鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百五十三話 鳥居本太郎の談曰く

 沈黙が続いた──。

 

 本太郎はなかなか次の言葉を継がない。膝の上で指を組み替え、それを解き、また組み替えている。冬だというのに額から汗が一筋流れた。

 

「本太郎」

「は、はい」

「怒らんから早く言え。黙っていても仕方ないだろう」

 

 源一郎の声は静かであった。だが、その静けさが本太郎にはこたえたらしい。丸い肩がびくりと跳ねた。

 

「……その、ですね。養生に入ってしばらくの頃になるのですが──」

 

 声がか細い。やはり後ろめたい何かがあるということなのか。

 

「新吾さんの家に、見舞いに参ったのです。傷の具合はどうかと。私はいつも揶揄われておりますから、今回は逆に揶揄ってやろうと、そのつもりで」

「ふむ」

「そうしましたら……その、いつものような覇気もなく、あまりに気の毒な有様でして」

 

 本太郎が顔を上げ、ようやく源一郎の目を見る。

 

「昼だというのに雨戸も開けず、床の上で天井を見ておいででした。当然身なりも整えられてはいません。飯炊きの者は来ているようでしたが、碌に食っておられぬ様子……声をかけても生返事ばかりで──あんな新吾さんは見たことがございませんでした」

 

 権助が眉を寄せた。隣に住んでいる男が知らぬことを、川向こうに住む男が知っている。その事実が権助の顔に苦いものを走らせた。なぜもっとちゃんと気にかけてやれなかったのか――。

 

「それで、私は思ったのです。これは気晴らしをさせねばならないと」

 

 源一郎は手にしていた書付を文机に置いた。

 

「それで?」

「……い、……ました」

「なんだと?はっきりせよ」

「……お誘い、いたしました」

 

 本太郎の声がまた細くなる。

 

「その……品川へ──」

 

 部屋の空気が変わった。

 

「本太郎ォ……」

 

 低く唸るような声――当初、それは源一郎のものかと思われたが……実際には権助の口から漏れ出たものだった。

 

「貴様……よりにもよって、傷の癒えぬ者を岡場所へ引っ張って行ったのか!」

「い、いや!お待ちを!これには事情がございまして!ああいう時はですね、男というものは賑やかなところに出て、酒でも呑んで、綺麗どころに相手をしてもらうのが一番の薬でして──」

「薬と申すか!貴様の場合はただの女好きの病だろうが!」

「そ、それはひどい言い草です……」

「新吾は養生の届けを出し、病断しておるのだぞ!それを──」

 

 病断――武士が病気や怪我などの事情から出仕を休むことだ。憤懣遣る方ないと、権助が膝を立てかけた。その剣幕に本太郎が身を竦める。

 

「待て、権助」

 

 源一郎が短く言った。それだけで権助は動きを止め、歯を食いしばると座り直した。膝の上の拳は固く握られている。

 

「本太郎。──それで、新吾はどうだった」

 

 問われて、本太郎は少し考えるような間を置いた。

 

「……新吾さんはあれで女子との会話は不慣れですから。初めのうちは、あまり気の乗らぬ様子でございました。酒も進まず。私が話を振っても隅で盃を眺めているばかりで……」

 

 本太郎の垂れた目が、更に弱ったように下がる。

 

「ただ。──その日の帰り道で、少しだけ話してくださいました」

「何と」

「……自分は、駄目な奴だと」

 

 源一郎は口を挟まなかった。

 

「二人がかりで、たった一人を止められなかった。弱い俺に価値などない──そう、仰って。鶴喜の……あの浅草料理茶屋の用心棒のことにございます。私はあの場には居りませんでしたが、噂には聞いておりました」

 

 権助が目を見開く。

 

 あの晩、板の間で用心棒に押されていたのは権助と新吾の二人だった。新吾は肩口を切られて膝をついた。そこへ源一郎が割って入り、十手ひとつで男の剣を制した。

 

「新吾さんは、こう仰いました。──俺たちが束になっても届かぬ相手を、渡辺様は十手一本、脇差し一本で捌いてみせた。強く、悪党を挫く。あれが武士というものだ。だが俺は、今まで何のために稽古していたのか分からなくなった、と」

 

 源一郎は目を伏せ、当時の光景を思い返した。

 

 ──鍛錬不足のようだな。

 

 あの時、確かに自分はそう言った。厳然たる事実――だが叱責のつもりも、心を折るつもりもなかった。しかし言われた側にとって、どれほどの衝撃であったかは別の話。

 

 自分の言葉が、あの男の──新吾の心に罅を入れたのかもしれない。源一郎はそう回顧した。

 

「新吾とは、それきりか」

 

 源一郎の問いに、本太郎が首を振った。

 

「あ、いえ。──それが」

 

 言いにくそうに、また指を組み替える。

 

「実はその後も、通っておられたようで」

「通っている?」

「はい」

「……ん、待て。なぜそれをお前が知っているのだ」

 

 「あ、」と小さく呟き本太郎の額に汗がブワッと噴き出す。今度は明らかに動揺も混じっている。

 

「そ、それは。その」

「それは?」

「……わっ、私も、そのっ……たまたま……そう、たまたま居合わせまして……」

「たまたま」

「た、たまたまでございます!月に一度か二度。あるいは三度か四度……ほど……?少しだけ足を延ばすことがございまして──」

「多いわ阿呆っ!貴様は岡場所を取り締まる側の立場であろうがっ!」

 

 流石に堪えきれなくなった権助の平手が本太郎の頭部を叩いた。ぱん、と乾いた大きな音が部屋に響く。

 

「い、痛いっ!ま、真島さん、暴力は──」

「本来であれば殴り飛ばしておるわ、このド阿呆ゥ!身元がバレれば面目を失い、組の皆に迷惑がかかるどころか、貴様の家の存続にも関わるのだぞ!」

「い、いえ。その場合には潜伏盗賊の捜索をしていると言って誤魔化しますので……」

「なお悪いわ!まさかとは思うが貴様……店の者に素性を握られてはおらんだろうな。摘発を見逃すよう、楼主からの袖の下なども受け取ってはおらんだろうな!?」

「流石の私もそのようなこといたしませんよぉっ!」

 

 権助の怒りに本太郎が身を縮ませている。源一郎は二人のやり取りを止めなかった。ただ、今朝方の閉じた木戸門を思い出していた。騒ぐ二人を尻目に、源一郎は咳払いを一つ。

 

「それで。新吾の様子はその時どうだった」

 

 涙目になった本太郎が叩かれた頭を撫でながら、姿勢を戻した。

 

「……はじめは、一人で呑んでおられただけかと思っておりました。ただ、先だって見かけた折には……いささか様子が違いまして」

「ほう。違う、とは」

「どうにも馴染みの女がおるようなのです。妹女郎でしょうか。若い娘で、気になって女郎達にそれとなく聞いてみると、新吾さんはそう日を置かずに来て、その娘ばかり座敷に上げているのだとか」

 

 源一郎の眉が僅かに動いた。

 

「それは……入れ込んでいるということか」

「私にはそう思えました。──あの、渡辺様。誤解のないよう申し上げますが、男なら女の肌が恋しくなるのは道理かと。それが辛いときならばなおさら……新吾さんはまだ御新造も見つけておられませんし、先年、父母も病で亡くしておられます。女郎に入れ込むのを咎めるのはあまりにも……」

 

 本太郎はそこで言葉を切った。

 

「それに──帰る場所もないような、あんな顔をされては、私も何と声をかけたらよいか……」

 

 本太郎から知らされた事情に、源一郎は黙った。権助が深く息を吐き、それから、源一郎に向き直ってから絞り出すように言う。

 

「渡辺様。──私の落ち度にございます」

「権助」

「隣に住んでおりながら、奴の思いなど何も知らずにおりました。いや、役目の忙しさにかまかけ、知ろうともしなかった。気に掛けてやるべきでした」

 

 権助は膝に手をつき、頭を下げた。

 

「……あの晩、押されておったのは私も同じにございます。私はそれなりに歳を食っておりますゆえ、己の分というものは、もう嫌というほど分かっております。だが、あれはまだ若い。若い者にとって、己の分を突きつけられるのは──」

 

 その先を権助は言わなかった。

 

「……思えば、初めのうちは夜に庭で木刀を振る音が聞こえておりました。肩の傷がありますので利き手とは別の逆手にございましょうが……その意気に感心しておりました。しかし、それがいつの間にか聞こえなくなり──私は傷がまだ痛むのだろうと」

 

 源一郎はしばらく何も言わずにいた。権助の後悔はそのまま源一郎にも当てはまる。今の今まで異変に気づけなかったのは、自身とで同じだったのだから。

 

 冬の陽が障子を通して、畳に薄い四角を落としている。庭では捕り方の者達が稽古を始める喧噪がしていた。

 

「本太郎」

「は、はい」

「今の話、他の誰かに言ったか」

「いえ。誓って誰にも。言えば新吾さんの立場が悪くなりますので……それに、私もその場に居たなどと知れれば、その」

「役目を持ちながら岡場所通いをしているなど、あまり褒められたことではないからな。己でも分かっていただろう」

「……面目次第もございません」

 

 源一郎は小さく息を吐いた。

 

「まあ、良い。言わずにおいたのは、それはそれで葛藤があったのだろう」

「はい……」

「だが、悪事とまでは言わんが、見ている者はどこかしらで見ているのだ。何が切っ掛けで表沙汰になるかも分からん。この時期に岡場所通いをしていたと周囲に発覚してみろ。誰もお前を庇えんし、立場も悪くなる」

 

 本太郎の顔から愛想笑いが消え、消沈した様子を見せる。

 

「……申し訳ございません」

「頭を下げて詫びるなら、俺にではなかろう。知らぬ間に危ない橋を渡らされた、お前の家族にだ。息抜きをするなとは言わん。だが、もっと上手くやれ。少なくとも、時と場合は考えろ」

 

 源一郎は立ち上がった。

 

「権助。割り振りは預かる。夜廻りの刻限を早める件は、今日のうちに触れを出せ。組を増やす分は──御頭に相談し、何とかする」

「は。しかし、何とかするとは……」

「いいから任せておけ」

 

 源一郎は障子に手をかけ──しかし、そこで振り返った。

 

「本太郎。身から出た錆ぞ。お前は今日から半月、小火のあった日本橋近辺の夜廻りを増やせ。深川からでは少し遠かろうが、出来るな」

「は、半月」

「出来ぬか」

「……いえ。承知いたしました」

 

 諦めた本太郎が畳に額をつけ、源一郎を見送った。

 

 §

 

 役宅の奥。書院の障子は開け放たれていた。

 

 冬の冷たい風が入るのを厭わぬのが、この男の常――火付盗賊改方頭取、長谷川平蔵は文机の前に姿勢よく座し、積み上げられた書状に目を通していた。その傍らには火鉢が一つだけ置かれている。

 

「──御頭。よろしいでしょうか」

「おう、源一郎か。どうした、入れ」

 

 源一郎が敷居を越えて座すと、平蔵は書状を置いて顔を上げた。

 

「丁度良い。増役の縄張りの件で、佐久間が泣きを入れてきておってな。あちらの与力が、寄場周りは自分たちで見ると言い張るそうだ。馬鹿め、見られるものかよ。あの辺りの顔ぶれも知らんで歩けば、いいように裏をかかれるのがオチだ」

「……六蔵からも似た話を聞いております」

「まあ良い。花を持たせて、後ろから見ておればよかろう――泣き言を言うまではな。それで、何用だ」

 

 源一郎は膝の上で手を揃えた。

 

「は、田沼新吾のことにございます」

 

 平蔵の目が訝しげに細まる。

 

「うん?新吾か。傷はそろそろ塞がっておる頃合いであろう」

「はい、傷は塞がっておるかと。ただ──まだ役目には戻ってくる気配がありません」

 

 源一郎は隠さなかった。本太郎から聞いた話を。先ほど耳にした事情を、順を追ってそのまま述べた。病断の最中の見舞いのこと、本太郎が見るに見かねて品川へ誘ったこと、岡場所通いが今も続いているらしいこと、どうやらそこに馴染みの女がいるらしいこと。そして権助が聞いていたという夜の庭の木刀の音のこと、新吾の語った葛藤について。

 

 平蔵は口を挟まずただ聞いていた。指先で文机を叩く癖が、話の間ずっと続いていた。

 

 源一郎が話し終えると、平蔵は腕を組んだ。

 

「──で。お前はどう見る」

 

 源一郎はしばし考えてから答えた。

 

「浅草の一件で、私はあの二人に鍛錬不足だと申しました」

「お前らしいな」

「純然たる事実です。ただ──新吾は、それで心折れてしまったのかもしれません」

 

 平蔵は鼻から息を抜いた。

 

「お前自身が悪いと言いたいのか」

「そうは思っておりません。ただ、無関係でもないと思っております。これでも奴らの上役でもあります」

「ふぅむ」

 

 平蔵は遠くを見るような目で、自身の顎を撫でた。

 

「源一郎。お前が何を言おうが言うまいが、男とは誰しも、どこかで躓くものよ」

 

 源一郎が平蔵に視線を向ける。

 

「特に若い者はな、己を大きく見積もっておるものだ。それが悪いというのではない。大きく見積もらねば、修羅場になど踏み込めもせん。だが、いつかは必ず、自らの分を突きつけられる日が来る。──俺にもあったわ。まだ若い頃にな」

 

 平蔵は火鉢に手をかざした。赤い豆炭がパチリと爆ぜる。

 

「そこで潰れる者と、そこからまた歩み始める者がおる。分かれ目は大抵、そばに誰がおったかだ。源一郎――お前も幾らか心当たりくらいはあろう」

 

 源一郎は黙って頷いた。源一郎にも経験がある。確かに源一郎の剣術は無双とも呼ぶべきものだ。しかし、そこに挫折がなかったという訳ではない。それに順風満帆な半生を送ってきたという訳でもない。――そんな時にそばにいてくれたのが、父であり、おたかであり、お鈴だった。

 

「──して。処分はどうする。役目を怠り、届けを偽って岡場所通いだ。俺が叱り飛ばして、すぐにでも出仕せいと言うこともできる。それなりの罰を与えることもな」

「……御頭は、それが良いとお考えですか」

「思わんな」

 

 平蔵はあっさりと言った。

 

「阿呆をただ叱って正せるなら、世にしょうもない輩などおらんわ。叱れば形だけは戻るだろうよ。役宅に出仕し、自席で書付を捲って、市中の廻りにも出る。表面上は乗り越えたように見えるかもしれん。だがな──そういう中身の腑抜けてしまった男を御用改めの修羅場に連れて行くのは御免被る」

 

 その厳しい言葉に源一郎はしばし瞑目し、それから目を開いた。

 

「……御頭。人手が足りぬのは承知の上で申し上げます」

 

 源一郎は畳に手をついて頭を下げる。

 

「品川へ、しばし様子を伺って参りたく」

 

 平蔵の眉が上がった。

 

「なんだ、連れ戻しに行くのではないのか」

「はい」

「ほう?」

「御頭の仰る通り、首に縄でもつけて引いて参れば、体は戻りましょう。ですが、それでは戻らぬものもございます。──ですので、まずは様子をこの目で見極めて参ろうかと」

 

 平蔵はしばらく源一郎の目を見ていた。それから、ふ、と口の端を上げた。

 

「様子を見極めに、な。本心では捨て置けんと言いたいのだろう」

「はい」

「まったく。お前という男は、遠回りばかりする」

 

 カラカラと笑い、平蔵は膝を打った。

 

「だが、嫌いではない。良かろう、行ってこい。お前には当分の間、品川の廻りを命ず。当面の人手の不足分は、俺が増役を上手く煽てておいてやろう。ただし──」

 

 ふと、声に厳しさが滲む。

 

「今は冬だ。年の瀬までに、いくつ火が出るか分からん。押し込みも出る。賭場も立つ。人が一人欠けておるということは、その分、誰かが余計に責を背負うということだ。与力のお前が抜けるとなれば尚更よ」

「承知しております」

「歳の暮れまでだ。それまでに使いものになるなら、俺は何も聞かなかったことにする。ならなんだら──その時は、俺が新吾に引導を渡すことになる。心せよ」

 

 源一郎は深く頭を下げた。

 

「有難うございます」

「ふ……礼を言うことか。──あぁ、それとな」

 

 平蔵が思い出したように言った。

 

「品川へ行くのであれば、着替えは持って行けよ」

「は?」

「お前は女遊びもせん堅物だから知らんのだろうがな――白粉の匂いというのは、思ったよりも落ちんものだ。俺は若い頃、奥に三日ばかりまともに口を利いてもらえんかったことがある」

 

 源一郎の動きが止まった。

 

「……肝に銘じておきます」

「ククク。せいぜい励めよぅ」

 

 平蔵はもう行けとばかりにひらひらと振って、次の書状を取り上げた。その顔には心底面白がるような笑みが浮かんでいたのだった。

 

 §

 

 廊下に出ると、乾いた風が一陣通り抜けた。

 

 源一郎は懐から書付を出し、歩きながらもう一度目を通した。廻りの割り当て、夜廻りの刻限、増役との縄張りの分担。どこをどう詰めても余裕はなく、人が足りぬという事実は変わらない。

 

 この忙しい時期に、内輪の問題が起きた。それを春まで後回しにすることも出来るが──それは良くない気がした。

 

 源一郎は書付を畳んで懐に戻した。

 

 起こった問題を見極めるためだけに、貴重な時間を掛ける。現状を鑑みるに非効率だと言う者もいるだろう。現に平蔵は遠回りだと言った。それでも──同じ組の仲間なのだ。困っているのならば、捨て置くことは出来ない。武士としての生き方を誇るのであれば、義理堅くあらねばならない。

 

 詰所の前を通ると、権助が同心たちを集めて夜廻りの触れを伝えているところだった。源一郎に気づいて権助が顔を上げる。源一郎は目だけで頷いた。

 

 式台を降りる際、六蔵とすれ違った。

 

「渡辺様。お出かけで」

「うむ。少し品川へな」

「品川、で」

 

 六蔵の柔和だが鋭い目が、ほんの一瞬だけ源一郎を見た。それ以上は何も訊かず、道を空ける。

 

「お気をつけて。あちらの年の瀬は大層騒がしゅうございますので、何やら騒ぎの予感もいたしますれば」

「……そうだな、気をつけよう」

 

 門を潜ると、乾いた風が源一郎の背を押した。

 

 目指すは江戸の南の玄関口──品川宿である。

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