澱んだ闇の中に、場違いなほど澄んだ、清らかな音──。ちりん、ちりん、と、その音は少しずつ近づいてくる。
お琴は閉じかけた目を、うっすらと開けた。
霞む視界──黒い道の向こうに、ぼんやりと灯りが見えていた。
揺れる提灯。近づくにつれ、その火影に文字が浮かんだ。『火盗改』の文字の入った御用提灯。
急ぐわけでもない、しかし確かな足取りで、その灯りは近づいてくる。ちりん、ちりん、と鈴の音を伴って。
果たして──提灯を提げていたのは、一人の武士だった。
黒い編笠をかぶり、黒羽織に袴、腰には大小を帯びている。夜回りの装い。顔が隠れており、年の頃は分からない。しかし、上背があり、よく鍛えられた体躯をしている。
前帯には総のついた十手。その柄尻に小さな鈴が結わえられていて、歩みを進めるたびに、ちりんと鳴るのだった。
武士は、お琴を──そして、お琴の首を絞め上げ、死へと誘おうとしている醜悪な塊を見て、一歩立ち止まる。
その編笠の下から確かに視線を向けられているのをお琴は感じた。無意識下にか──お琴は武士に向けて手を伸ばしていた。まるで、助けを求めるかのように。
武士が歩みを再開し──心なしか早まった足取りのまま……最後の一歩を、ぐっと踏み込んだ。
そこで何が起きたのか、お琴には一瞬理解が追いつかなかった。ただ、のし掛かるようにしていた白い肉塊と成り果てた亭主が、突然お琴の目前から消えた──。
塊が大きく吹き飛んだ。武士の脚が真横から、塊の胴へと叩き込まれたのである。
お琴の首を絞めていた冷たい手が、もぎ取られるように離れる。無数の腕が、束のまま、ずるずると引きずられて、闇の中へ転がっていった。
お琴の肺に夜の空気が一気に流れ込んだ。
げほ、げほ、と激しく咳き込む。死穢に近づこうとしていた意識が、その一息で此岸へ引き戻された。喉が灼けるように熱い。だが、絞められていた首の締めつけは確かに失せていた。
武士は、お琴と塊の間に割って入るように立った。ただ助けを求められては、助ける他選択肢はないといった風に。
武士は、ふうと一つ気の抜けたような溜め息を吐いた。そして提灯の灯りを掲げ、闇の奥──蹴り飛ばした塊の方を見やった。
「アレは、あんたの知り合いか何かか」
気負いなど何ら感じられない声だった。それから地に伏し咳き込んだままのお琴へ、ちらと目をやる。
お琴には答えられなかった。声も出ない。ただ、荒い息をつきながら、その編笠をした武士を呆然と見上げているだけである。
「ぁ、れ、は……」
喉の奥から掠れた声が辛うじて漏れた。それきり、咽せてしまい後が続かない。
武士はそれ以上は問わなかった。ゆっくりと、編笠の縁を指で持ち上げる。その下から覗いた目が、踞る白い異形を鋭くじっと見据えた。気負いのない声の底に、ふと別のものが差す。
「──ずいぶんと執着しているようだ」
静かな声だった。
「あの数多の目は見張るための目だな。あんたから片時も離さぬための、監視の目」
必死に息を整えようとしているお琴が、びくりと震えた。
闇の奥で無数の手が蠢いている。
「あの長く伸びた手は捕まえるための手か。掴んで、捕らえ、二度と放さぬための手」
白い肉塊の異形がのったりと身を起こす。
「──そうか。元は、あんたの亭主か」
正体を当てられ、お琴が肩を丸く竦めた。それが答えだった。
「よほど怖いんだろう、あんたという女房と離れるのが。己を捨てられ、忘れ去られるのが。だから、あの無数の腕で抑えつけることで必死に繋ぎ止めようとしている。あの様では──生前にも、己の他に頼れるものを全て遠ざけさせたか。そうやって己より立場の弱いものを縛りつけて、ようやく己を保っていたのだろうな」
異形に浮かぶ全身の目が、ぎょろりと自身を蹴飛ばした武士の姿を睨んだ。
だが、当の武士はどこ吹く風。むしろ、編笠の下から覗く目には同情にも似たものが覗いている。
「憐れなものだ」
その声は淡々としていた。
「──なぁ、そうだろう?死んで、そんな姿形になってもなお、女房に執着して繋ぎ止めたいという念を捨てられない……苦しんでいるのは、お前も同じだろうに。故に憐れだ」
お琴は不思議だった。
武士は、お琴と亭主のことなど何一つ知らぬはずだった。それなのに、その言葉は二人の関係性を言い当てていた。見張り見張られ、縛り縛られ、抑え抑えつけられてきた半生を。
続けて武士はゆっくりと首を横に振った。責めるでも、嘲るでもない。ただ、静かに断じる仕草だった。
「──だがな。元は女房であれど、お前の所有物ではないのだ。生きている者には、生きている者の道理がある。お前が幾ら抑えつけようと、彼女には意思がある。生きてゆくために己に見合う良人を選ぶ権利もある。──お前はもう死んだのだ。大人しく身を引いて、いい加減解放してやれ」
その一言に。異形の体が、ぐわりと大きく膨れ上がった。
──オ、こトぉ……!おこ、トぉ……!
繰り返す女を呼ぶ狂乱の声が、拒絶の形を成した。だが、武士は──。
「……む、そうか。ことの始まり。お前の言い分に同情はしよう。お前もまた嫉妬に狂わされたのだということは」
同情するように視線を伏せる。まるで、名前を呼ぶこと以外の、異形の『言葉』を聞いたかのように。生者とは異なる、境界の向こう側の存在と意思を通じているかのように。
──オ゛、コトぉぉ……!
歪んだ顔がいっそう醜く引き攣れ、無数の手が一斉に武士へと殺到した。まるで女房を渡せ、邪魔をするなとでも言うかのように。
──その津波のように押し寄せる無数の手の奔流を前にして、武士は慌てるでもなく、身構えるでもなく……ただ、無造作にも見える一歩を踏み込んだ。
ちりん──。
鈴がひときわ高く鳴った。
その足運びは静かで、しかし、水が流れるように自然だった。伸びかかる腕の、その尽くの間合いを、武士はスルスルと縫っていく。掴もうとする手は空を切る。腕を振り下ろした時には、武士は既に一歩内へ入っている。まるで、水が岩間を流れ下るように。無数の手は、ただの一本すら武士に触れることができなかった。
気づいた時には、武士は異形を間合いに収めていた。膨れ上がった白い体に、手すら届く距離に。
武士の左手が帯の十手を抜き放った。そのまま抜いた十手を差し向ける。いつでも届きうる。その間合いにて静かに言った。
「──おい。まだ、間に合う」
声からは、先までの同情の滲む響きが消えていた。
「正気に戻れ。お前が今しようとしているのは、一度は惚れた女をあの世へ道連れにしようって話だ。それは情でも、責任でもない。ただの独りよがりと言う」
塊の全身の目がぐるりと動いて、差し向けられた十手の先を見た。手の動きが僅かに鈍る。
「女房のことはもう諦めろ。成仏しな。──今ならまだ見逃せる」
一拍、間を置いた。
「だが、これで聞かねえのなら──」
編笠の下の声が、すう、と低く沈む。
「悪いが、斬らせてもらう。──二度と、生者に害意を向けられないようにな」
それは単なる脅しではなかった。ただ、そうなるという事実を告げる声。故に、その声は底が見えず、ゾッとするほど冷たかった。
異形は動きを止めていた。
全身の目が、迷うように揺れる。突きつけられた十手と、十手を持つ武士と、その背後のお琴とを順繰りに見やる。膨れ上がった白い体が、ぶるり、ぶるりと震えている。何かを、選びあぐねているようにも見えた。
だが……その迷いは長くは続かなかった。
──オこ、ト……
濁った声が、絞り出された。
──お、こト、ォ゛……!!
異形が突きつけられた十手を振り払い、全身の目が一斉に武士を睨む。差し出した憐れみも、説得も届きはしなかった。ただ、凝り固まった妄執の一念だけが一層色を濃くする。
武士は目を伏せた。
「──そうか」
短く、それだけを言った。
もはや憐れみの色はなかった。落胆すらない。ただ、成すべきことを成す。そういう静けさがそこにある。
──異形の無数の腕が、束になって四方から降り注ぐ。
対して、武士の左手の十手が翻えり、ちりん、と鈴が高く鳴った。
降り注ぐ腕を、武士は下から掬い上げるように払った。一度、二度、三度。総のついた鉄が、白く長い腕を叩き、弾き、逸らし、絡もうとする指を打ち砕く。
速い──。目で追えぬほどではないが、一つ払えば直ぐさま次の一つを打っており、その連撃に淀みはない。四方から殺到した腕の束は尽くが弾かれ、いなされていた。
払い切った、その返す手で──十手を異形の憎悪に凍りついた顔の真ん中へと打ち下ろした。
そのあまりにも鋭い打撃に、ゴリッ、と──鈍い音がした気がした。
お琴はその光景に我が目を疑っていた。生きた人が、世にも恐ろしい姿の怪異を躊躇いなく殴りつけたことに。迫り来る魔の手に、臆することなく立ち向かえることに。
異形が大きくのけぞった。全身の目が衝撃に瞬く。伸びかけていた無数の腕が、ばらばらと統制を失う。
──それで十分であった。
十手の一打は仕留めるための一撃ではない。仰け反らせ、腕を止め、その僅かな硬直時間を作る。ただそれだけのための牽制であった。
牽制により出来たその一拍を、武士は逃さなかった。十手を握る左手をくるりと返す。逆手に持ち替えたその親指が、そのままの流れで腰の打刀を支え、鯉口へと掛かった。
──かちり、と小さな音がした。
異形の目はまだ揺れている。硬直から立ち直る、その目前のことであった。
お琴は瞬きをした。ただ、それだけ。目蓋が一度だけ下り、また上がる。そのごくわずかな往復の間のこと。
──その間に空気が一瞬だけ変わった。
凄まじいまでの圧力──武威。鬼気。気迫。夜そのものを押し退けるような、ゾッとするほどの瞬間的な戦慄。
獣が己より上位の獣に遭遇した時の本能にも似ている。逆らってはいけない。目を合わせてはならない。敵意を示してはならない。お琴の肌が粟立ったのは、目蓋が完全に上がりきってからのこと。
──瞬きをしたお琴が次に目撃したのは、果たして、武士が抜刀してもいない刀を再び鞘へ納める場面であった。
納刀し、ちん、と再び小さく鍔鳴りがする。
お琴は内心混乱した。異形の化け物を切るのだと思っていたら、武士は刀を抜く事無く収めたのだから。決して勘違いなどではない。刀を振るう音はしなかった。風を切る音も、断つ音も何ひとつ。
しかし……抜刀した、という因果の結末は確かに起こっていた。
異形の動きが止まっていた──。それだけではなく全身の目が見開かれ、その尽くが微動だにせず武士を見ていた。
あれほど凝り固まっていた妄執も、憎悪もそこにはもう無い。ただ、何が起きたのか分からぬ、という驚きの感情だけが全身の目に浮かんでいる。膨れた頭部もまた同じ。食いしばっていた口元の力が抜け、半ば開いていた。
そして、次の刹那──。
細く斜めに線が入った。
膨れ上がった白い体に、右肩から左の腰へと、一筋の線がなぞる。その線を起点として静かに崩壊霧散してゆく。断面から黒い瘴気が煙のように立ち昇った。無数の目も、無数の腕も、断たれた線の上と下とで、ばらばらに断たれて、消失してゆく。
最早、声はなかった。断末魔すら上げられなかった。ただその異形は、切られた線からホロホロと塵と変わり、夜の闇へ溶けてゆくのみ。
そして、消えるその刹那──お琴は見た。
霧塵の中にほんの一瞬、生前の亭主の顔が浮かんだのを。
お琴を追い詰め、苛み続けたあの執着心は既にそこには無かった。ただ、寂しそうな……どこにでもいるような男の顔がぽつりと在って──それもすぐに薄れて消える。
後には何も残らない。川底の生臭い匂いも、陰り湿った気配も、恨みの籠もった声も。すべてが綺麗に。
──本来の深川の夜が戻ってきた。
気がつけば、遠くで犬が吠えている。どこかの長屋で赤子が泣いていた。堀の方から、夜船の櫓の軋みが、ぎい、ぎい、と微かに響き渡ってくる。
怪異など始めから存在しなかったかのように──何もかもが、いつもの当たり前の夜に戻っていた。