冬の陽が参道の朱い鳥居を明るく照らしていた──。
お絹の傍らでアカがゆったりと身を伸ばし、二尾を機嫌よさげに揺らしている。──もう警戒はしていなかった。その姿は大きいだけの、どこにでもいる猫と何ら変わらない。
参道を戻る道すがら、お絹の足取りは来た時とは別人のように軽く見えた。口数は変わらず少ないものの、お鈴が何か話し掛けるたび、こくこくと頷いている。それから少し離れて、源一郎と神谷は並んで歩いた。
神谷は鳥居を三つ四つと潜る間、黙っていた。やがて、前をゆく妹の背を見たまま低く言った。
「──昔からお絹は我慢強く、泣くことをしない子どもだった」
源一郎は答えなかった。返事を求めているようには思えなかったから。
朱の鳥居を抜けきったところで神谷は足を止めた。いつもの飄々とした笑み──だがその目にはまだ真剣味が残っていた。
「渡辺殿。──この後、少しばかり付き合ってもらえないか」
「それは構わないが」
「折り入って、頼みたい儀がある。立ち話で済む筋のものではない。──実は赤坂溜池のほとりに、井筒という会席茶屋があってな。今日のために奥座敷を取ってある」
源一郎は神谷の目を見た。
井筒という店に聞き覚えがあった。武家御用達の店であるが、源一郎自身は足を運んだことはない。神谷は今日その話を切り出すために、わざわざ席まで手配したのだろう。
昨日からこの男の表情に妙に見え隠れしていた、あの思い詰めたような硬さが、今、ようやく静かに面に出ようとしていた。
「──承知した」
源一郎は短く答えた。
冬の空はあくまで青く晴れていた。四人は溜池の方角へ、ゆっくりと歩き出した。
§
豊川稲荷から溜池までは目と鼻の先である。
溜池の水面が冬の陽を照り返す畔に、会席茶屋井筒はあった。武家御用達の格式ある店構えで、しかし参詣帰りに女人連れで入るのに不自然ではない静かな会席の店である。源一郎は初めて暖簾をくぐる店であったが、神谷は勝手を知った足取りで先に立った。
「神谷様、お待ち申しておりました。お連れ様もご一緒に、どうぞ奥へ」
女将が心得た様子で迎えに出た。
「うむ。込み入った話があるゆえ、しばらく人払いを」
「かしこまりました。ささ、どうぞ」
通されたのは、庭に面した奥の離れであった。手入れの行き届いた小さな庭に山茶花が二輪三輪、白い花をつけている。火鉢が運ばれ、酒と冬の膳が調えられた。鰤の照り焼きに、蕪の風呂吹き、白味噌の椀。湯気の立つ膳を前に、参詣帰りの四人はしばし箸を動かす。
張り詰めていたものが解けたせいか、お絹の食は進んでいた。無口は相変わらずだが、蕪の風呂吹きを口に運ぶ箸が、迷うことなく動いている。その様子をお鈴が嬉しそうに眺め、やはり時おり声を掛けた。
──膳が下げられ、茶が出た頃合いであった。
「お絹」
神谷が言った。
「お鈴殿と少し庭でも見せてもらえ。──俺は渡辺殿と話がある」
お絹は湯飲み茶碗を置き、兄の顔をじっと見た。何かを察した目であった。だが問わない──黙って立ち、お鈴と連れ立って縁側へ出てゆくと障子が静かに閉められる。
部屋には源一郎と神谷だけが残った。
火鉢の炭が小さく爆ぜる。庭からは女二人の話し声が途切れ途切れに聞こえていた。
神谷は居住まいを正した。
膳の脇に置いていた両の手を畳につく。そして、深々と頭を下げた。
「渡辺殿。此度のこと、心より御礼申し上げる。そして……助けていただいたばかりで、心苦しいが……折り入って頼みがある」
「頼みとは」
「──渡辺殿の屋敷で、妹を預かってはもらえないだろうか」
源一郎は茶碗を置いた。
「顔を上げてくれ、神谷殿。話が見えてこない」
「『諸用』で江戸を離れることになった」
神谷は頭を上げた。その顔から、飄々とした色が消えていた。
「西へ。──行き先はそれ以上言えぬ。帰る日も、言えぬ。半年か、一年か。あるいは……もっと、かかるやもしれぬ」
西。
源一郎の目が細まる。近江屋の一件の後始末の折、この男が言った言葉が思い出された。──いずれ御庭番の足は江戸の外まで伸びる、と。あの「薬売り」の足取りのことだ。御庭番が泳がせ追っている、あの男の。
源一郎はその考えを胸の内に留め置いた。問えば、困らせることになる。答えられぬと分かっている問いを、態々向けるものではない。
「それで、お絹殿を」
「うむ」
神谷は頷いた。
「四谷の屋敷には、身内と呼べる者がおらぬ。お絹と関われるのは昔からの奉公の婆が一人きり。他は皆、腫れ物を扱うようでな──おれが発てば、あの家で妹が独りになる」
神谷は庭の方へちらと目をやった。障子越しに、妹の影が動いている。
「独りでの暮らしくらい、あれの腕ならどうとでもなる。並の男の三人や五人、寝込みを襲われたところで返り討ちにするだろうよ。──だが、渡辺殿。おれが案じておるのは、そういうことではない」
「……聞こう」
「三つ、ある」
神谷は指を三本示した。それから、低い声で一つずつ言葉を紡いでいった。
「ひとつ。神谷の家業は人の恨みを買う。表沙汰にならぬ場所で人の悪事を掴む。──掴まれた側は、俺の顔を知らずとも、神谷という家を知ることがある。俺が長く江戸を空けると知れれば、主のおらぬ家に残った妹がどう見られるか。人質に、あるいは意趣返しの的に。……腕の立つ立たぬの話ではない。家長のいない家というものは、それだけで的になる」
源一郎は黙って頷いた。火盗改とて、同じ理屈の中に生きている。恨みを買う稼業の者の家族が、どういう目で見られるか。知らないわけがなかった。
「ふたつ。障りのことだ」
神谷の声が、わずかに和らいだ。
「今日、白狐殿の言われた手向け──あれは続けてこそのものだろう。四谷の家で独りで続けさせるより、渡辺殿の屋敷での方がよいのは確か。渡辺殿の屋敷では、あれの障りも鎮まる。アカにとっても、あの屋敷は居心地がよいようだ。今日の様子を見て腹が決まった」
「それで、みっつは」
「みっつは──」
神谷はそこで初めて少し笑った。苦い笑いであった。
「あれの性分だ」
庭の話し声が、ふと途切れ、またぽつぽつと続く。
「あれは人に馴染まぬ。幼い頃から障りを負って、人を信じることを覚える前に、疑うことを覚えた。友もいない。任務と、兄と、猫だけが、あれの全てだ。──その内の俺が消える。半年、一年。……その間、あの娘が四谷の家で独り、どうやって過ごすか。俺には目に見えるようだ。誰とも口をきかず、庭で弓を引いて、飯を食って寝る。それだけの暮らしを繰り返す」
神谷は源一郎をまっすぐに見た。
「渡辺殿の屋敷は違うだろう。おたか殿がいて、お鈴殿がいて、飯時には人の声がする。──あれに必要なのは、人の暮らしの音だ。四谷の屋敷では……それを与えてやれなんだ」
最後のひと言だけ、声が低く沈んだ。
源一郎はしばし黙っていた。それから、静かに口を開いた。
「──名目は、いかがするつもりだ」
神谷の顔が上がった。それはつまり、是という返事であったから。
「では……行儀見習いというのは、どうかな」
神谷の声に、いつもの軽みが、じわりと戻ってくる。
「あれももう十八だ。剣だの弓だの体術だの、物騒なことばかり仕込んでしまってな。飯炊きくらいは一通りできるが……武家の奥向きの作法、家宰、家政となると、まるで教えておらぬ。武家奉公のついでと仕込んでいただければ、兄としては、まあ──言うことなしだ」
「おたかは喜ぶぞ。仕込み甲斐のある新入りが来たとなれば、腕が鳴るであろうよ。お鈴も妹ができたようなものだ。菖蒲はアカがいれば言うに及ばず」
「では──」
「預かろう」
源一郎は言った。
「お絹殿は渡辺の屋敷で預かる。あの屋敷には結界もあるしな。身の安全は保障できよう──だから貴殿は自身の役目だけを考えればいい」
神谷は、しばし源一郎の顔を見ていた。それから、ふっと息を吐き、もう一度畳に手をついて深く頭を下げた。
「──恩に着る」
安堵の籠もった短い言葉だった。だがその声には、いつもの飄々とした男の声とは違う重みがあった。
頭を上げた神谷は懐に手を入れた。取り出されたのは紫の袱紗である。それを源一郎の前に置き、するりと開いた。
白い紙に固く包まれた切餅がひとつ。──二十五両。
「納めてくれ」
源一郎の眉が動いた。
「おい。金子など──」
「受け取ってもらわねば困る」
神谷の声は、静かだが頑なだった。
「渡辺殿。考えてもみてくれ。あれも一応武家の娘だ。行儀見習いの名目とはいえ、よその屋敷に厄介になる。──ああ見えて義理堅い女だ。それに役に立てなければ、日を追うごとに肩身を狭くしてゆく性分でもある。だが、兄がきちんと筋を通したと知れば堂々と屋敷に身を置けるというもの」
「……」
「それにな」
神谷は袱紗の上の切餅を指先でとん、と源一郎の方へ押した。
「アカの供え物、季節の着替え、小遣い、食い扶持──娘一人とて増えれば何かと入り用だ。おたか殿やお鈴殿の手を煩わせる手間賃も要ろう。……そして、これは」
神谷はそこで一度言葉を切った。
「──俺に、もしものことがあった折の、当座の身代でもある」
部屋が静かになった。火鉢の炭の、ちりちりという音だけが間を埋めた。源一郎は袱紗の上の包みを見た。それから、神谷に視線を戻す。
「──身代?」
源一郎はその一語を口の中で繰り返した。
「もしも、とは」
「言葉のままだ」
神谷はあっさりと答えた。庭のほうから女二人の低い笑い声が届いている。それを聞き取ってから、神谷は声を落とした。
「西へ発てば帰れぬこともある。俺の稼業だ。今に始まった話ではない」
「……」
「案じめさるな。俺とて死にに行くわけではない。ただ、帰れなんだ時の算段だけはしておかねばならぬと思ってな」
神谷は猪口を置いた。人懐こい顔つきが、そこで少しだけ蔭る。
「渡辺殿。武家の家は当主が死んでも残る」
「……そうだな」
「まして俺の家は公儀の御用に直に繋がっている。紀州から従いてきて七十年、絶やすわけにはいかん。俺が斃れれば、家督は他家から養子を取って継がせる。半年とかかるまい。神谷伝兵衛という名すら次の者が継ぐやもしれん」
源一郎は黙って聞いていた。
「そうなった折、お絹がどうなるか──渡辺殿ならば想像がつこう」
「……」
「前の当主の妹。あいつにある肩書きはそれだけ。しかも俺たちは妾腹。老人方から見れば、俺たちは異物でしかない」
神谷は膝の上で指を組んだ。
「そして、武家の娘が家から出る道は一つしかない。嫁ぐことだ。だがお絹には、それもできない」
「猫の障りか」
「家筋の内では皆が知っていること。表に出さぬようにしているだけで」
神谷の声は淡々としていた。
「憑き物筋の娘を娶れば、障りは嫁ぎ先へ移ると言う。子にも孫にも憑くと。──迷信だ。だが、縁組を語る者は迷信を判断材料に家を選ぶ。これまでにも話がなかったわけではない。しかし、黙って話を進めれば恨みを買うことになる」
源一郎は口を開かなかった。
「嫁げぬ娘が家に残る。それを何と呼ぶか、渡辺殿もご存じだろう」
「──厄介、か」
「そう」
厄介。
家督を継がず、家に置かれるだけの者を、武家はそう呼ぶ。部屋住みの次男三男、嫁き遅れた娘、行き場を失くした親類。飯を食い、部屋を占め、家の益にはならぬ者。役所の帳面にもその名で載る。罵りではなく、責任を負う当主との続柄や扶養関係を示す区分。
「新しい当主から見れば、俺の妹は血の遠い女となる。貰い手もない。障りもある。それでいて飯だけは食う」
神谷は薄く笑った。その笑いに温度はなかった。
「表向きは丁重に扱うだろうよ。一年ほどは。二年目には、必ず誰かが表立って言い出す。あれをどうする、とな。在所の寺へ預けるか、名も知れぬ後添えの口に押し込むか。どちらに転んでも、あれにとっては不本意な結果となる」
「断る口はないのか」
「無い」
即答であった。
「あの家にお絹の居場所はないのだ。俺が生きておればこそ、俺の妹という名で守れた。俺が消えれば、あれはただの厄介者だ。声を出さぬ娘でな。嫌だとも言えぬ。言ったとしても無駄だろうが」
神谷はそこで初めて目を伏せた。行灯の芯が、ちりと鳴った。
「だから、俺の生きているうちに行き先を作っておきたい。渡辺殿の御屋敷に置いてもらえれば、名目は行儀見習いだ。神谷の家からは暫く出ておることになる。俺が戻れば、それまでの話よ。戻らなんだ時は──」
神谷は指の先で、切餅をわずかに源一郎のほうへ押した。
「これを、あれの当座の身代として頂きたい」
「……」
神谷は顔を上げ、まっすぐに源一郎を見た。
「その上で申し上げる。──渡辺殿が厭でなければ、あれを貰うていただいても構わぬ」
「……神谷殿」
「妻でも妾でも、どちらでもよいのだ」
源一郎は珍しく困った顔をしたが、神谷の声に躊躇いはなかった。
「あの性分故、人並みとはならぬかもしれない。しかし、渡辺殿の御屋敷であれば……あれは人らしく息ができる。そんな家は、この江戸にそう幾つもない」
源一郎は答えなかった。
「気が向かぬのであれば無理には言わぬ。どこか良い縁でも探してやってくだされ」
神谷は膝の前に手を置いた。
「嫁がせるも、屋敷に置くも、身内に招かれるのも──渡辺殿のよいように。お絹を如何様にでも使うてくだされ」
「──それは流石に……」
「無論、兄の申す言葉ではないと承知しておる」
神谷は先回りしてそう言った。
「だが俺には、あれの行く先を決めてやる時がもう残っておらん。ならば決めてくださる方に、まるごと預けるほかない」
源一郎は切餅を見た。それから目の前の男を見た。この男は帰れぬかもしれぬと覚悟している。その上で妹の身の振り方から金子の筋まで、全てを整えてから発とうとしていた。──もしも、の後のことまで。
断ることはできた。だが断れば、この男に一抹の憂いを残させることになる。果たして──源一郎は袱紗ごと包みを取り上げた。
「──確かに、預かった」
「かたじけない」
「だが、これは使わずに取っておく。貴殿が戻った日に耳を揃えて突き返してやるからな。──代わりに、伊丹の上諸白でもつけてもらおうか。アレは美味かった」
神谷は目を丸くした。それから声を立てて笑った。今日初めての心底からの笑い声であった。
「はは──よしきた。大徳利どころか樽でも。……ああ、渡辺殿。おぬしという男は、まったく」
言葉尻の笑みが、ふっと消えた。
「──妹を、どうか宜しく頼みます」
神谷は三度目の頭を下げた。今日で一番、深い辞儀であった。
源一郎は切餅を懐に納め、短く答えた。
「承った」
障子の外で、山茶花の枝が微かに揺れていた。