男たちの姿が見えなくなると、通りの空気がホッとゆるんだ。止まっていた人の流れが動き出し、誰もが何もなかったような顔をして散ってゆく。
源一郎は蹴飛ばされた床几を直してやった。
「あ、あ……旦那、とんでもねぇ、あっしがやりますんで……」
煮売り屋の親父が慌てて駆け寄ってくる。だが、その顔は青ざめていた。声にも力がない。
「余計なことをしたか」
源一郎が問うと、親父は返事に詰まった。
「い、いえ。そんな……」
「看板も叩き割られておいた方が、奴らの溜飲を下げるためには後々よかったかもしれんしな」
「それは……」
親父は鍋を抱え直し、こぼれた中身を見て小さく息を吐いた。親父は顔を上げずに言った。
「──正直に申しますとね。明後日までにあっしが『あの人らの分』の銭を用立てれば、それで済んだ話でございました」
「……」
「いえ、旦那を責めてるんじゃございませんよ。ただ……」
親父は言葉を探している。まるで、外の人間に中途半端に手を出されるのは逆に迷惑だと言いたいのを呑み込むように。
「──まぁ……あの人らにも色々あるんでしょうがね。ほんと、どうしてこうなっちまったのか……昔はもっと商売もやりやすかった筈なんですが。それが寂しいやら悲しいやらで……」
そう言って乾いた笑みを浮かべる親父。源一郎は屋台の縁に手を置いた。
「さっきの奴らも昔とは変わったってのか」
「え? えぇ……この数年は特に。急に取り立てが荒々しくなっちまって……」
「それはまたなぜ」
「……さて、外からのお客人には分からない、この宿場町の事情が色々とあるのでございますよ」
親父の口が急に渋くなる。先ほど茶屋の婆が見せたのと同じであった。源一郎の視線が鋭くなる。
「──親父、言っていたな。明後日までに場所代を用立てれば済む話と。あの破落戸も言っていたが、この屋台が場所代を払えないほど人が入っていないって訳でもないんだろう」
「……」
「では、何故、今日の集金までに用意出来なかったのか。それに親父は先程、『あの人らの分』と零していた」
茶屋の老婆の歯切れの悪い物言いを思い出す。辰五郎の名は出すのに、宿場を仕切っているかと問うと言葉を濁した。
「様子を見るに──この宿場町には他にも元締めがいるのではないか。牛頭の辰五郎がもう一方と縄張り争いをしており、ここの場所代は先にそちらに持っていかれた──所謂、二重取りとして」
だから、場所代が用意できていなかったのだろう。違うか、と源一郎が言うと、親父の肩がびくりと動いた。顔に浮かんでいるのは苦い表情である。その親父が周囲を気にしながら声を潜めて言う。
「旦那……」
「なんだ」
「めったなこと言っちゃいけやせんよ。どこで誰が聞いてるのかも分からねえんですから……力のねぇ、この宿場の住人にゃあ、ただ黙って成り行きを見守るしかねぇんです」
「……そうか。突っ込んだことを聞いちまって悪かったな」
「いえ、助けていただいたことには、感謝いたしてますんで。──さ、そんな暗ェ話なんかより煮しめでも召し上がっていきやせんか。別で避けておいた分がありますんで。酒もお出しすることが出来ますよ」
源一郎は少し考えてから、床几に腰を下ろした。
「せっかくだしな、煮しめ一杯と酒も一つ貰うとしようか」
§
日が落ちた──。
酒を飲み、煮しめをつまみ、親父と当たり障りのない話をいくつかして源一郎は煮売り屋台を後にした。
宿場の景色はいつの間にやら、すっかり変わっていた。
軒下の提灯にすべて火が入っている。赤い光が街道の両側に連なり、その下を人影が行き交っている。三味の音がそこかしこから聞こえる。男の楽しげな声、男達を手玉に取る女の声、街道を行き交う人の下駄の音──。どこもかしこも、浮かれるような音で満ちている。昼の賑わいとは質の違う、熱を帯びる混沌とした騒がしさであった。
下から見える店屋の二階の窓は、どこも明るい。
源一郎は通りの真ん中に立って、その窓の灯を眺めてみた。窓の向こう、その一つ一つの部屋に男女がいるのだろう。そんな光景を眺めながら源一郎は思考を巡らせた。
──この宿場町には二人の顔役がいる。
一人は名を口にできる親分。もう一人は、誰も名を口にできない元締め。
そして、詳細こそ不明なままであるが、二人の顔役はある種の緊張状態にあるらしい。その緊張状態が宿場町全体を巻き込んでいる。
──面倒なことになってきたな。
源一郎は腕を組んで、羽織の袖に手を入れた。
目的はこの品川宿にいると思われる新吾を見つけ、様子を伺うこと──それだけのはずであった。そして出来ればこの多忙な時期に役目を怠っている同心の真意を確かめ連れて帰る。御頭に言われた期限である歳の暮れまでもそう余裕がある訳ではない。
だが……この宿場に掛かる闇は思ったよりも深いように思えた。
源一郎は北品川の旅籠の並びを見上げた。思い出す──確か、本太郎が零していたのは『汐見屋』という屋号だった。そこに新吾の入れ込んでいる女がいる。
つらつらと、源一郎が思考を巡らせていた──その時であった。
背後から視線を感じ……源一郎は振り返った。
三軒先の旅籠──。その二階の欄干に、女が一人気怠そうにもたれている。他の女たちのように表で客を呼んではいない。ただ、こちらをボウッと見下ろしていた。
距離があり、顔はよく見えない。だが、源一郎には分かることがあった。
──あの女は……。
女は源一郎の視線に気づくと、ゆっくりと身を起こした。それから艶やかに口の端をわずかに上げる。視線が重なったことに驚いた様子はなく、むしろ嬉しげな様子で。
女は欄干から離れ、誘うような手招きを残して障子窓の内へ消えていった。
──誘い込んでいるのか。
源一郎はしばらくその窓を見上げていた。
冬の風が街道を南から吹き抜けていく。そろそろ今晩の宿を探さねばならなかった。