留は床几から腰を上げると、顎をしゃくって仲間を促した。
七、八人の男たちがぞろぞろと立ち並び、道行く者が慌てて脇へ避けた。荷を担いだ人足が足を止め、旅の女が連れの袖を引いて茶屋の軒下へ逃げ込む。
源一郎は立ち止まったまま、男たちが近づいてくるのを眺めていた。
留が目の前に立つ。
「よう、兄さん。昨日はどうも」
口元を歪めて笑っている。背後の男たちが左右へ散って源一郎を囲むように立っていた。
「江戸の遊び人なら、帰りはここを通ると踏んだんだがよ。朝からずっと待ってた甲斐があったってもんだ」
「……そうか」
源一郎は短く言った。
「で、何の用だ」
「何の用だ、だとよ」
留が振り返り、仲間たちに向かって笑ってみせた。幾人かが追従するように笑う。
「昨日、うちの庭場で俺に恥をかかせてくれたろう。煮売り屋の前でよ。あれからこっち、俺ァ笑いもんだ。よそ者の遊び人風情に転がされたってな」
「あぁ──羽のように軽かったからな。しかし、軽く払っただけで吹き飛ぶのが悪い」
「──あァ?」
留の顔から笑みが消えた。
「てめぇ。口の利き方に気をつけろよ。ここァ往来だ、手荒な真似はしねぇでおいてやるが……ちょいと浜まで顔を貸しな。詫びの入れ方ってモンを教えてやるからよ」
源一郎は目の前の男の顔をしばらく見ていた。
──腹の底にドロドロと澱のようなものが溜まっている。
谷山稲荷の境内で聞いた新吾の言葉が、まだ耳に残っていた。組に戻る気はございませぬ──。迷いのない声であった。あの男の背を押す言葉も、引き留める言葉も、どちらも見つけられなかった。源一郎は己の不甲斐なさに苛立っていた。
そこへ、これである。
「いいだろう」
源一郎は言った。
「浜でも何処でも付き合ってやる。──その代わり、泣き言は聞かんぞ」
留が鼻で笑った。
§
大木戸の南、石垣の切れ目から浜へ下りる細い道がある。
潮が引いていた。砂浜は遠くまで干上がり、濡れた砂が鈍く光っている。傾いた舟が二、三艘、干潟に取り残されていた。海苔篊の竹が沖へ向かって並び、その向こうで冬の海が白く波立っている。
石垣の段差と松並木が目隠しになって、街道からは浜の様子は見えにくい。
男たちが源一郎を取り囲んだ。
八人である。留を入れて九人。着物の裾を端折り、股引を穿き、幾人かは懐に手を入れている。匕首を潜めているのだろう。腰に長脇差を指している者もいた。
その中に一人、他と毛色の違う男がいた。
背は源一郎とさほど変わらぬほどあり、それでいて肩の肉が厚い。首が太く、両の拳は節くれ立ち、顔の左に古い刀傷が走っていた。荷運びか、駕籠かきか。いずれにせよ、喧嘩の場数を踏んできた荒くれ者の男の顔である。
その男だけは笑っていなかった。静かに源一郎の足の運びを見ている。
「おう。てめぇ、名は何ていうんだ」
「源太だ」
そうかよ、と留が言った。
「今なら許してやらねぇこともねぇ。そこに手ぇついて、昨日は申し訳ございませんでしたと土下座しろ。それで仕舞いにしてやる。──どうだ」
「断る」
「そうかい」
留が顎をしゃくった。
「馬鹿なやろうだ。おう、お前らやっちまえ」
男たちが一斉に動いた。
いや―—動こうとしたが出来なかった。
その刹那に、浜の空気が変わったのだ。源一郎は何もしていない。刀の柄に手をかけてもいない。ただ、そこに立っているだけである。
だが、男たちの足が止まる。
寒気であった。冬の浜風とは違う。腹の底から冷えてくるような得体の知れぬ寒気が男たちの背筋を這い上がった。首筋の毛が逆立つ。喉が干上がり、唾が鳴る。目の前の男が、急に恐ろしいもののように見えた。
「──どうした」
源一郎が言った。
「来んのか」
低い声であった。
「今の俺は機嫌が悪い。加減はできんぞ」
一番近くにいた男が、喉の奥で妙な声を立てた。そして、叫び声とともに殴りかかってきた。恐れを振り払うための力任せの拳。
源一郎は半身になってそれを流し、男の手首を取った。取った手首を捻り上げ、腕ごと肩を極めながら足を払う。男の体が宙で半回転し、背中から砂に叩きつけられた。衝撃で肺から空気が押し出される。
──それが合図になった。
「すかしてんじゃねぇぞ、コラ!」
「死にさらせ!」
左右から二人が同時に襲い来る。源一郎は右の男の懐へ潜り込み、鳩尾に肘を入れた。男が体をくの字に折る。その体を盾にして左の男の拳を受け、盾にした男ごと突き飛ばした。二人がもつれて砂の上を転がる。
背後で砂を蹴る音がした。
「がぁっ……!」
振り向きざま、突き出された匕首の手を手刀で打ち落とす。零れた匕首が砂に刺さる。そのまま相手の襟を掴んで引き寄せ、額を鼻っ柱に叩き込んだ。鈍い音がして、男が仰向けに倒れた。
長脇差を抜いた男がいた。
「く、くそが……」
抜いたはいいが、構えが定まらない。切っ先が震えている。源一郎はまっすぐに歩いてゆき──男が悲鳴のような声を上げて斬りつける。源一郎は刃の下を潜り、男の腕を抱え込むようにして肘を逆に極めた。男が長脇差を取り落とす。膝裏を蹴って跪かせ、首筋に手刀を落とした。男は声もなく崩れ落ちた。
「う、うおおおおお……!」
「ひいぃぃぃ……!」
六人目と七人目は、仲間が倒れるのを見て、逃げ腰のまま殴りかかってきた。一人の顎を掌底で突き上げ、一人の腹に膝を入れる。二人とも、それきり起き上がることはなかった。
残ったのは留と呼ばれる破落戸と、あの顔の傷の男。
傷の男が前へ出た。
他の者とは違った。腰を落とし、両の拳を顎の前に構え、じりじりと間を詰めてくる。源一郎の『不機嫌』を正面から受けて、それでも足が前へ出る。場数を踏んできた男の意地であった。
男が踏み込んだ。
左の拳が源一郎の顔面を狙う。見せの拳である。本命はその陰から腹を抉りに来る右。喧嘩で幾人も沈めてきた男の、体で覚え、経験で磨いた拳であった。
源一郎は左の拳を避けもしなかった。
ただ一歩、前へ出た。
右の拳が腹へ届くより先に、源一郎の掌打が男の胸板を打ち抜いていた。拳を振り切る前に間合いを潰された男の体が、打たれた勢いで浮く。浮いたところへ、源一郎の足が偃月刀のように男の脇腹にめり込んだ。
男は何が起きたのかも分からぬまま背中から砂に沈んだ。
起き上がろうとして、首だけを上げた。源一郎の顔があった。何の熱も宿らぬ目で見下ろしている。その目を見た途端、男の体に震えが走った。
場が沈黙する。打ち寄せる波の音が満ち、砂のあちこちでは男たちが呻きながら転がっていた。
その中で、留がただ一人立っていた。
長脇差の柄に手をかけたまま、動けずにいる。抜くこともできない。逃げることもできない。ただ腰が引けていた。
源一郎は留の方へとゆっくり歩いていった。
「ひっ──」
留が後ずさる。足がもつれて、砂浜に尻をつく。
源一郎はその前にしゃがみ込み、留の襟首を掴んで引き起こした。無理やりに立たせる。留の膝はまだ震えていて、源一郎が手を放せばそのまま崩れそうであった。
源一郎は、その留の肩に腕を回して組んだ。馴れ馴れしく、仲の良い友人がするように。そして、留の耳元に顔を寄せた。
「──なぁ、留とやらよ」
静かな声であった。
「朝っぱらから、ご苦労なこった。昨日の意趣返しに、わざわざ高輪大木戸まで出張ってきてくれたんだ。礼を言わなきゃならねぇよな」
「い、いや、その……」
「俺ァな……今日は本気で虫の居所が悪ぃんだ」
拳で留の腹を軽くどつく。俯く留の肩に回した腕に力を込めて、更に引き寄せる。留の顔が歪んだ。
「お前らみてぇなのに、いちいち絡まれてたんじゃ、おちおち遊んでもいられねぇ。こんなところ見られたら岡場所の女たちに怖がられちまう──だからよ。手っ取り早く話をつけに行こうじゃねぇか」
「は、話だと……」
「──そうだ。お前のとこの頭に会わせろ」
留がぽかんと口を開けた。
「な、なに……か、頭に……?」
「そうだ。子分の不始末は親分に片をつけてもらうのが筋ってもんだろう。違うか、なぁ」
「そ、そりゃあ……」
「違うか、と聞いてるんだ」
再度、腹をどつく。留は、がくがくと首を縦に振った。
「よし」
源一郎は留の肩を叩いた。二度、三度。軽く叩いているように見えて、その度に留の体が揺れた。
「じゃあ、案内を頼まぁ。──おい、そこに転がってる連中も起こしてやれ。置いてったら可哀そうだろうがよ」