谷山稲荷は、歩行新宿の鎮守である。
街道から少し入ったところに、朱の新しい鳥居が立っていた。潜った先の参道は存外に長い。両脇に幟の竿受けが並び、石燈籠が点々と続いて、その奥に社殿がある。
品川宿で最も栄えている町の鎮守だけあって、境内は広い。
朝の参道には既に人がいた。氏子らしい年寄りが一人、竹箒で落ち葉を掃いている。旅立ちの無事を願うのだろう、旅支度の男が一人、社殿の前で手を合わせていた。
源一郎は鳥居を潜ると参道を逸れ、銀杏の大木を回って社殿の裏手へ抜けた。玉垣と木立に囲まれた狭い一角で人の気配はない。
──声を掛けられた新吾は鳥居の外で動けずにいた。
源一郎は先を行き、振り返らなかった。ただ社殿の縁に腰を下ろし、煙管を出す。刻みを詰めて火打ち石と火打金を打ち合わせた。二度、三度。散った火が火口に移り、小さな紅点となる。
煙を薄く吸って、吐いた。
白い息と煙が混じって、冬の朝の空へ上っていく。やがて、落ち葉を踏む音が近づいてきた。
ようやっと新吾が来た。源一郎から三歩ほど離れたところで止まり、そのまま立っている。
「朝飯はもう食ったのか」
源一郎は言った。
「……は」
「何だ。食ったのか、食っておらんのか」
「いえ……」
問われた新吾の声は掠れていた。
「まだ、で」
「そうか。岡場所の朝というものは意外と早いのだな」
そう言って源一郎は煙管をくわえたまま、木立の間から垣間見える海を眺めていた。
新吾は立ったままである。表情は険しく、叱責を待つ顔であった。いや、叱責よりも重い、何か思い詰めたものを抱えている顔である。
やがて、新吾が意を決したように口を開いた。
「渡辺様」
「うむ」
「なぜ、こちらに……いえ。分かっております。俺を──」
「まぁ待て。そう話を急くことはない。どうだ、この格好は。俺も中々に洒落ているだろう」
震えていた声を源一郎が遮ると、新吾が顔を上げた。
「は」
「久兵衛に仕立てさせた。損料屋のな」
源一郎は煙を吐いた。
新吾はそこで、初めて源一郎の姿をまともに見た。
深い青の小袖に、裏地の派手な羽織。腰には打刀が一本。帯を緩く締めたその立ち姿からは、与力の気配などすっかり抜け落ちている。瀟洒──粋で鯔背な遊び人の風体であった。
苦笑する。新吾の顔から、少しだけ強張りが抜けた。
「……俺の倍は崩れておりますな」
「昨日などは、遊び人の源太と名乗った。我ながら上手く化けられたものだと思う」
源一郎は煙管の雁首を縁の板で軽く叩き、灰を落とした。
「そら、座れ。俺は叱りに来たのではない、少し話しに来たのだ」
新吾は迷った。それから、源一郎から一間ほど離れた縁に、そろりと腰を下ろした。
§
木立で鵯が鳴いた。参道の方からは、年寄りが落ち葉を掻く箒の音が規則正しく聞こえてくる。その向こうに街道の喧噪がある。荷車の軋み、馬子の掛け声、宿場の一日が始まっていた。
この稲荷の一角だけが、そこから切り離されたように静かである。
「斬られた肩の調子はどうだ」
「……傷は塞がりましてございます」
「うむ、塞がったか」
「はい。医者にも、もう案ずることはないと」
源一郎は一つ頷いた。聞いていた通りだ。
「では、木刀は握ってみたか。どうであった」
新吾は答えなかった。膝の上に置いた手を、じっと見ている。少し間を置いて、吐き出すように言った。
「……残念ながら。今までのようには振れませんでした」
「む……振れない? どういうことだ」
「……傷は塞がりました。腕も問題なく上がります。物を持つのにも困りません。ですが、木刀を構えていざ打ち込もうとすると」
新吾は刀傷のあるであろう左の肩口に手を当てた。
「斬られた時のことを思い出します。すると、どうしても腕が止まり振りがぎこちなくなる」
源一郎は黙って聞いていた。
「幾度も試しました。人のおらぬ刻を選び、庭にて。ですが、何度試そうとも同じでございました。……情けない話にございますが」
新吾は笑おうとして失敗した。口の端だけが歪んでいる。
「あの晩──俺は結局何もできませなんだ。一味の用心棒を止められず、刀傷を負った。渡辺様が来られなんだら、あそこで死んでいたかもしれない」
新吾が顔を上げた。
「書付は捌けます。聞き込みも回れます。しかし、いざという時に刀も握れぬ者が先手組にいてよいものか……まともに刀を振れぬ俺は、もう武士を名乗れないのではないか……強くあらねば、武士とは言えない……あれから、そう考えるようになりました」
「立ち合いが……修羅場が恐ろしくなったか」
「……そうかもしれません」
源一郎はそれ以上何も言わず、煙管を吸っていた。早くも二服目である。
声が低くなっていく。
「皆、傷が浅くて何よりだったと。次に活かせ、と言います。ですが……命の取り合いは、やはり少し堪えたようです」
新吾が、ぽつりと零した。
「そうして家で一人腐っていた折でした。本太郎の奴に連れられて、初めてこの品川へ来たのは」
「……そうか。俺も、お前がここに入り浸っていると聞いてな。様子を見に来た。本太郎が言っていたぞ、相当に思い詰めている様子だったとな」
「……そのようで。奴は気晴らしにと。俺も岡場所になどと始めは乗り気ではありませんでしたが……来てみれば賑やかなところで。酒を飲んで、馬鹿な話をして、騒いで。確かに気晴らしにはなりました」
新吾は膝の上で手を組んだ。
「入れ込んでいる女がいるとも聞いた」
「……よくご存知で。その時の座敷へ出てきたのが、お駒という女でした」