夜明け前の台所から水の音がしていた。
源一郎が目を覚ましたのは、日も昇りきらない内のこと。この時代に生まれ落ちてからというものの、日々の生活は太陽の動きと共にあった。太陽が昇る前に覚醒し、太陽が沈めば休息する──。元現代人であっても慣れとは不思議なもので、日の出前に起きる習慣が自然と身についていた。
ただ最近は──いつもより幾分早く飯炊きの準備の音が聞こえていた。それも、慣れたおたかの手つきではない。もっと慎重で静かな、ひとつひとつを確かめるような間が感じられる。
寝所を出て廊下を進むと、飯の炊ける匂いに混じって、わずかに焦げの気配が漂っていた。
台所を覗くと、お絹が竈の前に膝をついて、じっと火加減を睨んでいる。おたかとお鈴はその斜め後ろで、味噌汁に入れるであろう野菜と豆腐、香の物の準備していた。
「おはようございます、坊ちゃん」
「あぁ、おはよう」
源一郎は短く応じただけで、それ以上は台所に立ち入らなかった。細かいことを口にするつもりはないのだ。それに、ここで一家の主が口を出せば、おたかの指導に口を挟むことにもなる。
──案の定、朝餉の飯は釜の底が少しばかり焦げていた。おたかは何も言わず、お絹は自分の椀を見つめてから、黒く焦げた部分を口に運んだ。
「香ばしゅうございますね」
お鈴がそう言って笑い、お絹の肩から、ほんの少し力が抜ける。
源一郎は静かに食べ進め、二杯目、三杯目と所望した。
「うん。美味い」
お絹が顔を上げていた。申し訳なさそうな顔をしている。何か言おうとして、しかし言葉が出ぬまま、ただ頭を下げた。
源一郎は笑い、身支度に立った。
§
冬の朝は、まだ藍色の残る空の下から始まる。
家人の見送りを背に襟巻きをして屋敷の門を出ると、白い息が塀に沿って流れた。北からの風──この風が江戸の冬を厄介なものにする。
渡辺の屋敷があるのは本所竪川の武家地である。この一帯には先手組の与力屋敷が幾つか並び、その背中合わせに、組の同心たちの組屋敷が広がっていた。
火付盗賊改方は先手組を本役として、弓組、鉄砲組の頭が本役に加えて命じられる加役である。組頭が加役を命じられれば、その組に属する与力同心がそのまま火盗改の役目を帯びる。与力同心たちは幕府から与えられた大縄地に軒を連ねて住んでおり、緊急時には与力を指揮官として同心達を動員することになっていた。
もっとも──源一郎の所属する弓組の大縄地は一箇所にまとまってはいなかった。
それは江戸の都市拡大に合わせて組の増設再編を行う筈が、まとまった屋敷地を確保仕切れず、幾つかの組が分散拝領したという経緯がある。源一郎の組もまた本所の一画と、大川を挟んだ深川の一画の二つに分かれていた。
具体的には──同心、真島権助や田沼新吾は源一郎と同じく本所の組屋敷、与力の佐久間や鳥居本太郎らは深川の組屋敷に居を構えている。
──源一郎は塀沿いの道を歩いた。
渡辺の屋敷の裏手。組屋敷の入口から数えて三軒目、その一軒の前で、ふと足が止まる。
新吾の拝領長屋である。
木戸門は閉まったままであった。それ自体は珍しいことではない。早朝の刻限に門を開けない家もある。ただ、その戸の内から人の気配が伝わってこなかった。飯を炊く気配も、水を使う気配もない。
昨日も同じであった。その前の日もそうであったように思う。
源一郎はしばしその閉じた木戸門を眺め、それからまた何も言わずに歩き出した。
§
役宅に着いた頃には、すっかり日が昇っていた。
門を潜った先の玄関口には、既に人の出入りがある。書付を抱えた小者が小走りに駆け、庭では同心の手先の者達が刺股と突棒の手入れをしていた。夏場の朝とは空気が違う。誰も彼もが、どこかピリピリと急いていた。
「渡辺様、お早うございます」
役宅に上がろうとして、式台の脇から声をかけてきたのは島田六蔵であった。五十過ぎの古参同心で、この組では最も長く勤めている男である。日に焼けた顔に深い皺が刻まれ、背は源一郎の肩ほどしかないが、その足腰は若い同心よりよほど確かだった。
「六さん。早いな」
「なに、年寄りは朝が早うございますでな」
六蔵は手にしていた書付の束となった冊子を掲げてみせた。
「昨夜の分の報せにございます。──小火が二件。神田佐久間町近くと、日本橋室町にて」
「……二件か」
「はい。どちらも夜四つ過ぎ。佐久間町の方は行灯の油が畳に零れたとかで、これは大事ありません。ただ室町の方が、どうにも……」
六蔵は紙束をめくった。
「空き家の裏手から出たようで。人の住まぬ家の裏手から、ひとりでに火が出るというのは、何やらきな臭く」
源一郎はその冊子を受け取り、目を落とした。
この時期の火盗改は、盗賊に加えて火と向き合わねばならない。北からの風が乾けば、木と紙で出来た江戸の町は火に脆弱となる。一度火が回ってしまえば、それは小火では済まなくなるのだ。
そして──その火事場には泥棒が湧く。年末はツケの払いがあるため、商家の蔵には銭が集まるせいだ。人が逃げ出した家に入り込み、荷を漁ってゆく連中──無宿人や困窮者が借金や支払いに追われ、「年を越すためのまとまった金」を求めて盗賊働きに走ることがある。その中には盗みのためにわざと火を付ける者もいた。
冬に火盗改が忙しいのは、そのためであった。
加えて、賭場は年末が最も活性化する。支払いに切羽詰まった者達が一発逆転を狙って押し寄せ、概して、そうした場には凶悪な押し込み盗賊やらの悪党も出入りする。
火付、盗賊、博打──三つの任が一つに束ねられているこの役方にとって、冬とはその三つが同時に押し寄せてくる超繁忙期にほかならなかった。
「見回りを密にするしかないな……増役については何か聞いているか」
源一郎が問うと、六蔵は渋い顔をした。
火盗改には冬季の間を限定として、もう一組の頭が加えられる。増役とも言われる、冬場の火事に備えた火盗改の「加役の加役」である。この年も既に一組が命じられていた。
「昨日、佐久間様が縄張りの割り振りを詰めに参ったと聞いておりますが……どうやら、あちらは今年が初めての組のようでして。警邏は兎も角、御用改の勝手も分からぬ様子。こう申しては何ですが、当てにはできますまい」
「そうか……」
「結局、面倒なところは、こちらへ回って参りましょうな」
源一郎は冊子を閉じ、小さく溜息をついた。
人手が増えたようでいて、実のところ増えてはいないのだ。
§
詰所の与力部屋に入ると、文机の上に書類が山と積まれており、それを見た源一郎は内心うんざりした。
昨夜に発生した小火の被害状況などの詳細。増役となった組との見回り配置表と伺い。密偵や岡っ引きから齎された賭場の情報と盗賊の目撃談。摘発済みの賭場胴元の取り調べ調書。市中警邏に対する人員不足の陳情。夜間見回り当番への人員補充要請。……夏場の倍ではきかない。
諦めて一枚ずつ処理していると、障子戸の向こうから声がかかった。
「渡辺様。よろしゅうございますか」
「入れ」
「失礼いたします」
入ってきたのは真島権助。そのまま文机の脇に膝をついた。その懐から出したのは、細かく書き込まれた一枚の割り振りである。
「冬季定廻りの当番表にございますが……やはり、今のままの人手ではどうにも」
源一郎は受け取って広げた。町ごとに割り振られた巡回の担当、それぞれに充てる人員。師走から睦月にかけての分が、赤い印で細かく直されている。
「これを見れば言いたいことは分かる……見回りに一組増やしたいと言うのだろう」
「はい。それに夜廻りの刻限も早める必要もあります。風の強い晩は、灯の入る前から回りませんと間に合いません」
「人手が足りんな……」
「……そこにございます」
権助が頭を掻いた。
「今でさえ、寄場の見廻りに二人、川筋に三人取られておりまして。これ以上は、正直なところ……」
寄場は日雇いの人足の多く集まる場所であり騒動が起きやすく、川筋は物流の要で監視の手を緩めることが出来なかった。
組の同心は五十名ほどいる。数の上ではそれなりに思える。だが、そのうち幾人かは病や怪我で欠け、忌み籠もり最中の者も幾人かいる。勘定方や事務方を掻き集めても市中を歩ける者は、実のところ然程の足しにもならない。手が足りぬというのは、この役目では毎年のことである。しかしこの冬はいささか度を超していた。
実際の所──源一郎はこれから数日は距離のある本所の屋敷には戻らず、ここ役宅に泊まることになっていたくらいには。
「猫の手も借りたいとは、このことにございますな」
権助が呟いた。
源一郎は割り振りに目を落としたまま、しばらく黙っていた。それから顔を上げる。
「──新吾はどうしている」
権助の手が膝の上で止まった。
「新吾にございますか」
「傷は塞がっている頃合いだろう。斬られてから、もう一月になる」
新吾が肩口を斬られたのは、秋の捕物のことである。傷そのものは深くない。医者も、一月もあれば元通りに動くと言っていた筈だ。
組屋敷が隣り合っている以上、源一郎とて新吾が養生を続けていることは承知している。養生の届けが出ていることも、役宅に顔を出さぬ日が続いていることも知っている。ただ、あの閉じたままの木戸門がどうにも引っかかっていた。
「肩は、もう……」
権助は言葉を切った。
「ほぼ完治という具合には、なっておりましょうが」
その言い方が源一郎の眉を寄せさせた。
「歯切れが悪いな。何だ」
「……いえ」
権助は膝の上で拳を握った。
「隣に住んでおりながら、お恥ずかしい話ではございますが──近頃、とんと顔を合わせておりませぬ。ただ、夜になると出て行く足音が聞こえるので動けることは動けるのでしょうが」
源一郎は黙った。
そのとき──廊下を小走りに近づく足音がして、障子の向こうで止まった。
「渡辺様、おられますか。昨夜、日本橋であった小火の件で報告が──」
「入っていいぞ」
障子を開け与力部屋に入ってきた本太郎が、源一郎の姿を認めて膝をついた。丸い顔に垂れた目、いつもの人懐こい笑みだが、寒さのせいか鼻が赤くなっている。
「や、真島さんもおられましたか。お話の所、失礼いたしました」
「そうだ、丁度いい」
源一郎は本太郎を見た。
「本太郎。最近、新吾とは話をしていないか」
本太郎の人懐こい笑みが固まった。
垂れた目が、不振に右へ、左へと彷徨う。それから権助の方を窺い、権助がジッと視線を合わせると、今度は慌てて目を逸らして畳に視線を落とした。
「あ、い、いえ。──さて、私は住まいが川向こうの深川にございますゆえ。養生に入ってからは貴奴のことなど、何も……」
声が上ずっている。
源一郎は眉尻を上げ、その狸顔を静かに見ていた。
沈黙が長くなるにつれ、本太郎の額に薄く汗が浮いてきた。膝の上の手が握ったり離したりを繰り返す。
「あの、その、渡辺様。私は本当に何も」
「本太郎」
源一郎の声は低かった。
「何か知っていることがあるなら話せ」
本太郎がヒュッと息を呑んだ。
権助が横目で本太郎を見た。その目には、また馬鹿でもやったのかという呆れを含んだ色がある。
しばしの間があって──本太郎が消え入りそうな声で言った。
「……あの。まずは落ち着いて聞いて欲しいのですが……実は──」