東海道を南へ下る──。
師走に入って幾日かが経っていた。年の瀬の街道は、想像していたよりもずっと騒がしい。
芝口の橋を渡ったあたりから、せわしない掛取りの姿が目についた。帳面を抱えた手代が小走りに行き交い、その後を追うように丁稚が続く。年の瀬は掛売りの精算どきである。取る側も払う側も、この時期ばかりは神経を逆立たせる。
道端では年の瀬の風物詩──節季候が踊っていた。赤い布で顔を覆い、笹を手にして囃しながら家々を回る門付けの大道芸である。年越しの季節の訪れを感じさせる存在であるが、その内情は切実であり、生活困窮者や被差別民が掛けの支払いを乗り切るための小遣い稼ぎとして知られていた。そんな集団に子どもが数人、後をついて歩き、母親らしき女に叱りつけられている。
新橋を過ぎ、田町の町並みを抜けると、次第に潮の匂いが濃くなった。
海である──。
街道の東側に、松並木の切れ間から江戸湾が広がっていた。冬の海は鉛色に近い──沖には帆を張った船が幾つも浮かび、そのどれもが江戸へ物を運ぶ船であった。
やがて左手に、長い石垣が見えてくる。
高輪の大木戸──江戸市中の南の入り口に設置された境界である。
街道を挟んで両側に築かれた石垣は、大人の背丈をゆうに超えていた。ここを出れば、もう江戸市中とは言えない。
木戸の脇には番所があり、番人が二人、火鉢を挟んで座っていた。人を止める気配はない。夜には木戸を閉ざすが、日のあるうちは通り抜けることができる。
源一郎は木戸を潜った。
振り返ると、多くの人が徒歩で市中へと入り、東海道沿いの町並みが北へ延びている。その屋根の連なりの上には、いくつも煙が立っていた。前世、浮世絵にも残された風景である。
──ここから先は、外か。
木戸を出てすぐの車町では、牛が幾頭も繋がれていた。石や材木を運ぶ牛車の溜まり場である。牛の吐く息が白く、糞の匂いが潮の匂いに混じって強烈な悪臭となっている。源一郎はその場を足早に後にした。
その先は泉岳寺の門前で、更に進めば八ツ山にかかる。八ツ山の高台を下りきったところから、品川宿が始まっている筈だ。
§
その眺めは、源一郎の予想を越えていた。
街道の両側に、旅籠が隙間なく軒を連ねている。二階建てが当たり前で、中には三階を持つ大きな構えの店もあった。どの二階からも欄干が張り出し、客を取っていることを意味する派手な色の布が掛けてある。
人が多い──。
旅装束の者、荷を担いだ者、駕籠かき、馬子。それに混じって、江戸から来たと思しき小旅行の者達が歩いている。年の瀬というのに、いや、年の瀬だからこそなのか、宿場の通りは人で埋まっていた。
源一郎は道の端に寄って、しばらくその流れを眺めた。
品川宿は歩行新宿、北品川、そして目黒川を渡った先の南品川の三宿からなる。街道沿いに南北へ細長く延びており、東は海。旅籠の裏手はすぐ海になっている。
東海道五十三次の最初の宿場──というのがよく知られた顔だが、江戸者にとっての品川宿は少し違う。
──岡場所である。
幕府が公に認めた遊里は新吉原ただ一つである。それ以外はすべて非公認、すなわち岡場所ということになる。しかし東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道の千住宿、中山道の板橋宿のいわゆる四宿は、そのなかでも特別な扱いを受けていた。
旅籠が飯盛女──いわゆる宿場町における遊女を置くことを、幕府が黙認しているのである。
名目は給仕の女中である。旅人の飯の世話をし、床を敷く。それだけの奉公人ということになっている。一軒あたりに置ける人数も御触れで定められていた。
もっとも──その定めが守られていないことは、この通りを歩けば誰にでも分かる。明らかに町にいる女の数が多いのだから。
旅籠の店先には若い女が立っていた。一軒に二人や三人ではない。暖簾の内にも、二階の窓にも、女の影がある。当然、店の中にはもっといるだろう。彼女らは通りかかる男に声をかけ、袖を引き、笑いかける。
まだ日の高い、昼日中にである。
「あら……お兄さん、いい男」
「そこの旦那、寄っておいきなさいな。あたしと遊んでおくれよ」
「悪いな、先に約束がある」
「えー? なら、その約束が済んだらおいでよ。待ってるからさぁ」
「ちょっと、あたしが先に声かけたんだから横取りしないでよ!」
「ハァ? 何言ってんだい。こういうのは早いもん勝ちだろ──」
ヤンヤヤンヤ。口喧嘩する女たちを背に、源一郎は軽く手を上げて断り、歩き続けた。
声のかかり方は想像していたのとは違っていた。役目で岡場所に踏み込んだことは幾度もあるが、あれは役人として十手を手にしていた時分である。向けられる目の色からして違う。
今、源一郎に向けられているのは怯えの籠もっていない、客に向ける目であった。
源一郎自身入った経験はないが、吉原とも勝手が違うのだろう。あちらは初会、裏、馴染みと三度通わねば床には至らぬのが習いであり、身なりも作法も問われると聞く。その上、金も相当にかかるとも。
しかし、岡場所はその一切がない。ふらりと入って、その日のうちに遊ぶことができる。値も吉原の何分の一かで、職人連中が普段着のまま立ち寄れる気安さがあった。
だからこそ、この賑わいなのだろう。
通りを歩きながら、源一郎はつらつらと数を目で追った。視界に映る旅籠の数だけでも百は下るまい。そのそれぞれに女郎がいるとして──幕府の定めた五百はおろか……それ以上の数の女達が。
その全員が──女郎としてこの宿場町に繋がれているのだった。
§
中ほどまで来たところで、源一郎は一軒の茶屋に入った。
街道に面した葦簀張りの小さな仮設の店で、表に床几が三つ並んでいるだけである。奥の竈で湯を沸かしているのは六十過ぎの老婆であった。
「茶を頼む」
「へえ。団子もありますよ。どうしなさる」
「もらおうか」
源一郎は床几に腰を下ろした。ここからは通りがよく見える。
運ばれてきた茶を啜り、それから足を組んで帯の煙草入れを抜いた。煙管に刻みを詰めていると、何も言わずとも婆が心得たように火種を持ってくる。
「おう、ありがとよ」
源一郎は火を移し、ゆっくりと吸った。
久兵衛の見立て通りである。普段よりも長い煙管は先の雁首が重く、支え方も咥え方も変わった。だが羅宇が長い分吸い口の当たりは幾分かまろやかだ。刻みも良いものが入っている。
「旦那さん、良い道具をお持ちだね」
「叔父上からの貰い物だがな」
「それでも、良いものは良いものさ。旦那さんは江戸から?」
「うむ。神田の駿河台からだ」
「あら……わざわざ、こんな遠くまで」
「暇だけは腐るほどあるからな」
婆が声を上げて笑った。
「良いご身分ですこと」
「良くはない。屋敷に居てもすることがなく、居場所もないのだからな」
言ってから源一郎は、内心自分の言葉に少し驚いた。久兵衛に授けられた筋書き通りではあるが、口から出た時の言葉の収まりが良すぎたせいだ。
現に老婆は納得したように頷いている。これまで、似たような事情の男を何人と見てきたということなのか。
「兄上がいなさるのだね」
「ほう、婆さん。よく分かったな」
「分かりますとも。この宿場に来る御武家さまの幾らかは、旦那さんのような人だもの」
婆は団子を盛った皿を置きながら言った。
「昼間っから遊びに来る人はね、大抵そう。夜に来る人は勤め帰りが多いのだけどね」
源一郎は煙を吐いた。
それから、いくつか他愛のないことを尋ねた。どのあたりの旅籠が安いか。飯の旨い店はどこか。夜はどのくらいまで賑わうのか。
老婆はよく喋った。長年に渡り宿場を見てきた老婆が知らぬことなどない。
「年の瀬は、客が減らんのか」
「減るもんかね。むしろ増えるよ」
婆が笑った。歯が半分ほど欠けている。
「みんな懐が動く時期でしょう。煤払いが済めば、武士も町人も男連中は貰ったばかりの手当を持って、ぱあっと使いに来るんだ。掛取りに追われて逃げてくる人もいるしね。ここで一晩泊まって、翌朝しれっと帰るの。家に居たら怖い取り立てが来るから」
「なるほど」
「女の方も、年の瀬は稼ぎどきだから必死さね。この宿場町じゃあ花代を回収できなきゃ、自分の借金がそのまま増えちまうからね。年の瀬で花代の足りない子は悲惨だよ──ああ、いや」
老婆がそこで少し口ごもった。
「遊びに来てる客人に余計なことを言ったね。忘れとくれ」
源一郎は聞き流したふりをして、茶を飲んだ。
それから、ついでとばかりに何気ない調子で問う。これは火盗改の与力としての職業病ともいうべきものだったが──。
「ときに聞くがな──この宿場は、どういった御仁が差配しておるのだ?」
「うん? 差配、ってぇと」
「いや。俺のような素性の知れぬ男達が、ふらりふらりと来ては遊んでゆく。揉め事も多く起きよう。喧嘩や、金の貸し借りや、問題ごと。そういうのを収める者がおるのではないかと思ってな」
「ああ、そりゃあ牛頭の親分さんだね」
婆はあっさりと答えた。拍子抜けするほどの軽さである。
「ほう、牛頭の」
「牛頭の辰五郎さんって言ってね。この辺りの祭りの差配から、人足や船の手配まで、みんなあの人のところが仕切ってなさる。酒に酔った客同士の喧嘩の仲裁もね」
「宿場町の顔役、という訳だな」
「そう、顔役ですよ。──でもね、旦那。ああいう人は怖くないの。筋さえ通しときゃ、怖いことなんてなんもありゃしない」
婆は源一郎の湯呑みに茶を継ぎ足す。
「うちだって場所代は納めてますけどね。あれは、まあ、世の道理のうちさ。何か困りごとがあったときに間に入ってくれるんだから」
源一郎は煙管を置いた。名を出すのに何の躊躇もない。それはつまり、その名を出しても困ることがないということだ。真っ当に頼られている親分が宿場町の差配に関わっているということを意味する。
「──では、その辰五郎という親分が、この宿場町を仕切っておるということなのだな」
源一郎はそう続けた。婆の手が止まる。ほんの一拍のことである。
「……ん、そうさね」
「ん。どうした。急に口が重くなるではないか」
返事がなかった。老婆は盆を抱えたまま黙り込む。
「婆さん?」
「──旦那さん」
声の調子が変わっていた。
「そういうのは、あんまり深く聞かない方がいいよ。ここにはここの流儀ってもんがあるんだから」
「……ほう」
「知らないで楽しく遊んで帰るのが、一番いいことなんですよ」
老婆は口を閉ざし──しかし、気を取り直すように笑みを浮かべて見せた。
「さ──そんなことよりも、旦那さんにいい娘でも紹介してあげようかね。吾妻屋の所のお喜多なんかは器量のよい娘だし、花月亭のお勝は愛想のよい娘さ。他にも──」
源一郎は老婆の話を聞きつつも、頭の片隅に重要な情報を書き込んだ──どうやら、この品川宿には余所者には言いづらい何か事情があるらしかった。