鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百四十八話 引っ越し

 ──神谷より話のあった三日後。時分は昼を少し過ぎた頃であった。

 

 冬の日が本所武家地の塀に短い影を落としている。渡辺屋敷の門は常のごとく開け放たれていた。

 

 その門を二つの人影が潜る。

 

 一つは旅装の神谷。手甲脚絆に、肩には振り分け荷物。編笠を手にした、これから遠出しようという武士の姿。ただし、神谷は背にもう一つ荷を負っていた。さほど大きくもない柳行李が一つ。神谷の妹──お絹の荷である。

 

「──御免。神谷伝兵衛、罷り越しました」

 

 玄関先で声を張ると奥から足音がして、おたかが顔を出した。

 

 神谷が式台に行李を下ろす。それに合わせて、お絹も布に包んだ弓を、その傍らに立てかけた。

 

 ──持ち込んだ荷はそれきりであった。

 

「神谷様。ようこそ、おいでくださいました。ただいま、当主が参ります」

 

 年頃である十八の娘の引越しにしては、あまりに少ない。おたかが行李を引き受けながら片眉を上げ、すぐに表情を戻す。挨拶を簡単に済ませると荷を奥へと運んでいった。

 

 その入れ代わりに源一郎が式台に出る。

 

「よく来られたな。時間はあるのだろう?少し上がってゆけ」

「いや、今日のところはここにて。長居をすると、腰が上がらなくなりますのでな。それよりも──渡辺殿。これが不肖の妹を宜しくお願い申す」

 

 神谷が言った。改まってはいたが井筒の座敷で見せたような硬さはもうない。言うべきことは、あの日に言い尽くしているのだろう。

 

「それは承知している。茶が気に入らんのなら、酒でも出してやろうか」

 

 源一郎の冗談に神谷は笑った。

 

「今日中に川崎の宿へ入っておきたい。本所から高輪大木戸までも、ひと足あるゆえ」

 

 高輪大木戸とは江戸南側の玄関口のことだ──特段に急ぐ旅という訳ではない。だが、初日にどこまで稼いでおくかで道中の余裕は変わるというもの。それは源一郎にも分かる理屈であった。

 

 会話もそこそこに、場を辞そうという神谷に付き添って三人は門まで歩いた。

 

 そこで一人、神谷は妹に向き合った。

 

 お絹は黙って兄に視線を向けている。その足元にアカが寄り添い、二尾が静かに揺れていた。

 

「達者でな。渡辺殿の指図をよく聞け。いいか、お絹──武芸だけでなく、人並の女子の作法くらい覚えて帰りを待てよ」

「……わかってる。私は子どもじゃない」

 

 お絹の声は、いつもより低かった。神谷が小さく笑みを浮かべる。

 

「……兄上、道中お気をつけて」

 

 今度は小さく囁くような声。兄妹の別れの言葉はそれだけだった。だが源一郎には分かった。この正反対にも見える兄妹には、それで十分に足りているのだと。

 

 神谷は頷いた。それから、妹の頭へ手を伸ばしかけて──途中で止めた。普段滅多にすることのない結い上げた髪に、手を伸ばしてから気づいたらしい。行き場を失った手は、そのまま妹の肩に、ぽん、と落ちる。お絹はそれを振り払わなかった。

 

「──では、行ってくる」

 

 神谷は言った。お絹が、こくりと頷いた。

 

 神谷は源一郎に向き直り一礼した。言葉はもうない。源一郎も黙って礼を返すのみ。

 

 編笠を被り、旅姿の背が通りを遠ざかってゆく。辻を曲がる手前で一度だけ振り返り、ひらりと片手を上げた。それきり、塀の陰に隠れて見えなくなった。

 

 お絹は兄の消えた辻をいつまでも見送っていた。内情を察しているのか、アカがお絹の足に身を摺り寄せる。

 

「風が冷たい。そろそろ中に入ろう」

 

 源一郎が声をかけると、お絹は身を返した。だが、その足はもう一度だけ辻の方を向いた。

 

 源一郎はお絹が戻るまで、門口に残って西の空を見た。冬の日はもう、少しずつ傾き始めている。あの男はこれから東海道を上ってゆくのだろう。西へ。多くを語らなかった、その先──富士の麓を目指して。

 

 ──俺に、もしものことがあった折の。

 

 井筒で聞いた声が耳の奥に残っている気がした。あの飄々とした男が身辺を整えて発った。ただの長旅なら、ここまではすまい。西に何があるのか。誰を追うのか。──源一郎には、およその見当がついている。ついているだけに胸の底がざわめいた。

 

 妖狐、霊猫、天狗に座敷童子──。源一郎にとって人ならぬものは、突き詰めればただの奇妙な隣人である。故に人ならぬもの達は恐ろしくはない。真に恐ろしいのは人──神谷が追ってゆくのも、人の顔をした悪鬼、この世で最も始末の悪いものの類なのだろう。

 

 源一郎は西の空から目を逸らした。

 

 屋敷の内から、女たちの声が聞こえてくる。おたかの声と、お鈴の声。パタパタとお絹を迎えるための最後の準備を整えているせいだ。

 

 そんなささやかな慌ただしさを聞きながら、源一郎とお絹はその声の方へと歩き出した。

 

 §

 

 ──まずお絹が通されたのは、庭に面した座敷であった。

 

 源一郎が上座に座る。おたかとお鈴は座敷には上がらず、次の間の敷居際に膝を揃えて控えていた。

 

 お絹は座敷の下座につき、両手をついて低く頭を下げた。

 

「──神谷、絹と、申します」

 

 声は低いがはっきりとしていた。

 

「本日より……お世話に、なります」

 

 そこで一度、言葉が詰まった。

 

 数日前から言うべきことは頭の中に並べてあった。だが、並べたものを順に口へ出すという行為に、この娘は慣れていない。

 

「兄が……勝手を、申し上げました。憑き物のある女を屋敷に置くなど……断られて、当たり前のことと存じます」

 

 たどたどしく。継ぎ足すように、一つずつ言葉を紡ぐ。

 

「それを……お引き受けくださいました」

 

 お絹の猫背が伸び、きれいに折れている。

 

「厄介を、おかけいたします。──御家のご迷惑に、ならぬよう、努めます」

 

 源一郎はしばらく、その頭を見ていた。

 

 努める、と言った。世話になる、でも、よろしく頼む、でもない。──迷惑をかけぬよう努める。その言葉からして、神谷の屋敷でどのような扱いを受けてきたのか源一郎には察することができた。

 

「顔を上げてくれ」

 

 お絹が顔を上げた。

 

「渡辺源一郎だ。──改めて名乗るのも妙なものだが、これからはこの家の主として顔を合わせることになる」

 

 源一郎はそう言って、次の間の二人を示した。

 

「そちらがおたか。俺の乳母で、この屋敷の内向きは全てこの者が取り仕切っている。飯のことも、掃除のことも、まずはこの者に訊いてくれ」

「おたかにございます。お絹様、どうぞ末永く」

 

 おたかが丁寧に頭を下げた。

 

「それから、お鈴。おたかの娘で、この家の家計を預けている。──お鈴はお絹殿がこの屋敷に来られるのを、首を長くして待っていたようだぞ」

「まあ。旦那様ったら」

 

 お鈴が袖で口許を隠して笑い、それから三つ指をついた。

 

「お鈴でございます。──と申しましても、お絹様とは、もう幾度もお顔を合わせておりますけれど」

 

 お鈴はそう言ってから目を細めた。

 

「此度は同じ屋根の下でございますね。……嬉しゅうございます」

 

 お絹は膝の上で手を重ね直した。

 

「他にも奉公人が何人かいるが、今は外に出ている。夜には戻ろう」

 

 源一郎はそこで一つ間を置いた。

 

「──それと、この屋敷には人でないものも何人か住んでおる。既に分かっているだろうが」

 

 庭に面した障子の陰から、小さな影が半分だけ顔を出していた。黒い着物のおかっぱ頭。菖蒲である。おたかはその方を見ない。視えぬからである。お鈴は一度そちらへ目をやって、微笑んだ。

 

 お絹もまた、その影を見ることが出来る。

 

「……はい」

「菖蒲という座敷童子だ。滅多に悪さはしないが、時々膳のものをつまむ癖がある。庭の祠には豊川稲荷の御狐もいる。──この屋敷には色々な者が集まる。だから、今更ひとり増えたところで誰も驚かんし、迷惑だなどとも思わん」

 

 お絹の目が僅かに揺れた。

 

「それに勘違いをしてもらっては困る」

 

 源一郎は続けた。

 

「そなたを置くのは、神谷殿が無理に頼んだからではない。俺が置いてよいと思ったからだ。それだけのこと。──努めるのは結構だが、根を詰めるなよ。おたかもお鈴も、そなたを試そうなどとは思っておらん。飯を炊いて、食って、夜は寝る。ここでの最低限の努めは、まずそれだけだ」

 

 お絹は何事か口を開きかけて、そのまま閉じた。れから、もう一度頭を下げる。今度は先ほどより浅く。だが、先ほどより長く。

 

「……よろしく、お願い、いたします」

 

 源一郎は頷いた。

 

「──うむ、よろしくな。では、まずは荷解きをするのがよいだろう」

 

 §

 

 案内された先──そこは日当たりのよい部屋であった。

 

 部屋の隅には、真新しい小さな陶器が二つ並べて置かれていた。水を入れる器と、供え物を載せる皿である。おたかが話を聞いて、二日前から用意しておいたものだった。

 

「猫神様をお祀りになっているとか。ここに壇はございませんが、その器はお好きに使ってください」

「……ありがとう、ございます」

「祀られるお猫様も、器くらいは自分の物が欲しいでしょうからね」

 

 お絹は、その器の前にしばらく立っていた。何か言おうとして、言葉にならぬらしい。代わりに深く頭を下げた。おたかは、ほほほ、と笑って台所へ戻ってゆく。

 

 一人になると勧められた通り、お絹は行李の紐を解いた。

 

 蓋を開ける。中身は着替えが数枚。手拭いが三本。地味な竹の櫛が一つ。それから油紙に包んだ古い書付の束が幾つか。あとは弓の弦と、矢が数本。不足するものは、主人に断って四谷の屋敷に取りに戻ればよい。

 

 着替えを畳み直し、壁際に置かれた簞笥に納めた。手拭いを重ねて上の段へ。書付は、また油紙に包んで行李の底に戻す。弓は布を解いて弦を検め、また包んで床の間の隅に立てかけた。

 

 行李の蓋を閉め、押し込み──押し入れへと仕舞う。それで終わりであった。荷解きを終えるのに半刻もかからない。

 

 押入れを開け、寝具が収めてあるのを確認してまた閉める。畳の目をなぞり、何となく数えてみる。それから部屋の真ん中にポツンと座った。

 

 ──することがなくなった。

 

 これまでのお絹の暮らしには常に役目があった。密偵として潜入するための支度か、文の待ち受けか、もしくは弓の稽古か。何もない時や障りの酷い時は、ただ静かに庭を見て過ごしていればよかった。それを誰も見咎めもしなかった。

 

 だが、ここは他家である。座っているだけのことが、どうにも据わりが悪い。

 

「──お絹様。少しよろしいですか?」

 

 襖の向こうから、お鈴の声がした。

 

「お買い物に参りますけれど。ご一緒にいかがです」

 

 お絹は跳ねるように立ち上がった。自分でも、その速さに驚いたほどであった。

 

 §

 

 ──本所の通りは活気があり、冬の日を浴びて明るかった。

 

 お鈴は手に竹の籠を提げ、頭の中で算段をつけながら歩いている。その算段のもと、お絹に問うた。

 

「まずは、小間物屋で櫛と元結を見ましょうか。それから紙屋で半紙と筆を一本。お絹様の手拭いは、いま幾つおありですか?」

「……三本ほど」

「では、もうあと三本ほど。台所に立つと、幾らあっても足りませんからね」

 

 お絹は籠に目をやった。

 

 物を買うことに不慣れなわけではない。潜入の折には、店の使いになることもある。値の相場も、掛け合いの仕方も一通りは心得ている。

 

 ──だが、それは己の買い物という訳ではない。

 

 女中に化ければ女中らしいものを買い、町娘に化ければ町娘らしいものを買う。選ぶのはその時々の役で変わる。己の好みで選べば、そこから身が割れる可能性がある。だから自身の好みは極力殺し、私物を買って増やすことをしない。

 

 だから、お絹の名で、偽りのない顔で、己の好むものを選ぶ──そういう買い物を、お絹はこれまでの人生でほとんどしたことがなかった。

 

「あら。これなど、お絹様に似合いそう」

 

 小間物屋の店先で、お鈴が黄楊の櫛を手に取った。背に細く朱の紋様の入ったものである。

 

「……」

「あれ、お嫌いですか」

「……いえ……櫛なら手持ちがありますし……私に櫛など似合いませんので……それに、少し派手ではないですか」

「えぇっ?これで派手なら、江戸の女は皆、傾いておりますよ」

 

 お鈴が笑った。お絹は困ったように、その櫛を見ている。

 

 簪も、笄も、お絹は一つも持っていない。役柄に応じて挿すものは支度されたが、それは借り物であって、私物ではなかった。気楽さから男装を好むお絹にとって、日常生活で使う場面もなかったのだ。

 

「私には……よく分かりません」

 

 ──結局、簪や笄どころか櫛すら買わなかった。だがお鈴はそのやり取りの間中ずっと、この背の高い娘が装飾品一つ一つを手に取ってじっくり観察していたことや、戸惑っていたことを面白がっていた。曰く、興味がない訳ではないのだと。

 

 その後──小間物屋、紙屋を経て、今度は乾物屋に寄った。

 

「煮干しを一袋。──これは、お猫様の分でございますよ」

 

 お鈴がそう言って、量り売りの小袋を籠に入れた。お絹の足がそこで止まった。

 

「……そういえば、あの……今日の代は」

「屋敷の入り用でございます。旦那様のお指図で、全て帳面に立ててございますから」

 

 立ち止まったまま、お絹はその小袋を見ていた。

 

 ──生活の必需品、アカの供え物の代まで、渡辺の家が出すという。

 

 神谷の家ではそうではなかった。必要なものは女中が揃え、アカのことも口にしてはならぬ空気があった。昔、憑き物を呼び寄せると父に咎められたせいだろうか。だから、隠すことが日常になっていた。ひっそりと。ただ耐えるように。

 

 それをこの家は殊更隠しもせず、全て詳らかに帳面にまで立てるという。憑き物に関わる事柄を厄介でもなく、隠すものでもなく、家の入り用の一つとして。

 

「お絹様?」

「……なぜ」

 

 お絹の声は掠れていた。

 

「なぜ、他家の私の憑き物の分まで?」

「他家の、ですか」

 

 お鈴は、きょとんとした顔をした。それから、ふふ、と笑った。

 

「お絹様がこの家におられる間は、お絹様もお猫様も、この家のお身内でございましょう。──お一人だけ勘定の外に置くわけには参りませんよ」

 

 お絹は何も返せなかった。ただ、籠の中の小さな袋をしばらく見ていた。

 

 §

 

 屋敷に戻ると日はもう傾きかけていた。多忙な一家の主は役目に出たらしい。

 

 夕餉の支度に、お絹も台所へ立った。といっても、この日はまだ何も教わっていない。おたかに言われるまま菜を洗い、水を汲み、竈に薪を運ぶ。それだけである。しかし、それだけのことで妙に安堵した。

 

 夜も更けて、皆が寝所に下がった後。

 

 お絹は己の部屋の隅に座り、昼間に買った煮干しの袋を開けた。

 

 器に新しい水を満たす。今日買った煮干しを、一つ、二つ。白狐に教わった通りに。それから小さな声で名を呼んだ。

 

「アカ。──今日も傍にいてくれて、ありがとう」

 

 赤毛の霊猫は目を細めて器の前に座り、二尾を静かに揺らした。廊下の陰からそっと覗いていた菖蒲が嬉しそうに、タタタと足音を立てて暗い廊下を駆けていったのだった。

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