鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百七十話 牛頭の辰五郎

 通されたのは、奥の八畳間であった。

 

 床の間に掛け軸が一幅。長火鉢に鉄瓶がかかり、湯気を立てている。

 

 その長火鉢の向こうに男が一人座っていた。

 

 五十半ばほどの小柄で痩せた男。髪には白いものが多く混じり、顔には深い皺が刻まれていた。地味な縞の着物に羽織を一枚。煙管を手にして、ゆったりと煙を吐いている。

 

 一見すれば隠居した商家の主のようであった。

 

 だが、目が違った──。

 

 座敷に入った瞬間、その目が源一郎を見た。穏やかな目であった。様々な経験を経ているのだろう──しかし、穏やかでありながら底が伺えない。源一郎という男の表も裏も、看破して見せようという目であった。

 

 男は煙管を置き、居住まいを正した。

 

「ようこそおいでなすった、お客人。手前、牛頭の辰五郎と申しやす」

 

 膝の前に手をついた。だが、頭は下げなかった。手をついたまま、まっすぐに源一郎を見ている。

 

「このたびは、うちの若ぇ者がとんだご無礼をいたしましたようで……昨日の一件といい、今朝の騒ぎといい。子の不始末は親の不始末。この辰五郎、お詫びのしようもござんせん」

 

 言葉は丁寧であった。腰も低い。だが、詫びの言葉を口にしながら、その目は一度も源一郎から逸れなかった。

 

 源一郎は辰五郎の向かいに腰を下ろした。そのまま胡座をかく。不敵な遊び人らしく行儀悪く、それでいて口の端に笑みを浮かべて。

 

「詫びは受け入れた」

 

 源一郎は言った。

 

「今朝は少し虫の居所が悪くてな……こっちもやり過ぎた。手当てをしてやってくれ」

「へえ。ありがてぇお言葉で」

 

 辰五郎は手を膝に戻した。廊下に留が控えている。辰五郎はちらりとそちらを見た。

 

「留」

「へぇ」

「九人がかりで、この御仁一人に敵わなかったそうだな」

「……へぇ」

「素人さんに手ぇ出して、その上のされて帰ってきた。──おまけに歩行新宿の連中にその面ぁ晒して歩いてきたってな。てめぇン中の筋はどうなってやがる」

 

 留の顔から血の気が引いた。

 

「も、申し訳ございやせん」

「馬鹿野郎。後で話がある。下がってな」

 

 留は廊下から下がっていった。辰五郎は源一郎に向き直った。

 

「お見苦しいところを」

「いや」

「──して、お客人のお名前を伺ってもよろしゅうござんすか」

「源太だ」

「源太さん」

 

 辰五郎は、その名を口の中で転がすように繰り返した。顔と名を結びつけて、胸に仕舞い込むように。

 

「江戸の方で」

「まぁ、そんなところだ。部屋住みの、しがねぇ遊び人さ」

「部屋住み? お前さんが」

 

 辰五郎の目が細まる。

 

 源一郎の振る舞い──胡座の組み方に始まり、その姿勢を見ているのだろう。膝に置いた手、背筋の伸び方、筋肉の付き方。姿勢を崩して座っているはずの男の体に、どうしても崩れきらない芯のようなものがある。

 

 だが、辰五郎はそれ以上何も訊かなかった。

 

「──左様でござんすか」

 

 とだけ言って、鉄瓶の湯で茶を淹れ始めた。

 

「一つだけ、伺ってもよろしゅうござんすか」

「何だ」

「昨日、煮売り屋の掛け取りに割って入りなすったそうで。──ありゃあ、いったいどういった了見で」

 

 源一郎は差し出された茶を受け取った。

 

「親父が気の毒に見えたからだ」

「ほう、気の毒に」

「銭がねぇと言ってる者から、力ずくで取り立てるのは見ていて気分のいいもんじゃない。聞けばあの親父、歩行新宿の連中にも場所代を取られてるそうじゃねぇか。両方から毟られたんじゃ、商いなんざ立ち行かねぇだろうよ」

 

 辰五郎は、しばらく源一郎の顔を見ていたが……それから、ふっと笑った。目尻に皺が寄り、表情が思いがけず柔らかく崩れる。

 

「こいつは耳が痛ぇ」

 

 辰五郎は煙管を取り上げ、刻みを詰めた。

 

「あの煮売り屋が店を構えてるのは、うちと向こうさんの境でしてね。向こうが先に取り立てたからって、うちまで取り立てていい道理はござんせん。堅気さんに二重の場所代を払わせるなんざ、あっしらの渡世じゃ一番やっちゃならねぇことだ」

「ほう? 悪いとは思っているのか」

「へえ。まぁ、取り立てが荒くなるのには訳もございやすが……そいつは、あっしらの手前勝手でさ」

 

 辰五郎は煙管に火を移し、一口吸って煙を吐いた。

 

「しかし、源太さん。お前さんはウチの子らを叩きのめしたその足で、まず親のところへ話をつけに来なすった。役人に告げ口するでもなく、闇討ちで意趣を返すでもなく。──筋ってもんを、よくご存じのようだ」

 

 源一郎は黙って茶を啜った。

 

「九人を無手でのしちまう腕。それでいて、見ず知らずの煮売り屋のために体を張る。──面白ぇお人よ」

 

 カンッ──と、辰五郎が煙管を長火鉢の縁で叩いた。

 

「若ぇ者の不始末に、筋の通し方まで教えていただいた。これで貸し借り無しとは申しやせん。あっしはお前さんに一つ借りができたと思っている」

 

 辰五郎は湯呑みを脇へ寄せた。

 

「茶なんざよりも、一杯付き合っちゃくれやせんか。詫びの印と言っちゃあなんですがね」

 

 源一郎は少し考えた。

 

 今日はこのまま江戸へ帰るつもりであった。平蔵に報告もしなければならない。だが、この男が何を言い出すのか聞いてみたい気もした。

 

「まぁ、一杯だけならいいか」

「こいつは、ありがてぇ」

 

 辰五郎が手を叩くと、先ほどの年嵩の男が酒と肴を運んできた。盃が満たされ、しばらくは他愛もない話が続いた。品川の宿場のこと、江戸の噂、季節の魚のこと。辰五郎は話の上手い男であった。相手の口を軽くさせ、それでいて自分の腹は中々見せない。

 

 二本目の徳利が空になった頃、辰五郎が盃を置いた。

 

「源太さん」

 

 声の調子が変わっていた。

 

「借りのある身で頼みごととは、筋違いなのは百も承知。──その上で、お前さんに折り入って頼みてぇことがございやす」

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