第百四十五話 豊川稲荷参詣
──冬の始めの、よく晴れた朝であった。
源一郎は、お絹とお鈴、それに神谷伝兵衛を伴い、本所の屋敷を出た。
目的は豊川稲荷への参詣である。
当初は源一郎とお鈴、お絹の三人での参詣の予定であった。しかし、お絹の兄──神谷伝兵衛が急な同道を願い出たのは、前日のことである。
御庭番の役目はことに立て込んでいるらしく、『薬売り』の男を見逃した理由を問い詰めた日以降、ろくに顔を見せていなかった。それが昨日、ふらりと火盗改の役宅を訪ねてきた。妹の障りの片がつくところを、この目で見ておきたいのだ、と。
いつものように軽い調子ではあった。だがその物言いの奥に、何か思いを定めたような硬さがあるのを源一郎は感じていた。
──両国橋を渡り、日本橋を抜け、虎ノ門を過ぎて赤坂へ。道々、お鈴は荷を大事そうに抱えていた。お鈴とおたかが昨日から仕込んでいた稲荷寿司である。
「白狐様はお揚げがことのほかお好きだと、旦那様から伺いましたので」
そういうと、お鈴は風呂敷に視線を向けた。
中身は三種あるらしい。ひとつは、刻んだ蕎麦を詰めた蕎麦稲荷。ひとつは、人参や椎茸、干瓢を混ぜた飯を包んだ五目稲荷。そして最後に、甘く炊いた揚げに白飯だけを詰めた、ごく普通の稲荷寿司。
「母と私が腕によりをかけて。──変わり種ばかりでは口に合わぬやもしれない、結局は素直なものが一番喜ばれる、と。それで三種拵えました」
なるほどな、と源一郎は一つ首肯した。
その傍らで、お絹は黙って歩いていた。男装の長身は、いつものこと。しかし、口数はいつにも増して少ない。源一郎やお鈴が声をかけても、短く頷くか、一言二言返すきり。
「おい、お絹……葬式に行くのではないぞ」
神谷が横から呆れたように言った。
「……分かっている」
「その顔のどこが分かっている顔だ。すまんな、渡辺殿。こいつは昔から、緊張すると地蔵のように固く構える上、口数が更に減ってな……」
「兄上」
お絹が短く咎めた。神谷は肩をすくめて笑ったが、その目は妹の横顔から離れなかった。
──心配しているのだろうな。
源一郎は、それと察した。
だが、無理もない。お絹はこれから神使に会う。長年己を苛んできた障りの、その大本を見定めてもらおうというのだ。
普段は冷静沈着に見えても、その実まだ十八。大人びた佇まいの下に、強張った心が透けて見える。お絹の傍らでは、赤毛の大きな霊猫──アカが、二尾を揺らしながら、お絹の先を歩いていた。
──赤坂一ツ木の豊川稲荷に着いたのは、巳の刻を少し回った頃だった。
朱塗りの鳥居が連なる参道に、冬の陽が陰影を落としている。境内は静かで、枯れ葉が乾いた音を立てて風に舞う。居並ぶ狛狐の石像が、朝の光の中で静かに四人を見つめているようだった。
鳥居をくぐったあたりから、神谷の口数が消えた。
しかし、目だけが油断なく境内を巡っている。何かを探すというより、肌で何かを感じている様であった。神谷は、人ならぬものは見えない。だが猫憑きの血筋ゆえか、妙な気配だけは感じ取れるのだと以前に本人が言っていた。
奥の院の社堂の前で、源一郎は足を止めた。
「失礼いたす。渡辺源一郎、まかり越しました」
一礼し、お鈴から包みを受け取って、供物を社の前に並べた。三種の稲荷寿司、それに灘の酒。丁寧に皿へ盛りつける。
そのまま、しばし待った。
冬の風が参道を抜け、赤く染めた数多の幟がはためく。枯れ葉が石畳を滑り、どこかで烏が一声鳴いた。
──社堂の軒の影が動いた。
白い毛並みが、陽の光を受けて銀に輝く。三本の尾を優雅に揺らしながら白狐が、ゆっくりと姿を現した。その金色の瞳が源一郎たちを見据える。
「──渡辺殿。お待ちしておりましたよ」
白狐は目を細め、鼻をひくひくとさせた。それから、供物の皿へ、待ちかねたように歩み寄る。
「おお、今日も持ってきてくれたか。この稲荷寿司をな。──いや、実を申せば、渡辺殿が来ると聞いてから、この味を心待ちにしておったのだよ」
白狐は三つの皿に、順に鼻を寄せていった。
「蕎麦に五目……ほう、今日は趣向を凝らしたね。だが、やはりこれだ」
白狐は、揚げと飯だけの素朴なものを、迷わず一口、ぱくりと食んだ。赤い舌が覗き、三本の尾が、ふらふらと満足げに揺れる。
「うん……これこれ。何度いただいても、これが一等よい。凝ったものも結構だが、私はこういう何も足さぬものが好きでしてねぇ。揚げと飯。それだけで、もう十分にご馳走だ。──乳母殿の手は、相変わらず丁寧だね」
その時、白狐の金色の目が、ふと源一郎の背後に流れた。
「──それで。今日は大勢で来たようだけども」
お鈴に、お絹、神谷に視線を向ける。
その視線が、お鈴のところで、ふと和らいだ。
「お前さんも一緒だね。勧請の折以来か。──達者にしていたかい」
「白狐様には、その節から大変お世話になっております」
お鈴が懐かしむように、深々と辞儀をした。
「本日は御先狐の躾と御屋敷の御守り、その御礼を申し上げたく参りました。──血に宿る狐との付き合い方も見え、夢見も悪くなくなりまして」
「結構、結構。あれはな、お前さんの心が穏やかであれば、自ずと鎮まる。──お前さんは、よい主人のもとにいる。それが何よりだ」
白狐は満足げに頷いた。それから、視線を隣へと移す。
神谷であった。
神谷は、白狐の姿の見えぬまま、それでも気配のする方角へ体を向け、片膝をついて頭を垂れた。見えぬ相手への、静かな会釈であった。
「神谷伝兵衛と申す者にございます」
源一郎が代わって告げた。白狐はその姿をしばし眺め、面白そうに尾を揺らした。
「ほう……猫の匂いがする血だね。──私のことは見えてはおらぬ。だが、感じてはいる。見えぬものに、それだけ丁寧に頭を下げられる人は、近頃めずらしい」
白狐は、金色の目を、神谷の隣へと移した。
お絹であった。
お絹は、社の前に進み出ると、ぎこちなく膝を折り、頭を下げた。その所作は、いつもの隙のない身のこなしとは違い、どこか硬い。
「……お絹、と申します。本日は──えっと……よろしくお願いいたします」
声が、わずかに掠れた。言葉が続かない。お絹は、唇を結び、もう一度、頭を下げ直した。
神使を前に、なんと切り出してよいか分からなかったのか。長年抱えてきた障り。それを、どう言葉にすればよいのか。源一郎は、その固い表情に、十八の娘の、隠しきれぬ幼さを見た。普段、寡黙を貫き、隙を見せまいとするその鎧が脆くも剥がれかけている。
白狐は、しばし、お絹を見つめていた。
いや──お絹だけではない。その傍らに寄り添う、赤毛の霊猫もだ。
アカは白狐の視線を受けて、ザワリと毛を逆立てた。二尾を膨らませ、喉の奥で、低く警戒の唸りを漏らした。
「……ふむ」
白狐は慌てなかった。むしろ、どこか懐かしむように目を細める。
「久しいことだねえ。──こうして猫と相対するのは」
白狐がゆっくりとアカに歩み寄った。アカは身を低くし、耳を伏せる。だが、白狐は意に介さず、その鼻先を、そっとアカの鼻先へと近づけた。
「そう、いきり立つことはない。取って食おうというのではないのだ。──お前達とは、古い縁。覚えてはおらぬかえ。狐と猫が、まだ山を共に歩いていた頃の遠い縁を」
白狐の雰囲気は人へ向けるものとは違っていた。鼻先と視線を合わせ、言葉ではない何かを語る。人には理解し得ない、獣同士の会話。
アカの警戒が次第に小さくなっていった。
膨らんでいた二尾が、ふっと、力を抜く。耳を立たせ、逆立っていた毛がなだらかに伏せられてゆく。アカは、おそるおそる白狐の鼻先の匂いを嗅いだ。それから──くるりと回って、お絹の傍に香箱座りして伏せた。
「……アカが」
ぽつり、と、声が漏れる。
渡辺の屋敷でこそ、近頃はいくらか気を緩めるようになった。だが一歩外へ出れば、アカは常に何かを警戒し、二尾を張り詰めさせている。そのアカが、今、初めて会うたはずの神使の前で、すとんと力を抜いて伏せた。お絹は、その光景が信じられぬというように、目を見開いていた。
白狐は、ひとしきりアカと鼻を突き合わせると、源一郎たちの方へ向き直った。
「話は、灰狐からおおよそ聞いている。それに──今この猫とも少しばかり『言葉』を交わした」
金色の目が、お絹を見据える。
「お絹、と言ったかね。──まず、これだけは申しておこう。お前さんに憑いているこの猫は、お前さんを呪ってなどいないよ」
お絹の肩が、びくりと震えた。
「祓うべき悪霊でも、祟りなす邪なものでもない。──これは、お前さんの家が遠い昔に祀り、そして祀ることをやめた古い神だ。供物も、祈りも、名を呼ぶ者も失って行き場をなくし、ただ、お前さんの血を依り代に、飢え、寂しがっている。それだけのことなのだよ」
お絹の視線が揺れた。
長い間、己を苦しめ続けてきたもの。夜ごと幻を見せ、感覚を溢れさせ、頭を割るように痛ませてきたもの。それを、お絹はずっと、己に取り憑いた猫の障りだと思ってきた。──それが今、神使の口から、「飢え、寂しがっているだけ」だと告げられた。
「……寂しい……? アカは、寂しがっていた……?」
お絹の声が震えた。
「お前さんのせいではないよ。お前さんの先祖が祀りをやめたのだ。お前さんはただ、その途切れかけた縁を知らぬ内に受け継いだだけ。──だが」
白狐は静かに続けた。
「この猫は随分と辛抱しているよ。本気で祟る気があれば、お前さんの家などとうに滅んでおろうさ。そうならなんだのは、この猫がお前さんを嫌ってはおらぬ証。──飢えながらも、お前さんの傍に在り続けることを選んでおるのだよ」
お絹の目から一筋、静かに涙がこぼれた。
慌てて袖で拭おうとする。だが、間に合わない。ぽろぽろと涙が頬を伝ってゆく。──渡辺の屋敷で一度涙を流して以来、大人びた鎧は容易く崩れやすくなった。そうして現れるのは、長く独りで重荷を背負ってきた、まだ幼さの残る娘の本来の顔。
お鈴が、そっと、お絹の傍らに寄り添った。何も言わず、ただその背に手を添える。お絹はその手の温もりに、堪えきれぬように肩を震わせていた──。