鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百四十九話 美味しい米の炊き方

 

 ──翌朝である。

 

 夜の明けきらぬうちに、お絹は床を払って起きた。武家の女中は、主より先に起きて竈に火を入れる。それに密偵の暮らしは朝が遅い者には務まらない。言われるまでもなく、お絹の身には日の出前に目を覚ます習いが染みついていた。

 

 台所へ行くと、既におたかがいて挨拶を交わす。

 

「おや、お早いこと。よく眠れましたか?──では、早速、米研ぎから参りましょうかね。ウチではいつもは麦飯ですが、今日は特別。たまの贅沢ということで白飯といたします」

「はい」

 

 おたかは台所の隅から、浅い半切りの桶を引き出した。米研ぎ用の桶である。升で量った米を桶に移し、水を張る。お絹は袖を絞り、その前に膝をついた。

 

 手つきに迷いはなかった。密偵として女中として店に潜り込むこともあり、飯炊きの下働きは一通りこなしている。水を替え、掌の付け根で米を押し、桶を傾けて研ぎ汁を切り、また水を張る。こなれた所作である。

 

 研ぎ上がった米を笊に上げ、水を切ってから釜へ移す。

 

「あら」

 

 おたかが小さく声を漏らした。

 

「なかなか堂に入ったもので。手つきはお達者ですね」

 

 お絹はこくりと頷いた。表情は薄いながらも、その横顔がほんの僅かに得意気になる。

 

 もっとも──これは潜入の為に身につけた、いわば付け焼き刃である。実の所、お絹が己の家の台所に立ったことはほとんどない。

 

 兄も、お絹も、妾腹の子であった。母は四谷の屋敷に入ることを許されず、兄妹は古い農家で母とともに育った。雑木林に囲まれ、近くに人家もない家。父が通ってくるのは月に幾度かのことであった。

 

 その家の竈の前には、いつも母が立っていた。──あの背中は今も覚えている。その隣に並んで手ほどきを受けたことは、ついに一度もなかったが。

 

 ──お絹の体が女になり始めた頃、お絹は障りを背負うことになった。

 

 夜ごと見えぬものが見え、聞こえぬ声が聞こえる。目眩、頭痛、苦痛。狂ったように悲鳴を上げた娘を見て、父は「憑き物め」と吐き捨てた。元が兄と共に妾腹の残りものと呼ばれた子である。本妻の子が死に、お絹に弓の才と身の軽さがなければ、そのまま見捨てられていただろう。

 

 だからだ。生き残るためにお絹は己の全てを武芸に注いだ。役に立つことだけが、この世に己が在ってよいという許しに思えたから。

 

 やがて本妻の子が絶え──兄が家を継ぐ者と定まると、兄妹は四谷の屋敷へ引き取られた。だが、屋敷の台所は古参女中の領分でもあり、屋敷に馴染めなかったお絹の居場所は朝から日暮れまで稽古場にしかなかった。故に、飯炊きなどを覚えている暇も機会も、お絹にはなかったのだ。

 

 ──そうした経緯があるせいか、おたかの目が次に竈へ向いたところで早速雲行きが怪しくなってきた。

 

「では、火を熾しましょうかね。飯を炊く火にはコツがございます。よく覚えておいでなさいませ」

 

 おたかは焚き口の前に膝をつき、まず自ら火を入れてみせた。

 

「始めちょろちょろ、中パッパ、赤子泣いても蓋取るなと申しましてね。初めは、こうして、とろとろと弱い火で、じっくりと温めるのでございます。ここで慌てて強い火にしてはなりませぬよ。米の芯まで、水と熱が染み渡る大事な間です。ここをしくじると、表ばかり先に炊けて中に芯の残った、固い飯になります」

 

 お絹は焚き口の中のまだ頼りない小さな火を、じっと見た。

 

「中ぱっぱ、とは──米が水を吸うて、釜が噴いてきたら、今度は一気に強い火で焚き立てる段階。釜の中で湯がぐらぐらと躍り、米の一粒一粒が舞い踊る。こうして初めて、隅々まで熱が行き届くのでございます。ここで火が弱いと、米から出たとろみが底に溜まって、糊のようなべたべたの飯になりますからね。火加減を間違えてはいけません」

 

 言葉の通り薪を増やし、おたかが火を強めると、やがて釜の蓋が、コトコトと鳴り白い湯気が勢いよく噴き出した。

 

「そうして、噴きが収まったら火を引いて、またとろ火に。──ここは好みですが、私なら最後に藁を入れて一息また強くして、余った水気を飛ばします。それから徐々に火を落として……」

 

 おたかは竈から離れ、釜の蓋に手をかざした。しかし取ろうとはしない。

 

「ここも肝要ですよ。赤子泣いても蓋取るな。火を落とした後も、釜の中は熱い湯気で満ちておりますから。この熱で米の膨らみと水の案配を整えるのです。ここで気になって蓋を取ろうものなら──湯気がいっぺんに逃げて冷め芯が残ったり、折角ふっくら炊けかけた米が乾いたりします。だから、赤子が泣こうが、雷が鳴ろうが、蒸らしの済むまでは蓋に手を開けてはなりません」

「……湯気が抜けると米が乾くのですか?」

 

 お絹が問う。理屈を知りたい性分であった。

 

「さて」

 

 おたかは曖昧に、ころころと笑った。

 

「何故かは、私にも分かりませぬ。ただ、坊ちゃん──旦那様が理屈をそう申しておりましたよ。こうすると旨く炊ける、こうすると炊き損じると。──私のは長年、竈の前に立って覚えたことでございますが、旦那様の理屈は、なるほどと納得するものがあります」

 

 その事もなげな物言いに、ふと、お絹は疑問符を抱いた。何故、一家の主が炊いたこともない米の理屈を知り、語るのか。しかし、言われてみれば、おたかの説明には妙な説得力があった。

 

 やがて、蒸らしを終えた釜の蓋を、おたかが取った。

 

 ふわり、と湯気が立ちのぼる。艶やかに炊き上がった白飯が、一粒一粒光っている。お絹は思わず身を乗り出した。実に美味そうに炊けていた。

 

「どうです。これが始めちょろちょろの飯でございますよ。美味しく米を炊くには慣れが必要。何度も試し、感覚を掴むしかありません」

 

 おたかが得意げに言い、お絹は感嘆の息を漏らした。手順は簡単なものだ。焚き付けをくべ、火を移すくらいは造作もない。

 

 ──だが、それを己でやれと言われると話は別である。

 

 いつ火を強め、いつ引くか──その見極めが掴めない。弓なら風の湿りも、矢の重みも一瞬で読める。それが竈の中の火の勢いとなると、全くもって未知であった。

 

「明日の朝は、早速お絹様に炊いていただきましょうかね。飯は一日に一度、朝にまとめて炊きます。それだけに、朝一でしくじると一日中気分の悪い思いをいたしますから十分にお気をつけて」

 

 おたかが悪戯っぽく笑った。お絹はごくりと唾を呑んで頷いた。明日の朝が早くも思いやられた。

 

 

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