──朝餉が済み、屋敷の掃除も一通り終えた頃合い。今度はお鈴が、そろばんと帳面を抱えてやってきた。
「さ、お絹様。次は私ですよ。──そろばんと、読み書きはできますよね。それにこの家の帳面の付け方を少しずつお教えしていこうと思います」
「は、い。よろしく、お願いします」
お鈴は、お絹の前に座ると、そろばんを置いた。
「まずは簡単なものから。──ざっと、この屋敷のひと月の入り用でも勘定してみましょうか。奉公人の給金、炭に薪が幾ら、菜に魚、茶代、振舞、振合、それに付け届けの返礼品が……」
お鈴の指が玉の上をパチパチと走った。
速い。目にも留まらぬほど速い。焦る──お絹が必死に数を頭で追っている間に、お鈴はさっさと答えを弾き出していた。しかも玉を弾きながら、勘定の詳細までスラスラと口にしてゆく。
「──ざっと〆て、月に五両ばかりでございましょうか。この家にいれば自ずと分かることなので、お絹様には教えてしまいますが……旦那様の御役目である御先手組与力の格はおよそ二百石の土地を持つお武家様と同等。しかしながら、実際には知行地が与えられている訳ではなく、四公六民だとすると実の入りは、そのおよそ半分。現実問題、蔵米取りの同心与力の奥方様方は、どなたも家計に頭を悩ませておいでです。……本禄だけならば、この屋敷とて決して楽ではございませんでしょう」
お鈴はそこで、ふふ、と笑った。
「──もっとも、ウチは違います。旦那様への季節の付け届けや事件解決の謝礼金、御頭様よりの賞与、剣術指南の稽古料、火盗改加役による手当て諸々。それに──表立って人には言えぬ筋の相談事もありますので……懐は想像以上に潤っております。ふふ、今どき珍しく、この屋敷には借金の一つもございません。おかげ様で、暮れの餅代も煤払いの物入りも心配することもなく……これもひとえに旦那様のお働きの賜物でございましょう」
人には言えぬ筋──その一語に、お絹は眉を上げたが、お鈴はそれ以上は言わなかった。ただ、お絹を見て、ちょっと笑っただけである。それはつまり、目には見えない物の類の相談事ということか。
お絹はそのまましばし言葉を失っていた。
借財がないことにも、計算の速さにも驚いた。だが、それ以上に驚いたのは──屋敷の財政の一切を、このお鈴が握って回している、そのことにである。
確かに家計を任せられているとは聞いていた。しかし、奉公人が主家の内証をここまで詳らかに、しかも奥か一端の勘定方のように差配している。女中の領分ではないことは確かであり、家の主人がお鈴に財政のすべてを預けているということを意味する。よほど確かな信を置いていなければできることではなかった。
「……お鈴殿は、この家の内証を全てお一人で……?」
「ええ、まあ……」
お鈴が少し照れたように笑った。
「知っての通り、おたかが旦那様の乳母でございましてね。私はその義理の娘なのです。幼い頃にこの屋敷に引き取られて、母に家のことを、先代様や旦那様より算術諸々の教えを仕込んでいただいて……今は、内証の遣り繰りを任せていただいております。私自身の立場は奉公人ではありますが……旦那様は少々……いえ、かなり変わった御方ですから」
なるほど……と、お絹は得心した。この屋敷の主従間の気安さは、そういう来歴ゆえか。おたかは乳母、お鈴はその義娘であり家宰役。血は繋がらずとも、この三人はそれぞれ役割を持つ家族に他ならない。
「ところで。お絹様は何故勘定をつけなければならないか、考えたことはありますか──?」
お鈴は、ふと、そう尋ね、そろばんの玉をぱちりと払った。
「何故……?考えたこともありません」
「同心与力の奥方様より、たまに尋ねられることがあるのですが──。数を勘定するのは、帳面を綺麗に埋めるためではないのですよ。それでは、やった気になっているだけの本末転倒。意味がありません」
「……では、何のために」
「商人達に誤魔化されぬ、騙されぬため。家の財政をきちんと把握するため。身を守り、家を守るためにでございます」
お鈴は帳面を一枚めくった。そこには商家の書付が幾枚も綴じられている。
「暮れの掛け取りには、出入りの店が勘定書を持って参ります。米屋、炭屋、油屋、酒屋──。ですが、その書付がいつも正しいとは限りません」
「……商家が数を違えるのですか」
「えぇ。殆どはうっかりのものですが。いい加減な店ほど、多いような気がいたしますね。どちらにせよ、こちらが内容を検められねば、言われるままに払うことになりましょう」
「検めるとは……どうやって?」
「遣り取り。ツケ払いの控えを取っておくのですよ」
お鈴は帳面の脇から、細長い綴じ本を幾冊か引き出した。表紙にそれぞれ、店の屋号が書いてある。
「これが納品の控えでございます。出入りの店ごとに一冊の通い帳を用意してあります。品を納めに参る際にはここに品名、品数、金額を書かせ、出入りの者に判を押させます」
「……判を?」
「はい。これは旦那様が言っていたことですが──口約束は後でいくらでも違えられるが判の押してある紙は違えられぬ、口約束のやり取りは互いの信用を損ねることがあると。なので、これがあれば一先ずは互いに疑い合うことはなくなります」
お鈴は通いの一冊を開いて見せた。品と数と代が記された紙が日付ごとに綴じられている。その隅に朱の小さな判が捺されていた。
「これを元に互いに間違いがないか確認するのです。向こうでも当然売掛帳は付けていますが間違う可能性もあります。なので、こちらでも同じことを控えておくのです。店の帳面と、こちらの通い帳──この二つが合っていれば、まず間違いはございませんが……何かあった、もしもの時には反論の証拠にもなる」
お絹はその朱の判を見ていた。
「例えば炭でございます。炭は種によって値が違います。堅炭と並炭では、俵あたりの代が異なる。──ところが、先の暮れに炭屋が持って参った〆の書付には、〆て代幾ら、としか書かれていませんでした。堅炭が幾俵で代は幾ら、並炭が幾俵で代は幾らとは、どこにも書いてはいないのです」
「……それは……少し気になりますね」
お鈴は、にこりと笑った。
「普段からきちんと勘定していれば何の心配もありません。一俵の値も、納入した俵数も、〆の代まで通い帳に控えております。──ならば、後はつけた帳面と照らし合わせ、計算するだけ」
「……なる、ほど」
「こちらの数と突き合わせ、そこで食い違えば、初めて『これは如何なることか』と問い質せますでしょう?──事実が食い違っていると分かってさえいれば、こちらは強うございます。分からぬままでは言われるがままに払うしかございません」
お絹はその通いを見つめた。
お絹は得意な弓を通じて考えてみた。的の見えぬまま矢を放つ者はいない。見えぬ標的を見えるようにしてから、初めて引き絞る──そんな場面が浮かぶ。
「勘定というのは、そういうものでございますよ、お絹様。足し引きが速いことより、分からぬものを分かるようにすることの方が、ずっと大事。──家の内証を預かるというのは、つまるところ、これを毎日毎月地道にやり続けることなのです」
お鈴はそこで、そろばんをお絹の前に、すい、と差し出した。
「──で、勘定にはそろばんが付きもの。計算のお稽古に、ちょうど良い遊びがございます」
「遊び……?」
お鈴が悪戯っぽい目をしている。
「鶴と亀があわせて八匹。足の数をみな数えたら二十二本ございました。──さて、鶴は何羽、亀は何匹でございましょう」
お絹は面食らい慌てた。
弓の間合いなら経験として瞬時に読める。刀の間合いもそこらの武士よりも読めているつもりだ。だが、鶴と亀の足の数となると頭の中がこんがらがった。眉を寄せ、左右の指を折って口籠もる。
「ふふ。頭の中だけで数えようとするから、こんがらがるのです。──そろばんを使うのですよ。まずは算盤の上で鶴と亀を仮定して動かしてみましょう」
お鈴が助け舟を出した。パチパチと玉を払い、お絹の手を取るようにして盤の上に数を整理してゆく。
「まず、こちらに頭の数の八。こちらに足の数の二十二。──さて、八匹がみんな鶴だったら。鶴の足は二本。八羽なら、二八の十六本」
「……十六」
お絹が言われるままに玉を弾く。
「ですが、本当の足は二十二本。十六を引くと──」
「……六本、余る」
「そう。その余った六本が亀の数を知る手掛かりになりますよ。八羽いる鶴を一羽、亀一匹に替えるたびに、足の合計は二本ずつ増える。──ならば、余りの六から、二を、引けるだけ引いてごらんなさいまし。一度引くごとに鶴が一羽、亀に化けるとしたら」
お絹はゆっくりと玉を動かした。
六から二を引く。パチリ、一匹目が亀になった。四から二を引く。パチリ、二匹目。二から二を引く。パチリ、三匹目──。
「……余りが消えた」
盤の上で余りの玉が消えてゆくたび、頭の中の鶴が一羽ずつ、のそりと亀に化けてゆく。
「二を引いたのは、三度。──さあ、亀は何匹で鶴は何羽でしょうか」
「……亀が三匹。八から三を引いて……鶴が五羽」
「ご名答~!」
お絹がほっと息をついた。
「お見事でございます。──ね、お絹様。そろばんは、ただ足し引きを速くするだけの道具ではございません。こうして玉を目で見て、手で動かしながら、答えまでの道筋を辿る道具でもあるのです」
「……道筋」
お絹は思わず盤の上を見直した。
鶴と亀の足の数。ただの謎解きと思っていたが──なるほど、これは遊びの形をした算術の稽古であった。
「……これが遊び」
「そう、遊びの一環です」
お絹はお鈴の言を繰り返した。剣も弓も熟練した武芸者が、たかが鶴と亀の足の数に手こずるとは。
「お鈴殿は……算術が、お得意なのですか?」
「得意というよりは、好むと申しますか……お絹様は算額というものをご存知でしょうか」
お鈴が目を細めて言った。
「神社仏閣には、こういう算術の難しい問いを解いて、絵馬にして奉納したものがありましてね。それはもう、鶴と亀どころではない、頭のねじれるような難問ばかり。……実は旦那様のお許しを頂いて、たまに、あちこちの寺社にお参りするのですけれど。その算額を見て回っているのです。掛かっているのを見つけて、解いて回るのが私のささやかな楽しみで」
「……算額を、解いて回る……?」
お絹は目を丸くした。参詣といえば願掛けか物見遊山と思っていたが、このお鈴は奉納された算額を解くために寺社を巡るのだという。世の中にはこんな女もいるのかと、お絹は思った。
「難しいものになりますと、幾日も掛かることがございます。ですが、解けた時の爽快さといったら。──ふふ、変わった楽しみと思われましたでしょう?」
「……いえ」
お絹は首を振った。
「見上げたものだと。──私が女だてらに弓を引くのと同じ。お鈴殿にとっては、それが算術なのでしょう」
お鈴が少し驚いたように、それから嬉しそうに笑った。武芸一筋のお絹には理解できないかと思われた己の道楽を、まっすぐに受け止めてくれた。
「ありがとうございます、お絹様──。今の私がいるのは旦那様、先代様、母のおかげですよ。そうだ、ウチの帳面の付け方も少しだけお見せしましょうか──」
嬉しくなったお鈴は帳面を開いてみせた。
そこには、お絹の見たことのない付け方で漢数字が並んでいた。入るものと出るもの、その双方を左右に分けて記し、常に釣り合いが取れるように帳尻を合わせる。──妙な、しかし、理に適った記帳法であった。
「これは旦那様に教わった工夫でしてね。どこがどう狂ったか一目で分かるのです。……初めは私も奇異に思いましたけれど」
お絹はその帳面を食い入るように眺めた。
剣も、弓も、体術も、お絹は大抵の人には負けない自負があった。だが、こうして数字と帳面を前にすると、お鈴の聡明さの前には、まるで自身が童のように思える。
──この人には頭では敵わなさそうだ。
そう思うと、胸に湧いてくるのは尊敬の念であった。そして、もし姉がいるとするのならば、このような存在なのだろうかと、お絹は漠然と思った。
「お絹様。分からぬところは、いつでも聞いてくださいね。──これを覚えておけば、いつか役に立つ筈ですから」
お鈴の柔らかい声。おたかの指導とはまた違う。お絹の強張りをやんわり解すような声であった。
「……ありがとう。お鈴殿」
「殿なんて……同じ屋根の下で暮らすのですから、もっと気安く呼んでくださいましね」
「では……お鈴、さんと──」
お絹の頬がほんのり赤らみ、お鈴が微笑む。お絹の呼びかけからほんの僅かに硬さが取れる。
廊下の陰から、顔を出した菖蒲が二人をこっそりと見ていた。縁側近くの日向では、アカが大きな体を丸めて寝入っている。そちらは、お絹のことなど我関せずであった。