お縫は困惑するような表情を浮かべた。
体だけはしな垂れかかった姿勢のまま固まり、脅かすつもりで伸ばした首がフラフラと所在なげに浮いている。
「……え」
「どうした」
「え、い、いや。だって、ほら、あんた……」
困惑するお縫の表情は、もう妖しくもなければ艶やかでもない。オマケに蠱惑的だった口調は、姐さん言葉と言うべきか……下町のさばけた口調に変わっていた。
「あたしが怖くないのかい」
「別に怖がる理由が俺にはないのだが」
「い、いやいや。首だよ、首。伸びるんだよ、これっ! どうだい、怖いだろうっ?!」
「そうだな。こわい、こわい」
「生暖かい目で見るんじゃないよ!」
それまで、しな垂れ掛かっていたお縫が我に返って源一郎の肩を叩く。畳に手をついて身を起こすと、少し距離を空けた。
「……しかし、これは困ったことになったねぇ。あたしのことだけなら、まだよかったけどさ。この宿のことまで言い当てられるなんて……」
お縫の声が低くなると、行灯の火も細くなった。座敷の隅の闇は濃さを増していたが、源一郎は座ったまま動かない。刀は床の間に置いたままである。
「──あんた、いったい何者だい」
お縫の言葉に警戒の色が滲む。
「侍だってのは分かる。本当の姿を偽ってて、実は部屋住みなんかじゃないってのもね。でも……それだけじゃない」
お縫の首がまた少しだけ伸びた。今度は脅すためではない。近づいて源一郎の周囲を回り、正体を確かめようとしているのだった。
「あたしを見つけた人間は、これまでにも何人かいたよ。神主も、山伏も、名のある寺の坊主だって。──でも、みんな怯えてた。震えながら経を読んで、最後には逃げていくのさ」
再び顔が近づいてくる。白粉の甘い匂いが鼻腔を擽った。
「でも……あんたは震えてもいない。刀にも手をかけない。それどころか、あたしの首の付け根がどうのって言うばかりで、怖がる気すらない」
お縫の目が細くなった。
「──あんた、もしかして……」
声が、さらに低くなる。
「いつだったか聞いたことがあるよ。江戸の町に住む、鬼切りの一族に生まれた鬼子の話」
源一郎は目を逸らさなかった。
「子どもの頃から人ならぬ者が見えて、退魔の一族の癖に人よりも妖を友とした鬼子がいるって。名前は確か……う、ん……思い出せない──もしかして、あんた。それじゃないかい」
源一郎はしばし黙っていた。それから、笑みを浮かべて静かに言った。
「よく分かったな。本当の名は源一郎という」
「馬鹿にすんじゃないよ。あたしの目を騙そうなんざ十年早いんだよ」
「それは御見それした。鬼切りの一族を知っているのなら、家名は分かるだろう。子どもの頃には本家親類縁者の口さがない者達に鬼子と呼ばれたことも、確かにあったな」
源一郎は苦笑し言った。鬼切りの末裔一族をして、その中でも一等異質な源一郎は鬼子と呼ばれることがあった。
「念のために言っておくが、鬼切りと言われる一族ではあるが別に普段から鬼を狩って暮らしているわけではない。俺は江戸で先手組の役目についている、ただの勤め人だ」
「……」
伸びていた首が、ゆっくりと縮んでいく。元の位置に戻ったとき、その顔にはまだ困惑があった。
「……じゃあ、あたしらを切りに来たって訳じゃないんだね?」
「何で俺がそのようなことをせねばならんのだ」
「でも、鬼切りってのは……」
「確かに、人でないモノを切ることもある」
源一郎はあっさりと言った。
「だが、人であろうと、人でなかろうと、俺の刀の向く先は変わらん。悪意を持って害を成す者を止める、それだけのことだ。──お縫、お前は人を驚かせることはあっても、食ったりはせんのだろう?」
「勘弁しとくれよ……何であたしが人なんか食わなきゃならないのさ」
「なら、何も言うことはない」
源一郎はそう言って猪口を口にする。対するお縫は袖で口許を隠すようにして、ふう、と長い息を吐いた。
「……調子が狂うねぇ」
「そう言うな。お縫、お前の言葉が当たって良かったじゃないか。俺は、人とは違うってな」
「変な男だね……あんた、ほんとに侍かい」
源一郎は少し笑い、お縫はしばらく源一郎を見ていた。やがて諦めたように肩を落とす。
「……厄介な人を店に上げちまったよ」
「すまんな」
「謝られると、もっと調子が狂うんだ。やめとくれな」
§
「──で、ここがあやかし者を泊める旅篭だって気づいたのは、いつからなんだい」
「暖簾をくぐった時からだ」
源一郎は言った。
「妙なのだ、この店は。通りに面しているのに、誰も暖簾を見ていなかった。俺が入る前も、入った後も、通りを歩く者は皆この店の前を素通りしてゆくばかり。まるでこの旅籠が見えていないかのようにな」
「……」
源一郎はこの『現象』に心当たりがあった。悪意のある者は辿り着けない──まるで本所の屋敷に張られた結界に似ていると思ったのだ。
「それに、あの手代」
源一郎が気になったのは、暖簾を潜った後に対応した男のこと。
「揉み手をしながら寄ってきたが、切った訳でもないのに両手の指が四本しかなかったぞ。足音も妙に小さい。──まるで鼠が人の型を取ったような男だった」
「よく見てるものだね」
「人をよく見なければならない役目を仰せつかっているのでな」
お縫は注意深く源一郎を見つめていた。その目からは、廓の女の柔らかさが完全に消えている。
階下で宴会でも始まったのか三味の音が聞こえ始める──。障子に映る大きな影──廊下を誰かが歩いていった。足音はしない。ただ、静かに通り過ぎてゆく。
「──で。この宿はいったい何なのだ」
源一郎が問うた。
お縫は諦めたらしい。銚子を手に取って、自分の猪口に注ぐ。そこに遠慮などという言葉はなかった。
「見ての通りだよ」
「見ての通りが分からんから聞いている」
「鬼切りの癖に、こういう場所は初めてかい? 東海道を行き来するのはね……人だけじゃないのさ」
そのまま、お縫は酒器を呷り中身を空けた。
「上方から江戸へ出てくる者。江戸から西へ上る者。──そういうのが、この道を通る。人の宿場に人の旅籠があるように、あたしらにはあたしらの旅籠があるってだけの話さ」
「この店は人には見えないようになっているのか」
「見えてるはずだよ」
お縫は障子の方にチラリと視線を向けた。障子には新しい客が入ったのか、手代と客の話し声、それから数体の通り過ぎる影が映っていた。
「暖簾も出てる。行灯も点いてる。目には映ってるのさ。ただね、人はこの旅籠に目が留まらない。見ても何の興味も関心も抱かない。だからこの旅籠は宿場町の真ん中にいられる」
「……なるほど」
「たまに、まぐれで入ってくる酔っ払いはいるけどね。その時は脅かして逃がすか、眠らせてどこかに捨ててくる。朝になると、狐に化かされたって勘違いするって寸法さ」
お縫は銚子を置いた。そして、ニヤリとして言う。
「──それに、うちに泊まるのは妖ばかりでもないよ」
源一郎が顔を上げた。
「ほう。ここには妖でないものが泊まるのか」
「泊まるさ。東海道を通る神様ってのは、けっこういるんだよ。国元の社を出て、どこかの祀りに呼ばれていく神様。神無月なんかは、西の方で話し合いもあるみたいだしね──ああいう方々は、当然人の宿には泊まれないから」
「……」
「この旅籠の二階の奥の座敷はね、そういう方のために空けてあるんだ。塗籠って言ってね。四方を漆喰で塗り固めた部屋があるんだけど、戸を閉めきったままにして、誰も立ち入らない。膳も廊下に置いて下がるのさ」
お縫は少し肩をすくめた。
「泊まってる神様は皆、正体を隠すんだ。だから、あたしらは誰が泊っているかなんて知らない。詮索しようともしない。それがこの旅籠の決まりなのさ」
アンタも詮索するんじゃないよ、という言葉に源一郎はしばらく天井を見上げていた。
この薄い板一枚の向こうに、神と呼ばれる存在がいるかもしれない。
「……厄介な宿に上がったな」
「そりゃこっちの台詞だよ、まったく……」