その夜の膳は、やや豪勢に調えられた。膳には、お絹が教わりながら幾度も味を見て、ようやく仕上げた汁物も添えられている。
昨日の夕餉は、屋敷の主である源一郎が役目で出ていたため簡素なものだった。しかし、この日は源一郎も在宅。お絹の歓迎の意を込めた食事の場が用意されたのであった。
──台所に隣接する座敷に膳を運んでいたお絹が、ふと、混乱したように足を止めた。
既に源一郎の膳は座敷に。そして、おたかとお鈴の膳は、その隣──台所の板間に据えられている。すぐ隣にある座敷の障子戸を開け放てば地続きとなる構図であった。
「あの、おたか殿。この並びは……」
お絹が戸惑ったように問うた。敷居を隔てているとはいえ、膳が並んでいる。通常、武家では主人と奉公人が同座して食事することも、同時刻に食事を取ることもない。奉公人は主人が食事を終えた後、台所の板間や長屋で済ませるのが習いである。ところが、この場では主人、奉公人に関係なく膳が並べられていた。
「ああ、これは──」
おたかが少し困ったように、けれど嬉しそうに笑った。
「坊ちゃ──旦那様たっての仰せでしてね。一人離れて飯を食うのはどうにも味気ない。それに食事の時間を分けるのは効率が悪いから、共に食事する膳を用意しろと」
「なる、ほど……」
「世間の目もございますし、ご遠慮申し上げたのですが……ただ、旦那様は一度言い出したら聞きませんので。せめて、こうして戸を開けて、膳を並べる場所だけは分けるようにしたのでございます」
お絹はその膳の並びを、しばし見つめた。
主人と奉公人。同じ時に、声の届くところで共に食事する。家族同然であるならばおかしくはないのか──?しかし、下級の御家人ならばいざ知らず、役目を負った立派な武家の作法ではないのは確かだった。
「──あまり真っ当な武家の作法とは言えんのでな。こういう家もある、程度に考えておいてくれ。さ、お絹殿の膳はこちらだ」
着流し姿の源一郎が座敷に姿を見せ、そう言うと静かに着座した。それから座敷の己の膳の斜め向かいを示した。おたかやお鈴のいる板間ではなく、主人である源一郎の膳が据えられた座敷に。
しかし、お絹は迷う素振り。
「……ご配慮、ありがとう、ございます。しかし今回ばかりは……ご遠慮申し上げたく、思います。申し訳ありません」
数瞬、言葉を溜めた後、お絹が頭を下げ意外なほどきっぱりと固辞した。
「私は行儀見習いの身……一家の主と同じ間で、膳を並べるなど……畏れ多いこと、にございます……どうか、私の膳も板間の方へ」
そう言って、おたかたちのいる台所の板間に視線を向ける。
「お絹殿」
それに対して、源一郎は少し困ったように言った。
「そなたは神谷殿の妹御だ。御庭番を務める武家の娘であって、本来、屋敷の奉公人ではない。神谷殿はそなたを預けていった。行儀見習いではあるが、奉公に出した訳ではない。客人を台所の板間に座らせては、俺が奴に顔向けできぬのだが……」
もっともな言葉であった。神谷の家は格からいえば同列の御家人だが、将軍の側近くに仕える役目であって与力の家格に引けを取らない。主人である源一郎が同座を勧めるのは妥当な判断だった。
だが、お絹は首を横に振った。
「……お気持ちは、ありがたく存じます。されど」
お絹の声音が本心を映すように、ふと、変わる。
「私は……上座に迎えられて当然とは、思いませんので。今日一日……おたか殿と、お鈴さんに、飯炊きや帳面の付け方を教わりました。お二方は師も同然……私も、同じところに膳を並べとうございます」
お絹はそこで言葉を切った。
元は妾腹の残りものと呼ばれた娘。元より奉公人扱いに忌避感はない。しかし、一人上座に迎えられて、師となる二人と隔たりが出来ることの方が気になるのか──その心の内を、お絹はうまく言葉にできなかったが、言葉の裏を源一郎は酌み取っていた。
「そうか」
源一郎はしばしお絹を見つめ、それから口許を緩めた。
「無理には勧めぬ。──では、お鈴の隣に膳を並べるといい」
「……はい」
お絹の顔がほっと和らいだ。
お絹の膳は、お鈴の隣に改めて据え置かれた。座敷の障子戸は開け放たれたまま。おたか、お鈴と同じ板間にお絹の膳が並ぶ。
「では、いただこう」
それを確認してから、源一郎が墓前で祈るような奇妙な仕草をし、汁椀を取り一口啜る。
お絹が板間から、じっと源一郎の様子を伺っていた。源一郎はもう一口啜って椀を置く。
「うん。──美味い」
それだけであった。素っ気ない短い言葉である。だが、お絹の肩からは、ふっと力が抜けた。
「そのように緊張することはない。美味くできている」
「……はい」
「今からそれでは気疲れもしよう。おたかは料理の味付けには殊の外、細かいぞ。あまり根を詰めることのないようにな」
「まぁ。酷い言いようですこと」
「ふ──。この屋敷には一風変わった料理や調理法があり、俺も稀に台所に立つこともある。神谷の家とは勝手が違い、慣れるまで苦労するかもしれんが……良い経験にはなるだろう。女同士、二人と話し合いながら上手くやってくれ。無論、俺に相談してくれても良いがな」
源一郎はそう言って箸を進めてゆく。それから、お絹はようやく己の箸を取る。
隣の板間では、おたかが味付けを確かめるように箸を運び、お鈴がお絹に菜の鉢を勧め、いつの間にやら姿を見せた菖蒲が源一郎の膳からつまみ食いしようと手を伸ばしている。身分存在の垣根を越えた静かな賑わい。どれもこれもお絹にはこれまで縁の無かった光景であり、知らず、ふっ、と頬を緩ませていたのだった。
§
──夜も更けて、皆が寝所に下がった後。
お絹は己の部屋の隅に二つの器をそっと置いた。
片方の器に新しい水を汲み、もう片方には煮干しを、一つ、二つと供える。それから、その傍らに座って赤毛の霊猫が現れるのを待った。
アカが音もなく障子戸をすり抜けて現れると、器の前に座った。二尾をゆったりと揺らしている。
「アカ」
お絹は小さな声で語りかけた。
「この屋敷は……変わってる。何もかも神谷の家とは何もかもが違う。……でも、不思議と嫌ではなかった」
アカが、ナァ、と、相槌のように鳴いた。
「今日は……米の炊き方を教わったよ。……炊き方は当然知っていたけど、美味しく炊くにはコツが必要だって。明日から私が炊くことになるけど……ちゃんと火の塩梅を掴めるかな。弓なら、風も間合いも読めるのに。竈の火は分からない」
お絹は続けた。言いながら、お絹の口許が緩む。
「他にも驚いたのは、この屋敷の台所には味付けの品が、それはもう、たんとあってね。赤と白の味噌に、数種類の酢。胡椒やら砂糖やら薬の類も置いてあると思ったら、みな飯の味付けに使うらしい」
「ナァ」
「……お鈴さんは、そろばんを教えてくれた。あの人は頭が良い。私では足元にも及ばない。鶴と亀の数を数えるのにも、あんなに難儀したのに……あの人は一目で解いてしまう。……悔しくはなかった。不思議と。むしろ、心強い……こう言っては何だけど、姉ができたみたいで」
アカが、じっと、お絹を見上げている。まるで話を聞いているように。
「明日は……飯炊きで焦がさないようにしないと……アカ。聞いてくれて、ありがとう。それじゃあ、おやすみ」
明日も頑張ろう──お絹が話し終えると、赤毛の霊猫は二尾でパタリと畳を叩き、供えられた二つの皿にゆっくりと首を伸ばした。
──廊下の向こうは静寂。この屋敷に来てから騒がしい障りの音も頭痛もない。お絹にとっては平穏過ぎるほどの静かな夜であった。