源一郎はその旅籠の暖簾を潜ることにした。
「へぇ、いらっしゃいまし」
土間で草履を脱いでいると、背を丸めた手代らしき男が揉み手で寄ってくる。四十ほどの鼠のような男であった。
「本日はお泊まりで?」
「あぁ」
「へえ、へえ。それではこちらへ。お一人様ごあんなーい! 酒食は後ほど部屋にお持ち致しますんでねぇ」
帳面に名を記入してから通されたのは二階の座敷であった。中は意外と広く、八畳一間に行灯が一つ。壁は薄く、隣の部屋の話し声が筒抜けである。廊下を女が歩く足音、階下から上がってくる三味の音、どこかの部屋の笑い声。
源一郎は膝を崩して座った。
「世話女はどういたしましょう。ご贔屓はございますか?」
「ここに来るのは初めてだ」
「そうでしたか。では、こちらでお見繕いをしても?」
源一郎はチラリと手代を見た。
「いや……先ほど、通りからこの二階を見上げた時に、欄干にもたれた女を見たのだが」
「──ああ」
手代がニマリと貼り付けたような笑みを浮かべる。
「お縫でございますね。それは何ともお目が高い」
「お縫……そう呼ばれているのか」
「へえ。当館の売れっ子でございますよ。何より見目が良い。ただ……少しばかり揚代は張りますがね?」
「構わん」
「それは、それは──。いや、いらぬことを申しました。ではすぐにお縫を呼んで参りましょう」
手代は揉み手で殊更に謙り、慇懃無礼に下がっていった。
源一郎は行灯の火をしばし、静かに眺めていた。やがて廊下に足音がした。障子が開く。
「──お待たせいたしました」
そこに女が控えていた。その傍には持参したでろう膳と酒。
二十歳過ぎに見える。手代の言葉に嘘はなかった。目鼻立ちの整った、人目を引く美しい女である。髷はきちんと結われ、着物も柄こそ地味だが仕立ての良いもの。むしろ、宿場町の女郎にしては容姿が整いすぎているほどにも感じられる。
そして──外面は美しいのに、どこか陰を感じさせた。その容姿ならば宿場町一と評判になり、身請け話も引っ切りなし、引く手あまたであろう。しかし……行灯の灯りの傍にいるのに、顔の半分がいつまでも翳っているように見えた。
女は障子を後ろ手に閉め、源一郎の前に座って三つ指をついた。
「お縫と申します」
「そうさな……俺のことは源太とでも読んでくれ」
「はい、源太さま。一晩、傍でお世話させていただきます。どうぞ、時の許す限り可愛がってくださいまし」
お縫が顔を上げる。ふと……源太──源一郎はお縫の首を見た。
首の長い女は美しい。しかし、違和感がある。確かに常人よりは長いが、奇妙というほどでもない。ただ、襟から出た首の付け根が、ぬるりと伸びている印象がある。
源一郎は視線を戻した。
「源太さまはお武家様の御方で?」
「見ての通りだ。家名は勘弁してくれよ。まぁ、どのような身の上かは分かっているのだろうが」
「ふふ。それもそうですね、失礼いたしました」
控え目に笑ったお縫は源一郎の傍に寄り、酌の支度をした。
「まずは一献」
「あぁ。お縫、其方も飲むといい。俺一人だけで飲んでいてもつまらないからな」
「あら。それでは、お言葉に甘えて」
──しばらくは他愛のない話が続いた。この宿場町は初めてか。かき入れ時の宿場の空気はどうか。世間の流行、噂に客の話。
お縫の受け答えは滑らかであった。手代に売れっ子と言われるだけのことはある。話に間ができぬよう先を継ぎ、笑みを浮かべて言葉を拾い、煙草盆を勧めては酌を絶やさない。
源一郎はそれに答えながら、部屋の中を観察していた。
──行灯の油皿。畳の擦れ方。壁に立てかけられた枕屏風。障子窓があり、外からは宿場町の喧噪が聞こえてくる。全体的に寂れてはいるが普通の座敷である。
やがて……お縫が空になった銚子を置き、しな垂れかかった。
「源太さま──」
「うむ」
「あたしの誘いに応えてくれて、ありがとう存じます」
誘い、というのは二階から手招きして消えたことであろう。
「どうにも気になってしまってな」
「お優しいのね。あたしのことを見上げていた、あなた。通りで目が合ったときに直感したの。女の勘と馬鹿にするかもしれませんが……この人は違う。この人ならあたしを受け入れてくれるんじゃないかって」
「受け入れる?」
「えぇ──みんな、本当のあたしを知ると逃げていってしまうから」
吐息のかかるほどの距離。白粉の匂い──耳元で囁くと同時に、部屋の空気が少しだけ変わっていた。
「……其方は美しい。それなのに逃げると」
「えぇ……一緒になるって口約束したのに、みんな、あたしを置いて逃げていった。なんて酷い男たち。でも……源太さま、あなたは違いますでしょう──?」
源一郎もまた静かに盃を置く。
「そうさな。俺は他とは違うだろうよ」
「うれしい──。お縫を可愛がってくださいまし。この体に、あなたが他の男とは違うってことを教えてちょうだいな」
源一郎の手にお縫の手が触れた。しな垂れかかるお縫の気配に妖しさが混じり、心なしか座敷の温度が下がったように感じられる。行灯の火も少し弱くなったように思えた。
「でも──」
お縫の首が、すうっと伸びる。
しな垂れていた首が肩から離れ、行灯の灯りをすり抜けるようにして源一郎の顔の傍まで近づいてくる。白い喉が蛇のようにくねり、口の端は笑みの形のまま、目だけが妖しく細められていた。
「あたしを裏切ったら、祟るよ」
耳元で囁く声には、先ほどまでの艶とは違う響きが混じっている。人を脅し、愉しむような響きであった。
「さぁ、これでも美しいって言えるのかい──?」
人の前に現れた怪異──本来であるならば、ここで客は逃げ帰るか気絶する、というところなのであろう。だが──。
「ふ──始めから気づいていたとも」
源一郎は臆することもなく言った。
二階の欄干にもたれていた女を見た時の勘──見た目は普通の人間であったが、源一郎の直感は違うと言っていた。妖怪の類──姿が人に近い者達は人に紛れて暮らしていることがある。この岡場所にいても何ら不思議なことではないと。
「人に上手く化けてはいたが、首の付け根が少し伸びていたぞ。それに先ほどからこの旅篭は妙な気配がするのでな。ここはまるで、あやかし者を泊める旅篭のようだ。違うか、なぁ──ろくろ首のお縫」
お縫の表情が固まる。ここで初めて困惑するような表情を浮かべたのだった。