──既に夜四つを過ぎた頃であった。
廊下を歩けば人ならぬモノたちの旅篭の名に恥じず、宴を楽しむ妖たちの声が聞こえていた。
「どこへ行くのだ?」
「まぁいいから、ついといでな」
お縫に連れられて、源一郎は宿の裏手へ出た。人気のない台所の勝手口から狭い路地を抜けると、潮の匂いが急に強くなる。
夜の品川は二つの顔を持っている。街道に面した表は提灯の赤い灯に包まれ、夜四つを過ぎようと人の声が絶えない。だが裏手へ回れば、そこには闇夜の黒々とした海と潮の引いた干潟が広がるばかりであった。
旅籠の裏から細い道を西へ辿ってゆくと、すぐに町並みが途切れた。
海沿いの暗がりに、小さな鳥居が立っている。
源一郎は鳥居の前で少し、足を止めた。扁額も注連縄もない、石を積んだだけの鳥居である。その奥には大き目の碑塔が一つ。周りを囲む木立は冬枯れていたが地面に落ち葉はない──しっかりと掃除している者がいるのだろう。
「ここだよ」
お縫は鳥居を潜った。
「ここは何の社だ」
「さあ……東海道の最初の宿場町だからね。道中安全を祈る道祖神か、それとも庚申塔か。鳥居はあるけど、彫られてるのは青面金剛のように見えるしね。よくわからないよ」
庚申塔──人間の体内には『三尸の虫』が住んでおり、宿主が寝静まった隙に体から抜け出し、天帝に密告して寿命を縮めるという民間信仰。密告を防ぐために六十日ごとに巡る庚申の日の夜には皆で集まって、虫が出てこないように徹夜した。これを『庚申待ち』と言い、庚申塔は庚申待ちを三年続けた際に建てるものであった。
「でもまあ、碑の像の正体が猿田彦大神でも青面金剛でも、どっちでもいいじゃないか。祈りなんてのは、そんなものなんだからね」
そんなことを話していると、碑の石段に二つの影が座っているのが見えた。
「あれ、お縫じゃないの。今日は店に出るんじゃなかったの?」
片方の影が言った。
声は若い娘のものである。だが、月光により露となったその姿を見た源一郎は、しばし目を止めた。
髪が異様に多いのだ。洗い髪のように長い髪は結い上げられておらず、頭から地面に触れるほどに垂れ下がっている。量と長さが尋常ではなかった。顔がその髪に半ば埋もれて、目だけが覗いている。
──毛女郎である。
その隣に座っているのは、一見してごく普通の女に見えた。歳は二十ばかり。整った顔立ちで、着物の着こなしも悪くない。ただ、奇怪なことに頭の上に耳が二つ、ぴんと立っていた。猫のように闇の中で目が光り、その耳が微かに動いている。
──こちらは、化猫遊女か。
「男を連れてくるなんて珍しいこともあるもんだね。明日は槍でも降ってくるかな? アレ、でも……」
化猫遊女が源一郎を見て、鼻をすぴすぴと鳴らしながら言う。
「茶化すんじゃないよ」
お縫もまた二人の座る石段に腰を据えた。
「うちに誘い込んだ人の客さ。ちと訳ありでね、話を聞いてやっておくれよ」
「だよね、やっぱり人だ……」
「何で人を連れて歩いてるのさ!?」
二人の視線が同時に源一郎に向いた。しかし、源一郎は意にも返さず軽く頭を下げる。
「夜分に邪魔をする」
「……」
毛女郎が髪の間から目を丸くしていた。
「この人、あたしらのこと見えてるんだよね? お辞儀をされちまったよ」
「変な人だろ。普通、人でないモノを見たら逃げるってのにね」
お縫が笑う。自分が驚いたことを二人も驚いて、気分が良くなったらしい。
「髪の多いのがお貞。猫耳のがお寅だよ」
「あらあら……」
「お縫が人を連れて歩くなんてよっぽどだよ。いったい何したのさ、人の旦那~」
お寅の頭の耳がくるりと源一郎の方へ向き、パタパタと動いていた。
§
源一郎は三方からは少し離れ、木立の根本に腰を下ろした。
お縫がかいつまんで事情を話す。源一郎が先手組の役目についていること。失踪状態の部下を探していること。部下が汐見屋に出入りしているらしいこと。
「──汐見屋ねぇ」
お貞が首を傾げた。
「歩行新宿にある大店だろ。あたしら北品川だからね。あっちのことはよく分からないよ」
「お寅はどうだい」
お縫がお寅を見た。お寅は耳を動かしながら、少し考えるような間を置いた。
「うーん……あたしもたまに散歩するくらいで、歩行新宿まではあんまり行かないけどさ。──ちょっと待って」
お寅は口を開け、くるるなーん、と舌を巻くような音を震わせる猫の鳴き声を数度出した。夜闇に響く、猫を呼び集める声──。
すると、闇の中から猫が一匹、また一匹と音もなく現れる。三毛、黒、白、赤──木々の脇をすり抜け、お寅の足元に集う。内、大きな黒猫一匹が膝の上に飛び乗った。
「ナァーン」
お寅がその猫の耳元で何か囁く。黒猫は目を細めて一声鳴くと、仲間を引き連れてまた闇の中へ消えていった。
「何をしたんだ?」
「ちょっと向こうを塒にする猫に話を聞きに行かせたんだよ」
お寅は猫がする毛繕いの仕草のように、手で頭を掻いた。
「この宿場にいる猫は大抵あたしの顔を知ってるし、旅籠の裏では女たちから飯をもらってる連中がいるからね。歩行新宿、汐見屋のあたりにもいるはずだよ」
「猫に聞くのか」
「猫ってのはね、旦那」
お寅は得意そうに語った。
「意外と人のこと見てるんだよ。猫が集まってるのを見たら、それは噂し合ってるのさ。どこそこの旅篭屋の油は美味い、人にネズミを捕れって言われたけど無視してやった、あそこの店主は魚の骨すら寄越さないケチだ、なんて」
前世で聞いたことがあった。飼い猫が帰ってこず行方不明になったら、近所の野良猫に連れて来て欲しいと頼むといい、という俗信。猫には猫の情報網があるということの例え話だ。
「……なるほど。だが、見ず知らずの俺に、何故そこまで」
「いやぁ、お縫の連れだし。それに旦那はさ、何でか知らないけど猫神さまの匂いと……こわーい狐の匂いがするし。恩を売っといても悪くはないかなって。あ、でも、少し時間がかかるよ。歩行新宿まで走らせるからね」
「猫神さまか……」
ひょんなところで縁を感じさせられる。お寅の言う猫神さまとはお絹のアカのことに他ならないだろう。こんなところで手助けの縁が役立つとは、思いも寄らないことだった。