「馬鹿な……家はどうするのだ」
「……親戚筋から養子を入れるか、返上するよりございません。元より、刀もまともに振れぬ身の上ですので致し方ないことかと」
「田沼の家はお前一人であろう。手放せば家は絶える。お前の父御の位牌は誰が守るというのだ」
「養子を入れれば家は守られます。家を継ぐのは必ずしも俺でなくとも構わないことです」
「……役目を返上して、どうするつもりだ。女一人を連れて見も知らぬ土地へ行き、そこで何をして食ってゆく」
「それは──あの娘の国で、小料理屋でも開ければと」
源一郎は口を噤んだ。
「此処に来た頃から廓の賄いを手伝っていたそうで、いつかは自分の店を持ちたいと申しておりました。俺も料理は嫌いではありません。二人でつつましく暮らしてゆければ、それで──」
それで、と新吾は夢を語り続けた。銀杏の葉が一枚ひらりと落ちてきて、地の上に積み重なった。
──叱る言葉なら、幾らでも出てくる。
役目を捨てるとは何事だ。武士の分を弁えよ。組の仲間がどれだけ気を揉んでいるか知れ──。
もっともな言葉である。だが、その夢見るような顔が邪魔をした。
あの店の表口で、この男は笑った。役宅では一度も見せたことのない笑い方。あれを見てしまった後で、分を弁えよと言うことが、源一郎にはどうしてもできなかった。
あの女の傍でこそ、新吾は肩の荷を下ろすことが出来る。それを取り上げることは、果たして本当に正しいことなのか。
──だが。
源一郎は、今しがた聞いた話を胸の内で反芻した。
見も知らぬ国で、女と二人、小料理屋を出して暮らす──。
悪い夢ではない。だが、些か現実離れしているようにも思える。刀を振れぬ己を責めずに済む場所。役目も、家も、組の者の目も届かない場所。そこへ行けば何もかもが片づくと、本当に思っているのか。
根っこでは、ここから離れたいと思っているのだ。
あの娘と一緒になりたいという願いの下に、現状から逃げたいという願いが透けている。それを当人が気づいているかは分からない……いや、気づいていないからこそ、あれほど迷いなく言えるのであろう。
もっとも、と源一郎は思い直した。
それを指摘して何になる。逃げだと言われて踏み止まる者ばかりなら、この世に落伍者はいない。
──俺はここへ、何をしに来たのだったか。責めるために此処へきたのではないのだ。
「新吾。改めて聞く」
「はい」
「組に戻る気はないのか」
新吾は、はっきりと言った。
「ございませぬ」
迷いのない声であった。
「俺では皆の役には立てませぬ。刀も振れぬ者がいては、足手まといになります。──それよりも俺は、必要としてくれているあの娘の側におりとうございます」
「新吾」
「申し訳もございませぬ。渡辺様には、ご足労をお掛けいたしました」
思わず源一郎が立ち上がると、新吾は機先を制するように立ち上がって頭を下げた。
「……いや。そんなことは、どうでもいい。詫びられる筋合いでもない、俺が勝手にお前の様子を見に来たのだからな」
新吾が顔を上げた。叱られ、責められるものと身構えていたのだろう、その目が物語っている。
源一郎は何も言わなかった。いや、それよりは掛けるべき言葉が見つからなかったと言える。未来で生きた経験は個人の自由であるべきと言い、江戸で生きた経験は叱ってでも引き留めるべきと言っている。どちらが間違いで、どちらが必ずしも正しいと言える訳ではない。
代わりに懐へ手を入れ、巾着から二朱金を一枚抜き出した。新吾の手を取って、その掌に握らせる。
「渡辺様、これは」
「……飯代だ」
「飯代にしては多すぎます。頂けませぬ」
「腹が減っておると気が塞ぐ。碌な思案も浮かばん。──余った分は、あの娘に何か買ってやれ」
新吾は掌の金を見ていた。
「ただ、これだけは一つだけ言うておく」
源一郎は言った。
「役目の返上も、家に養子を入れるのも待て」
「……それは」
「お駒の年季が明けが近づくのは年が明けてからのことなのだろう。まだ間がある。役目を返上するのも、養子を取るのも今日明日に決めねばならぬ話ではあるまい」
「ですが、俺は──」
「早まるなと言っているだけだ」
源一郎は新吾の目を見た。
「今すぐ役目に戻れとは言わん。言うたところで、お前の気は変わらんのだろう。だが、早まれば元には戻せんぞ。家も、役目も、父母への義理もだ。──捨てるのはいつでもできる。捨ててから後悔しても遅い」
新吾はしばらく黙っていたが、しばらくして深く頭を下げた。
「……肝に銘じましてございます」
「もう行け。飯を食って、もう一度よく考えろ」
新吾は金を握ったまま、もう一度頭を下げた。
社殿の裏から参道へ出て、鳥居の方へ歩いていく。途中で一度立ち止まり、振り返ってまた頭を下げた。
鳥居を潜って、街道へ出ていく。左の肩を庇う後ろ姿が、朝の光の中を北へ遠ざかっていった。源一郎はしばらく、その後ろ姿を見送った。
──様子を見に来た筈だった。
腐っているのなら手立てを考えればいい。女に溺れているのなら目を覚まさせればよい。それで片のつく話だと思っていた。
だが、新吾は悩んでいた。
人一倍武士たるものと矜持を持ち続けてきた男が、刀を振れぬようになったが故に武士であることを諦めつつあった。
──答えが出ない。
源一郎は舌打ちをした。
体ならばもう直っている筈だ。しかし、それでも振れぬというのならば、原因は心の傷にあるのだろう。PTSD──源一郎の脳裏にふと、そんな言葉が浮かぶ。
治せないものではない筈だ。時さえかければ、必ず戻る。だが、当人が治す気を失くしていては、どうにもならない。
──あの男は既に、戻る道を自ら諦めてしまっている。
源一郎は参道へ戻り、社殿の前に立った。賽銭を投げ、柏手を二つ打つ。拝殿の奥はしんとしたまま。ここの狐は、灰狐のように出てきて口を利いてはくれぬらしい。
「……一端、戻るか」
誰にともなく呟いた。平蔵には、ありのままの現状を報せるほかない。新吾は戻らぬと申しております、と。
源一郎は鳥居を潜り、通りを前に少し足を止めた。
朝の東海道は人足が増えている。江戸へ入ってゆく旅人、荷を担ぐ人足、駕籠かき。朝早くに江戸に向かった棒手振りの魚売りが、品を売り終え、早くも江戸から帰って来ている。
源一郎は止めていた足を再び動かし始めた。
東海道は海沿いをまっすぐ北へ延びている。片側に浜、片側に茶屋が軒を連ね、その先に高輪の大木戸がある。街道の両側に石垣を積み、その間を人が絶えず行き来している。ここを越えれば江戸であった。
谷山稲荷から高輪大木戸まではすぐだ。しかし、そこでまたしても源一郎は足を止めた。
石垣の手前、茶屋の床几に男が七、八人たむろしている。着物の裾を端折り、股引を穿いた者どもである。茶も頼まずに床几を塞いでいるらしく、茶屋の親父が奥で困った顔をしていた。道行く者は、そちらを見ぬようにして足早に通り過ぎていく。
床几の端に見覚えのある顔があった。
腕を組んで、街道の南を睨んでいる。昨日、源一郎が追い返した牛頭の辰五郎一味に、留と呼ばれた破落戸であった。
留は源一郎を見つけると、床几から腰を上げ、口の端を上げた。今度は別の厄介ごとが源一郎に降り掛かろうとしていた。