神谷は身じろぎもせず、それを見ていた。
兄の知る妹は、そもそもが涙を見せない。若き身空で障りを負い、泣いていても仕方がないと現実を直視したのか、歯を食いしばる術ばかり覚えた。その妹が今、肩を震わせて泣いている。
神谷には白狐の姿も、アカの姿も見えない。ただ、妹の涙は本物だった。──その固く引き結ばれていた口元が安堵したように、ふっ、と緩んだ。
「さて──ここからが肝心の話だ」
白狐の声が真剣な響きを帯びる。
「高尾の天狗殿も申したそうだが──この猫神を真に鎮めるには、途絶えた祀りを正しく戻すよりほかにない。だが、その作法や諸々はお前さんの家から失われている。神の正体も知らずに祀れば、かえって障りを煽る。だから、堂々巡りだと」
「……はい」
お絹が涙を拭いながら頷いた。
「正しい祀りに戻すこと──それは私の領分ではない。猫は稲荷の眷属ではないからね。途絶えた口寄せ巫女の祀りを継ぐ者の源流を、いずれ、お前さんは探さねばならない。それは、今日明日に片のつく話ではないし、私の手に負えることでもない。──それは、覚えておいき」
お絹の顔にわずかな翳りが差した。やはり堂々巡りなのか、と。
「だが──」
白狐はその翳りを払うように続けた。
「天狗の言うことも、真理ではある。──猫は狐のおば。古い縁だ。人と猫の間を取り持つ者がおらぬのなら、その役、この私が買って出ようではないか」
お絹が、はっと顔を上げた。
「正しい祀りを戻すまでの当座しのぎだ。本式の祀りではないよ。この猫を神として社に迎えるのでもない。──ただ、飢えて寂しがっているものを、少しばかり宥めてやるだけの、ささやかな手向け」
白狐はお絹の方へ、ゆっくりと歩み寄った。
「いいかい。難しいことは、しなくともよい。むしろ、畏れて大仰に祀ろうとするのが一番いけない。──ただ、日に一度。お前さんが心安らぐ刻限。この猫のためだけに、器に水を一杯。それと、猫の好む供物──煮干しでも、削った鰹でも。それを供えてやることだ」
「……水と、食べ物を」
「そうだ。そして、供えながら、この猫の名を呼んでやる。お前さん、この猫を何と呼んでやっている」
「……アカ、と」
「うん、それは仮の名だね。いずれ名も取り戻さなければならないよ。ならば……仮の名を呼び、こう告げてやりなさい。──今日も傍にいてくれて、ありがとう、と」
お絹の唇が、わずかに震えた。
「そ、それだけですか……?」
「それだけさ。だが、それが何よりも大事なことなのだよ」
白狐の声が、ふと優しくなった。
「祀りの本質とは、畏れることでも縋ることでもない。祀る者と祀られる者が、互いを結びつけること。──お前さんはこれまで、この猫を厄介な存在と見てきたろう。だが、これからは日に一度でいい。この猫を、確かに『そこにいるもの』として認めてやりなさい」
「認める……」
「名を呼び、礼を言い、ささやかなものを手向ける。──神霊にとって重要なことは、究極それだけだとも」
白狐はそこで一度言葉を切った。
「作法を誤る心配は要らぬ。難しい祝詞も、面倒な決まりも一切いらない。ただ、水と供え物と、名を呼ぶ心。それで障りは和らぐ。──この私が、この猫に、よくよく言うて聞かせておいたよ。『この娘の手向けを、荒ぶることなく受けよ。祀りを取り戻すのは、少し待ちな』と。古いおばの言うことだ。この猫神も無下にはすまいよ」
アカが白狐の傍らで、ナァ、と太く鳴いた。まるで応えるように。
お絹はしばらく言葉を失っていた。それから、深々と頭を垂れた。
「……ありがとう、ございます。──わたしは、ずっと……アカを厄介なものだと思って……いっそ……振り払えたら、どんなに楽かと……」
声が途切れる。
「でも……アカは、ずっと、寂しかった……わたしが、寂しくさせていた……」
「己を責めることはない」
白狐は静かに言った。
「お前さんも、これまで独りでようよう耐えてきたよ。──これからは、その猫と共に在ればよい。敵ではないのだ。お前さんが寂しい時には、その猫もまた寂しく思っているのだから」
お絹の肩が、また震えた。お鈴がその背をそっと撫でる。
源一郎はその様子を、少し離れたところから黙って見守っていた。
──これで一先ずは落ち着くか。
胸の内で独りごちる。全てが解決した訳ではない。途絶えた祀りを継ぐという難しい課題はまだ残っている。だが今日、お絹は長年自身を苛んできたものを、初めて「共に在るもの」として受け入れるその一歩を踏み出した。それだけでも、ここまで来た甲斐があったというものだろう。
白狐が源一郎の方へ目を向けた。
「渡辺殿。──お前さんの持ってくる厄介ごとは、いつも骨が折れる。だが、まあ……悪い気はしないね」
白狐は三本の尾をゆらりと揺らした。
「この娘のこと、気にかけておやりよ。猫憑きの者は群れない猫と同じ。時に独りになりがちだ。──だが、これは独りで抱えるには些か重すぎる荷だからね」
「心得ております」
源一郎は頭を下げた。
「それから──」
白狐の目が神谷の方へ流れた。
「あの者にも伝えておやり。妹を案じる良い兄だ。──妹のことは、この私も気にかけておく。案ずることはないとね」
源一郎がその言葉を伝えると、神谷は見えぬ白狐の方角へ向き直り、深く、長く頭を下げた。何も言わず、その頭は容易には上がらない。
白狐は満足げに頷くと、残りの稲荷寿司をもう一口食んだ。
「それにしても、この揚げと飯だけのもの。──本当に、良い……おたか、という女は渡辺殿の母だったかね」
「正確には乳母になりますが」
「そうかい。まぁ、何かあれば次もこれを頼むと伝えておくれ」
そのあまりに俗な物言いに、お鈴が思わず小さく笑った。涙の乾かぬお絹も、つられて口許を緩ませたのだった。