鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

175 / 183
第百六十六話 覚悟

 

 そう言ってから、少し間を置いた。

 

「今朝方、汐見屋の表で見送りに出ていた娘です。ご覧になっておられたのでしょう?」

「さてな……」

「歳はもうすぐ二十になりますが、店に入って五年になるそうで仕事は手慣れたものです。本太郎の奴が馬鹿を言えば笑って返し、他の女たちとも上手く席を回す。それでいて、押しつけがましい所のない娘です」

 

 新吾は俯いたまま、少し笑った。

 

「俺はその晩、ただ黙って飲んでおりました。本太郎が気を遣うくらいです。さぞ陰気に映ったことでしょう。あの娘はそれを見て取って、何も聞かずにただ傍で、空になった器に酒を注いでくれた。それだけのことで、妙に気が楽になりました」

 

 人気のない境内で、鵯がまた鳴いた。

 

「汐見屋に通うようになったのはそれからです。あの娘の生まれた国の話を聞いて、こちらも当たり障りのない話をして。──可哀そうな娘なのですよ、お駒は。十四、五で女衒に買われ、姉女郎たちに教わりながら、ずっとこの宿場で過ごしてきたと聞きました」

 

 新吾は組んだ指をほどき、また組み直した。

 

「年季が明けたら国へ帰りたいと、よく申しております。父母がまだ達者でいるなら、一目だけでも顔を見たいと……」

 

 それから、新吾は顔を上げた。

 

「──渡辺様。あの娘は、俺に本当の名を教えてくれたのです」

 

 源一郎は煙管を口から離した。

 

「……仮の名ではない、本名をか」

「はい。若菜と申すそうでございます。廓では本当の名を明かしてはならぬと、店から堅く言われておるとのことで。それでも、こっそりと俺にだけと」

 

 いつの間にか暗かった新吾の目に光が戻っていた。今朝、汐見屋の表口で見た顔と同じである。

 

「あの娘は、俺のことを何も知りません。火付盗賊改の役人だとも、役目を半ば放り出していることも。俺が隠し事をしていることも承知しているでしょう……それでも、好いているからと本当の名を預けてくれた──」

「新吾、それは……」

 

 源一郎は言おうとした。しかし、言えなかった。

 

 女郎が客に本当の名を明かすのは、心中立ての手段の一つであり、心中立てというものが何のためにあるかを源一郎は昨夜聞いたばかりであった。起請文を書き、髪を切り、爪を送る者すらいる。そうやって本気であると示し、男を繋ぎ止める。繋ぎ止めなければ、借金が返せなくなる。故に嘘をつく女もいる、とお縫は言った。

 

 源一郎からすればお駒が本気かどうかなど分からない──だが、それを今この場で言って何になる。新吾は反発するだけだろう。

 

 源一郎は煙管の灰を静かに落とした。

 

「新吾。そのお駒の身請けでもするつもりか」

「……はい」

 

 新吾は一呼吸置いてから首肯した。

 

「あの娘は元々、年が明けてしばらくすれば年季が明ける予定なのです。あと幾月も待てば自由の身。残り僅かとなった借金くらいは俺が清算して、早めに店の外に出してやりたい。残りの数両くらいであれば、俺にも何とか工面してやることはできます」

 

 吉原の遊女であれば十年、時にはそれ以上の年季を勤める。それは売り買いの額が大きく、禿や新造の頃から教育にも金を掛けているためで、抱え主も長く働かせて元を取ろうとするからであった。

 

 だが岡場所は少し異なる。宿場の旅籠が給仕の女中を置くという建前が元々であるから、岡場所に入ってくる年齢も比較的高く、証文に書かれる年季が短いという事情がある。故に三から五年。中には二年ほどの短期で年季明けする者もいた。

 

 もっとも、三から五年という年数も証文の上の話。

 

 その間の薬代や化粧品代、衣服代が別でかかる。売り上げから返済しきれず借金が残った場合、岡場所では年季が明けてもその借金を返すまで年季が延長される仕組みになっていた。

 

 しかし──それでも残り数両と言うのだから、どうやらお駒は要領の良い娘であるらしい。

 

 そして、役目のある武士が女郎を身請けすることに問題がない訳ではない。

 

「本気か」

「はい」

「年季が明ければ、その娘は国へ帰りたいと言っていたのではないのか。身請けしたとして、お前はどうするつもりなのだ」

 

 まさか、一人国元に帰らせることなど出来まい──。

 

 まして、武士と町人。幕臣である新吾が町人であるお駒を妻とするには困難が付き纏う。源一郎はその手段を承知しているのか、覚悟はあるのか問うたつもりだった。

 

「……俺は、共にお駒の生まれた国に参りたいと思います」

「……なに?」

「お駒が言うのです。国へ帰る時は、一緒に着いて来てほしいと。そして、出来れば父母に会わせたいと。──俺は、それを了承しました」

 

 源一郎は新吾を見た。

 

 本当の名を明かした女が、国へ行こうと言う。そこまで言われては頷くしかないと──源一郎は、その言葉がどこまで本気のものかを量ろうとしてやめた。言うまでもなく、冗談で言えることではないのだから。

 

「江戸を出るということか」

「はい」

「……先手組の役目はどうするつもりだ」

 

 新吾は顔を上げた。

 

「──辞するつもりでおります」

 

 はっきりとした声であった。源一郎は、その声音から既に幾度も自問自答した答えであることを理解した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。