お琴は湿り濡れた地面に座り込んだまま動けずにいた。
体の芯からの震えが止まらない。腰に力が入らず、指の先まで小刻みに揺れている。危機が過ぎ去って尚残る恐怖の余韻であった。
武士はそんなお琴を急かすでもなく、ただ少し離れたところに立っていた。端に置いていた提灯を手に取り、編笠の縁を上げて夜空を見上げている。お琴が落ち着くのを待っているのか。
──やがて、まだ強張りの解けきらない内に、お琴は泣き出した。
堰の切れたように、涙だけがぼろぼろと、あとからあとから頬を伝う。両手で顔を覆い、肩を波打たせて嗚咽は段々と大きくなる。安堵、罪の意識、奇妙な喪失感。胸の底に留まっていたものが涙となって流れ出ていくようだった。
それからまた、お琴の嗚咽が少し収まった頃。武士はぽつりと言った。
「──少しは落ち着いたか」
お琴が顔を上げた。
「憑いていたものは根から断った。二度とあんたの前に現れることはない。……周囲で妙なことが起きることも、もうないだろう」
淡々とした声だった。
もう二度と亭主は自身の前には現れない。亭主が死んでからの数年間──片時も離れず、お琴が感じていた視線が消えていた。
そのことを、お琴の勘は感じ取っていた。首の後ろあたりに絶えずあった見られているという感覚。いつも重苦しかった空気が嘘のように軽くなっていたから。
しかし、軽くなって。
感ずるものがあった。その軽さに──『心の重石』が無くなった気がして、『罰』が感じられなくなった気がして……お琴は不意に耐えられなくなった。
だから、口をついて出たのであろうか。
「……あたしが」
声が掠れた。
「あたしが悪かったんです……」
言うつもりなど、なかった。誰にも言えるはずのないことだった。だが、口が勝手に動いていた。
ただ、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。数年もの間、たった独りで抱えてきた真相を。これ以上、黙って隠しているのに耐えられなくなったのかもしれない。目の前のこの武士なら──何もかも見透かしたうえで、なお、聞いてくれる。そんな気がしていた。
それは懺悔だった。
「あの人は……もとは優しい人でした。真面目で、気の弱い、手なんか上げたこともない、そういう人だったんです……それを──あたしが壊してしまった……」
お琴は泥に爪を立てた。
「暮らしは貧しくて。あたしは銭が欲しかった。それに……あの人の優しさが、あたしには物足りなかった……真面目なばかりで面白みがない。もっと……もっと胸の躍るようなものが欲しかったんです……ほんの、出来心で……」
言葉が止まらなかった。
「相手は羽振りのいい遊び人でした……派手で、危なっかしくて……あたしは、その人に……体を、許して……一度きりのつもりが、二度、三度と……あの人が、気づかないはずもなかった」
お琴の頬を涙が伝う。それは恐怖の涙ではない──後悔の涙。
密通である。露見すれば、ただでは済まぬ。夫の手にかかって、姦夫もろとも斬り捨てられても、文句の言えぬ罪であった。お上に突き出されれば獄門とてありえた。お琴は浅薄にも、その火遊びに手を出したのである。そして、亭主は──お琴を許し、殺しはしなかった。しかし、殺すかわりに狂った。
「あの人は、それで狂ったんです。あたしを疑って、縛って、殴るようになって……もとはと言えば、あたしが……あたしが蒔いた種なんです。あの人を、あんな化け物にしてしまったのは……」
お琴は泥を気にすることもなく、地に突っ伏した。
「あたしのせいだ。あたしの、せいなんですよ……」
武士は黙ってそれを聞いていた。
すぐには何も言わなかった。お琴の懺悔のひと言ひと言が、夜気に溶けて消えるのを待つように。ずいぶんと長い沈黙であった。
やがて。
武士は静かに口を開いた。
「──人だからな」
責めるようでも、慰めるような声でもない。
「人なら気の迷いのひとつもある。銭が欲しい。刺激が欲しい。安穏とした暮らしが、退屈に思える。……それは責められることではない。誰の胸の内にもあるものだ」
武士はそこで言葉を切った。
「だがな。気に迷うのは勝手だが、それで何が壊れるか──責を負う覚悟はしておかねばならん。あんたは、それを背負う覚悟のないまま踏み出してしまった」
お琴が俯いたまま。
「そのうえで、言う」
武士の声に、厳しさが滲む。
「あの男が、あんたを殴っていいことにもならん。縛って、見張って、しまいには、あの世まで引きずり込もうとした。それは、また別の話だ。あんたが蒔いた種と、あいつが振るった拳と──どちらにも非がある。片方の非が、もう片方の非を帳消しにするわけじゃない」
どちらが悪い、どちらが悪くないという話ではない。武士はそう言っているようだった。お琴を不義者と断じもせず、かといって、ただの被害者に祭り上げもせず。
武士は異形の消えたあたりを見やった。
「──仮にも盃を交わした仲だろう。神仏の前で、添い遂げると誓い合った仲だ。なら、最後にひとつだけ、してやれることが残っている」
「残っていること……」
「──きちんと、弔ってやれ」
お琴は顔を上げた。
「逃げてはならん。忘れてもならん。経のひとつも上げてもらえ。線香の一本も手向けてやれ。奴が、優しかった頃を……思い出してな。それが、盃を交わした者の、最後の義理というものだ」
武士の声は淡々としていた。
「そうして、きちんと見送ってやれれば──胸のつかえも、少しは下りるだろうさ。弔いは奴のためでもあり、あんたのためでもある」
お琴の目から、また涙が溢れた。
今度のそれは先までの涙とは違っていた。責め苛まれる涙でも、恐怖の涙でも、後悔の涙でもない。長いこと行き場をなくしていた者が、ようやく道を見つけたような。そういう涙であった。
「……はい」
お琴は深く頭を下げた。
「はい。かならず……かならず、弔います」
武士はそれを聞くと、小さく頷いた。
そして、編笠を直し、背を向けて歩き出した。ちりん、と鈴が鳴る。
「あ、あの……!」
お琴は、その背に声をかけた。
「お名前を……せめて、お名前だけでもっ」
武士は振り返らなかった。
ただ、背を向けたまま軽く片手を挙げる。それが応えて見せた全てであった。
その手が下ろされ、ゆらりと歩みを進めれば──もう闇が武士の姿を呑み込んでいる。
黒い道の、ずっと向こう。柳並木の影の中を、揺れる提灯の灯りが、ゆらゆらと遠ざかっていくのが見えた。
──ちりん。ちりん。
澄んだ鈴の音だけが、夜の静けさの中に、いつまでも微かに響いていた。
お琴は、その灯りが、闇の彼方にすっかり見えなくなるまで見送っていた。
その手をそっと、感謝するように胸の前で合わせて。
§
火盗改の提灯を揺らす武士は、鈴を鳴らしながら、夜の道をぶらぶらと歩いていた。
夜回りの帰り道である。目的地の本所までは、まだ少しある。
深川の夜には、ああいうものがよく出る。人の情念が腐って、凝り固まって、成れの果てた、あわれな怪。今夜のは、生前の執着がそのまま澱んだ類だった。ああいうのは、憑かれた本人が気づかぬうちに、じわじわと周りの者まで道連れにしていく。放っておけば、あの女もあの場で引き込まれていただろう。
まあ、間に合ってよかった、と武士は思った。それ以上の感慨は特にない。
武士は腰の刀を指先で軽く叩いた。あの程度であれば、十手で打ち据えて幾度か殴りつけていれば、じきに崩れたであろう。手間はかかるが、できぬことではなかった。
だが──。
たまには抜いて斬らねば、この刀は拗ねる。鞘の内でむくれられても困るのだ──と、そんな益体もないボヤキを心中で呟いてみて、少し可笑しくなった。まあ、あの手合いは、その未練ごと断ってやるのが一等早い。
もっとも──と、武士は思う。
断つのはたやすい。念を斬り、形を消し、跡形もなく祓ってしまうのは造作もないことだ。だが、それだけでは不十分なのだ。
あの女房がきちんと弔ってやらねば、斬られた男は行き場をなくしたまま、あの世でも報われぬ。祓うのは己の役目だが、送るのは生きている者の役目である。そこから先は、己にはどうすることもできない。
あとは、あの女が果たすだろう──。
武士は、十手の柄尻の鈴を、指先でちりんと鳴らした。家人が選んでくれた、祈りの籠もった鈴である。
柄にもなく律儀に、それを十手に結わえて、こうして持ち歩いている己のことを、武士は苦笑した。まあ、夜道の無聊の慰みにはなる。この澄んだ音は悪くない。
武士は小さくあくびを一つした。
ちりん、とまた鈴が鳴る。その音は、なるほど──闇の中でも、妙に心を落ち着かせる音色だった。
怪異殺しは何ということもない、ただの夜回りの武士として深川の闇の中を歩いていった。
──江戸の夜は、異界に交わる。
そこでは、人の情念から生まれた怪異が数多蔓延り、人ならざる妖しげな者たちが手ぐすね引いて生者を待ち構えている。
道端の暗がりで、通りすがりの袖を引く濡れた手。
橋の下から、名を呼んで手招く水の底の声。
辻に佇み、道を尋ねるふりをして、答えた者の顔を、いつまでも覗き込んでくるもの。
軒下にうずくまり、生きた者の温もりを、羨むように見上げる影。
──そういうものが、月のない夜には、そこかしこの闇に息を潜めているのだった。
そして、その異界を『近道』だと言って、平然と散歩する火盗の武士も異界の光景の一つと言えるのかもしれない。
──もっとも。
いつの頃からか、深川の七不思議には新しい話が一つ加わったのだという。
夜更け。怪しいものに憑かれた者、道に迷い途方に暮れた者の前に、どこからともなく澄んだ鈴の音とともに火盗改の御用提灯が現れる。黒い編笠の武士は、憑き物をあっさりと祓うと、名も告げずにまた鈴の音とともに闇へ消えていく。
人呼んで──鈴鳴り火盗。
それが誰なのか、知る者はいない。ただ密やかに囁かれる七不思議の一つとして、知る人ぞ知る話となっていたのだった。