「いなくなる──?」
「年季が明けた女がさ。身請けされたって話になって、それっきり影も形もなくなる。──それ自体の話は、おかしくないんだ。年季が明けりゃ、こんな苦界さっさと出て行くに限るんだから」
お縫は夜闇の奥を見透かすような遠い目をしていた。
「でもね。妙な話なんだよ」
「何が妙なのだ?」
「いなくなった女は国から持ってきた守り袋すら置いていくんだって」
源一郎は眉を寄せた。
「守り袋」
「女郎ってのはね、着物も簪も、廓で使う物は大抵が店の持ち物さ。自分の物なんてほとんどない。──でも、守り袋だけは別」
お縫は言った。客から貰った物は女の物になるが、高価な品は借金の返済に充てられたり、売って足抜けの資金にされることを警戒し、理由を付けて店が没収するのだと。
「生まれ故郷との唯一の縁さ。お守りだとか、産土の社の札だとか、誰かの髪だとか。小さな袋に入れて、襦袢の内側に縫い付けてる者もいる。どんなに他の物を取り上げられても、あれだけは肌身離さず持ってるもんさ」
「それを置いていくと?」
「……そうさ。身請けされて出ていったという女の部屋に、守り袋が残ってることがある。他にも数少ない私物もね──おかしいだろう?」
源一郎は何も言わなかった。お縫の話す噂の意味を考えていたのだ。
「それにね」
黙る源一郎に、お縫が付け加えた。
「男に何も言わずにいなくなるんだよ」
「男?」
「馴染みの客さ。年季が明けたら一緒になろうって約束してる女は、そこそこいるんだ。叶うかどうかは別としてね。──でも、いなくなった女はみんな、その男に一言もなく消える」
その時の源一郎は海蔵寺の僧の言葉を思い出していた。
──一度情を移してしまった男は、その分だけ辛い思いをすることになりますから。
「捨てられたと思うんだろうねぇ」
静かに話を聞いていたお寅が言った。
「男の方はさ。女が金持ちの旦那に身請けされて、自分は捨てられたんだって。それで、恨んでしまう。──そういうのを、あたしは何度も見てきたよ」
「それは北品川でもあるのか」
「たまにね。でも──」
お寅は首を振った。
「だいたいは歩行新宿の話さ。あっちの店は特に多い。北品川と南品川では、そういう話はあんまり聞かない」
源一郎は今度こそ黙った。女が消えるのは、勘蔵の庭場の中でのことである。
§
猫が戻ってきた。
一匹ではなかった。大きな黒猫の後ろから、三毛の猫と、片耳の欠けた白の猫がついてくる。三匹がお寅の足元に座り、次々に鳴いた。
お寅は耳を傾けていた。時折、自分も小さく猫のように鳴き返す。
源一郎には猫の言葉は分からない。ただ、お寅の耳が忙しく動いているのが見えた。
やがて、そのお寅が顔を上げた。
「──お目当ての人が今日も来てるってさ」
「確かか」
「確かだよ。汐見屋に通う若い男で、肩のあたりを庇うような歩き方をするんだって」
左の肩──。源一郎は頷いた。
「どのくらいの頻度で来ているのだ?」
「三日にいっぺんくらい。でも近頃はもっと多い。二日続けて来ることもあるって」
「相手の女は」
「若い女郎だよ。お駒って呼ばれてるらしい」
若い女郎──本太郎の言っていたこととも一致する。
お寅がそのまま続けた。
「それでね、もう一つ面白いことが分かったよ」
「面白いこととは?」
「そのお侍、お駒のことを、お駒って呼ばないんだって。本名で、若菜って呼ぶらしい」
源一郎は眉根を寄せた。それだけ入れ込んでいるということなのか、弦一郎には判断がつかない。あまり、女郎は本身を晒さないとは聞くが……
「本名で?」
「源氏名ってのはね、店が付けるもんなんだ。本人の好き嫌いは関わりない。お駒だの、お小夜だの、そういうのを店が用意しておいて、新しい子が入ったら空いてるのを充てがう。前にその名を使ってた子が出ていけば、次の子が同じ名になる」
「名前を使い回すと」
「馴染みの客が呼びやすいし、覚える手間も省けるからね」
今度はお貞が引き継いで続けた。
「だからさ。廓で女を本名で呼ぶ客ってのは、二通りしかいないんだよ。女の口車に乗って本気になっちまった馬鹿か、はたまた本気の心中立をしたのか」
「どちらだ」
「馬鹿の方でしょ」
お寅が鼻を鳴らした。その回答には淀みがない。よほどの自信でもあるのか。
「猫が見てても、のぼせ上がってるって思うくらいだからね。間違いないよ」
「──それに」
お貞がまた付け加えた。
「その若菜って名が本物かどうかも分かんないけどね」
「それを言っちゃお終いだよ、お貞」
「事実だろ」
お貞が髪の間から付け加えた。源一郎がどういうことか、と訊ねた。
「女郎ってのは嘘をつくもんだ。あの子らは客の前で泣いて見せるのも仕事のうち。真実の愛だとか何だとか言うけどさ──その言葉が本物かどうか証明する方法はないんだよ」
§
おおよその話を聞き終えると、源一郎は礼を言い立ち上がった。
「世話になった。──また来ることがあるかもしれん」
「次に来る時にはお土産を持ってくるんだよ」
ゆらゆらと長い髪を揺らめかせ、お貞が言う。
「あたしは甘い物がいい」
お寅が耳を動かした。人懐っこい顔で悪びれずにものを言う。
「全くどいつもこいつも……あやかし連中は容赦なく注文つけてくるな」
「いいじゃないか。アイツらの話は役に立ったろ」
源一郎は苦笑し、鳥居を潜った。お縫が後について来る。お貞とお寅は祠の石段に座ったまま、手を振っていた。
来た道を戻る。旅籠の裏手を通り過ぎ、宿の勝手口が近づいてきた。その手前であった──路地の切れ目から海が見える。
源一郎はそこで足を止めた。
石垣の向こう、潮の引いた干潟の先に打ち捨てられた舟が一艘上がっている。底が抜けていて、もう使い物にならないもののようだ。
その舟の縁に女が一人座っていた。
着物は着ている。だが、その姿だけが仄かに白い。袖から出た手には肉がなく、指の骨がそのまま並んでいる。首も襟から上は白い骨であった。
その頭蓋がボウッと海を見ていたのだ。
源一郎は足を止めたまま、しばらくその姿を観察していた。
「……あれは?」
「あぁ」
お縫が隣に立ち同じ方を見た。
「お蔦って呼ばれてる。二年くらい前かね、岸に遺体が流れ着いてさ。その晩からあの舟の傍に、あぁして座るようになった」
「ずっと海を眺めているのか」
「そうさ。海を見て、話しかけてみても同じ言葉を繰り返すだけ。帰りたい、って。──それ以外は、ほとんど何も言わないよ」
品川の海苔篊の竹棒が闇の中に幾つも突き出ている。こん、こん、と波に揺れる音が聞こえていた。
骨の女はその向こうの何も見えぬ闇を見つめている。
「……あの者は、まるで何かを待っているようだな」
源一郎が呟いた。お縫は少しだけ間を置いてから答えた。
「そうだね──。でも、あたしは長いことただ戸惑ってるだけだと思ってた。死んだことにまだ気づいてないだけだって。──でもね」
お縫は海の方へ目を向けた。
「本当は帰る場所がないから、あぁしてるんだろうね」
帰りたいという言葉の意味。お縫のその声音は憐れむようで、それでいて、どうしようもない遣る瀬なさを感じさせるものだった。
§
宿まで戻った。
お縫は戸を開け、中の灯りが路地に漏れた。廊下からは三味の音が、まだ微かに聞こえている。
「──番頭に宿賃と揚代は払っておく。世話になったな、お縫。お前は情の篤い良い女だった」
「そんな殊勝なこと言ったって、まけやしないよ」
お縫は言った。それから、少しだけ首を傾げる。
「明日、行くのかい。汐見屋に」
「あぁ。行って、確かめてみるつもりだ」
源一郎は答えた。
新吾は確かに汐見屋にいる。肩を庇いながら通い、お駒と呼ばれる女郎を贔屓にしている。本気になった馬鹿だと、猫にまで揶揄われるほどに。
そして、汐見屋のある歩行新宿では、年季の明けた女がたまにいなくなる。守り袋を置いて、男に何も言わずに。
──この話が今後繋がるかどうかは、分からん。
源一郎は襟を合わせた。
「じゃあ、おやすみ旦那」
「うむ」
部屋の前でお縫が去り、戸を閉めた。源一郎は一人、布団の上に寝転んだ。
骨の女は、まだそこに座っているのだろう。
帰りたいと願いながら。
北からの風が路地を抜け、窓を揺らす。
源一郎は背を向け、静かに目を閉じた。