゆるしてください。
震えた言葉が勝手に口から溢れ出た。お琴の何が悪かったというのか。しかし、怒りの気配が膨れ上がったのを感じ反射的に詫びた。詫びて、身を縮めて、嵐が過ぎるのを、じっと耐えて待つ。それが所帯を持って十年の間に刻まれた条件反射だったから。
殴られる前に詫びる。
逃げることを諦める。
言いなりとなって服従する。
そうすれば多少気がすくのか、手加減されることが分かっていたから。態度が気に入らないと一層酷いことになった。だから、お琴の体は、亭主の機嫌が傾く気配を察した瞬間、考えるよりも先に勝手に反応するようになっていた。
「もう、にどといたしません……あんた……かんにん、してくださいまし……かんにんして……」
お琴は詫び続けた。
死んだ人間に。
人ですらなくなったものに。
それでも、詫びずにはいられなかった。
それがお琴の前に立ち、その異様な姿が明らかとなる──背丈は亭主のそれ。だが、明らかに人の様態を成していなかった。
白い──。
水に長く浸かった屍のように、全身が白く、パンパンに膨れ上がっていた。皮膚は水を吸ってふやけ、ところどころ剥がれ、その下から蒼白い肉が覗いている。膨れた腹は今にも張り裂けそうで、指の先は水を吸って腐れ落ちていた。夏場に溺れて三日も四日も経った屍のような姿──。
その不気味な白い体から、どす黒い瘴気が滲み出していた。溜めに溜めた悪感情が、白くふやけた肉の下を巡っているかのようだった。
そして、特筆すべきは──。
目が。
目が全身にびっしりと開いていた。
首筋に。肩に。胸に。腹に。大小さまざまの目が、全身の到るところに開いて、瞬き一つせず、そのことごとくがお琴を見つめていた。
監視の目。
寝ても覚めても、片時も女の一挙一動を見張るための目。生前、お琴を六畳の牢獄に押し込んでいた時の、あの支配的で高圧的な目つき。
それに、腕も異様に長かった。
肘だけでなく、関節がいくつもある。女郎蜘蛛の脚のような長い腕が、何本も背から生えて、うぞうぞと蠢いていた。
まるで、捕まえ拘束することを目的とした腕。自身の所有物であると、暴力的に押さえつけずにはいられぬ手。掴んだが最後、自由を奪い支配下に置くための。生前、幾度となくお琴を捕まえ、押さえつけ、嬲った手が……数を増し、長さを増して、お琴に向かって伸びてきていた。
顔は、あった。
醜悪に膨れ上がってはいたが、確かに亭主の顔であった。苦痛に歪んだまま固まった顔。白目を剥き、歯を食いしばる。その顔は、苦悶というたった一つの表情のまま凝り固まっていた。溺れ死に、苦しみ抜いた最後の顔で。
──ぉ、こ、トぉ……!
伸びる無数の手が、お琴の足首を掴んだ。肩を掴んだ。首を掴んだ。
手は水底のように冷たかった。
そして、その手は──お琴を闇の中へ、あるいは同じ水底へと引きずり込もうとしているのか。
──おマエ、モ……こ、イ゛ィ……
饐えた臭気が鼻につく。
お琴は動けなかった。逃げたい。恐ろしい。しかし、体に刻み込まれた亭主への恐怖がそれを許さない。
抗って何になる。逃げて何になる。生きているうちも逃げられなかった。死なれてからも逃げられないのだ。実家も、再嫁も、奉公も、みんなこの人に潰された。まっとうに生きる道など残されてはいない。
ならば、もう──。
いっそ、連れて行かれた方が楽なのかもしれない。
お琴の心の中に、そんな深い深い諦めが、澱みのように満ちていった。目から光が消え、最後に残った抗う気力が指の先から抜けていく。力一杯掴まれた部位が軋む。首が絞まる。意識が闇の中へ消えてゆく──。
霞む目を閉じた。
もういい。もう疲れた。どうにでもなれ。
その時だった。
──ちりん。
と。
涼やかな鈴の音が、遠く聞こえたのは。