鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

173 / 183
第百六十四話 汐見屋

 

 翌朝。

 

 源一郎は夜が明けきらぬうちに旅籠を出た。

 

 宿賃と揚代はあの手代へと払った。あの鼠のような男は銭を数える手つきこそ妙に卑しく見えたのが印象的だったが、誤魔化しなどはする気がないようだった。

 

 勝手口から表へ回ると、宿場町はまだ眠りの中にあった。軒下の提灯は消え、昨夜の賑わいが嘘のように静まっている。東の空がようやく白み始めたばかりで、街道には人影もまばら。

 

 北品川から東海道を北上し江戸方面へ。まず善福寺の方へ足を向ける。

 

 北品川と南品川は目黒川で隔てられているため境界は分かりやすいが、北品川と歩行新宿の境はその実、曖昧だ。

 

 ほどなく歩けば、歩行新宿である。

 

 北品川と南品川が古くからの宿場であるのに対し、歩行新宿は後に加えられた町だとお縫は言っていた。元々の管理も別。顔役も別。それが一つの宿場町として括られることとなった。

 

 夜明け前の歩行新宿は、北品川よりも騒がしかった。

 

 まだこの時刻だというのに、表通りには人の出入りがある。旅支度を整えた男が旅籠から出て行き、馬子が通り過ぎれば、天秤棒を担いだ棒手振りの魚売りが早足で江戸の方へ歩いていく。品川の漁師が朝獲った魚を、日本橋の河岸へ運ぶのだ。

 

 店の数も多い。

 

 北品川では旅籠と旅籠の間に少しの隙間があったが、ここでは軒と軒が隙間なく重なり合っている。間口の広い大店もあれば、一間ほどの小さな店もある。どの店も二階を持ち、その二階の窓には洗い物が掛けてあった。

 

 ──辻には男が立っている。

 

 源一郎は歩きながら横目で見た。腕組みをして壁にもたれ、着物の裾を端折り股引を穿いている。昨日、北品川で見た留たちと同じような格好であったが、こちらの男は幾分人相が悪い。そして、何をするでもなく、ただ立って通りかかる人を睨んでいた。

 

 他にももう一人、路地の角にも同じような男がいた。こちらは煙管をくわえて、同じように通りを眺めている。

 

 北品川の若い衆は荒っぽくはあったが宿場町にピリついた空気があった訳ではない。だが、こちらは違う。賑わいに紛れた緊張感。見張りが立ち、日常の裏側がすぐそこにあることを肌で感じさせる。

 

 ──これが大百足の勘蔵の庭場か。

 

 §

 

 汐見屋は、歩行新宿の中ほどにあった。

 

 藍色の暖簾。二階建ての間口の広い店である。通りに面した格子戸は開店前の準備中を示しており、まだ半分しか開いていなかった。

 

 源一郎はその店を通り過ぎた。

 

 振り返らず、歩調も変えず、ただ目だけで店構えを確かめる。二階の窓は障子が閉まっている。一階では下男らしき男が水を撒いていた。

 

 その少し先に小さな茶屋があった。

 

 葦簀張りの、床几が二つ並んだだけの水茶屋の仮店である。先客はいない。婆が一人、竈の前で湯を沸かしていた。

 

「茶を。婆さん、少し待ち合わせをさせて貰うぞ」

「へえ。どうぞお掛けになってください」

 

 源一郎は床几に腰を下ろした。汐見屋の表口が斜めに見える。

 

 茶が出た。源一郎は煙管を出し、刻みを詰めた。煙を吐きながら、通りを眺める。

 

 遊び人が朝帰りの途中で一服している──そのような絵である。

 

 ──茶を啜り、ほどなくして日が昇った。

 

 街道に朝の光が差し込むと、宿場は少しずつ目を覚ましてゆくようである。

 

 旅籠の表口から、昨夜の客がぽつぽつと出てくる。身なりを正す者もいれば、髷の乱れたまま足早に去る者もいる。二日酔いで足元のおぼつかない男が他の通行人に避けられていた。

 

 今度は女たちが店から出てきた。

 

 化粧を落とした素顔で、箒を手に表を掃いている。夜の華やかさはない。疲れた顔をして、無言で箒を動かしている。水を撒き、ぬかるんだ土を踏み固める。

 

 昨夜の笑い声、嬌声、三味の音。あれを作っていたのはこの女たちであり、朝になればこうして黙々と片付けを始める。

 

 源一郎は茶を啜りながら、その光景をしばらく見ていた。

 

 件の汐見屋からも、女が二人出てきて掃除を始めた。一人は三十手前の姐さん格、もう一人はまだ若い妹女郎というものか。そのどちらも源一郎には目もくれない。

 

 やがて暖簾が全開になり、格子戸が開け放たれた。番頭らしき男が表に出て、通りの左右を見回し、それからすぐに中へ引っ込む。昼見世にはまだ早い──だが、その支度が始まっているのだ。

 

 茶屋の婆が団子を持ってきた。

 

「旦那、朝からのんびりなことで」

「暇は腐るほどあるのでな。さて、今日はどうするかなと思っていた」

「ははは。この辺じゃ珍しくないですよ。朝帰りの途中で寄る方もいらっしゃるしね」

 

 源一郎は団子を噛みながら、煙管に刻みを詰め直した。

 

 待つ。

 

 源一郎にとって、待つのは苦ではなかった。張り込みは役目の一部である。市中の見廻りでも、盗人の潜伏先の前で半日動かずに過ごしたこともある。遊び人の格好をしていても、心の持ち様は変わらない。

 

 ただ今日は、待つ間に考えることが多かった。

 

 ──昨夜のことである。

 

 唐突な身請け話。守り袋を置いていなくなる女。馴染みの男に一言もなく消える女。

 

 そしてあの海を見て、帰りたいと繰り返す骨女──お蔦のことも妙に気になった。帰る場所がないから、ああしているのだとお縫は言ったが……

 

 ──お蔦という、あの骨女もまた女郎と関わりがあったのだろうか。

 

 お蔦は二年前、海岸に遺体が流れ着いた日から現れるようになったという。どう関わりがあるかは、まだ分からない。分からないが、頭の隅に嫌に引っかかっていた。

 

 気を取り直して新吾のことを考える。

 

 猫たちの報せでは昨夜も来ていた。泊まりであれば、昼見世が始まる前には出てくるだろう。源一郎は見逃すことのないよう、目を光らせたのだった。

 

 §

 

 あっという間に四半刻ほどが過ぎた。

 

 茶を三杯飲み、団子を二皿食い、煙管を三服した頃であった。汐見屋の表口から、男が出てくる。源一郎は煙管をくわえたまま、目だけを動かして確認した。

 

 若い男である。二十半ば。着流しに羽織。一本刀を差しているが、鞘の拵えは質素なものだった。そして左の肩を、わずかに庇うように歩いている。

 

 ──新吾。

 

 顔も確認した、見間違いはない。

 

 だが源一郎はすぐには動かなかった。新吾の後ろから、もう一人出てきたからである。

 

 若い女であった。

 

 まだ幼さの残る顔立ちである。十八か十九か。化粧は落としていて、夜の女郎としての顔ではない。寝巻きの上に薄い羽織を一枚引っ掛けただけの姿で、髪もまだきちんと結い上げていなかった。

 

 ──あれが、お駒と呼ばれる娘か。

 

 見送りである。女は表口の敷居のところで立ち止まり、新吾の背に何か声をかけた。源一郎の位置からは聞こえない。

 

 新吾が足を止め、振り返る。

 

 そして、笑った。

 

 それを目撃した源一郎は煙管を持つ手を止めた。

 

 ──あんな顔が出来るとは知らなかった。

 

 役宅の詰所で書付を捌いているときの顔ではない。捕物の場で十手を握っているときの顔でもない。権助に叱られて肩をすくめるときの顔でも、本太郎と馬鹿話をしているときの顔でもない。

 

 肩の力が抜けている。目尻が下がり、女に向ける視線には温かな色が灯っていた。そこには何の身構えも見られない。本太郎の言う、腐っている男の顔には見えなかった。

 

 女が何か言った。新吾が頷く。女が袖を引いて遊ぶ。新吾が笑って、その手を軽く叩いた。

 

 岡場所ではどこにでもある、ただの見送りの光景。それだけの何ということもないやり取りの筈であった。

 

 だが源一郎は眉根を寄せる。新吾は、あの娘の前でだけ、ああいう顔を見せられるのだということに。

 

 女が小さく頭を下げ、暖簾の内へ戻った。

 

 ──その瞬間、顔から笑みが消えた。

 

 まるで、仮面を被り直したかのようであった。歩き出した男の背中には、もう先ほどの柔らかさはない。左の肩を庇いながら、うつむき加減に歩いている。役宅にいた頃と同じ──いや、それよりも重い。

 

 源一郎はここで理解した。

 

 新吾はあの女の側でこそ息が出来るのだと。店の外へ出れば途端に息が詰まる。日をおかずに通っている。

 

 ──連れ戻す、では済まんか。

 

 源一郎は茶代を置き、立ち上がった。

 

 新吾は街道を北へ歩いている。品川を出て、江戸へ帰る道である。まだ足は速くない。

 

 源一郎は後を追った。

 

 人通りはまばらである。朝帰りの男が何人か同じ方向へ歩いているが、源一郎と新吾の間には誰もいない。

 

 歩行新宿一丁目。谷山稲荷の手前まで来たところで、源一郎は声をかけた。

 

「──新吾」

 

 足が止まった。

 

 背中が強張るのが見えた。

 

 ゆっくりと、振り返る。

 

 源一郎の姿を認めた新吾の顔から、血の気が引いた。

 

 先ほどまで笑っていた顔。その笑みをしまい込んだ顔。そのどちらでもない、三つ目の顔がそこにある。

 

 畏れ、という顔であった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。