源一郎の箸が止まった。
「『攫って』きた?」
「そうさ。売られてきたんじゃねぇ。攫ってきた、でさぁね」
「……それは確かなのか。だとすれば大罪だぞ」
「さて……噂は噂。しかし、火のねぇ所に煙はたたねぇ、と言いますでしょう」
辰五郎は言葉を切り、長火鉢の炭に目を落とした。
「奴は狡猾だ。決定的な証拠は残さねぇ。ただ……うちでは、そういう店から出てきた者も保護しておりやしてね。見つけた時はそりゃ……ひでぇもんでしたよ」
源一郎は、どうしてか土間の竈の前にいた女の顔が思い浮かんだ。頬のこけた、痩せた女──火吹き竹を枝のような腕で握り、源一郎と目が合った途端に目を伏せた。
「──おっとっと……失礼。宿場の後ろ暗ぇ事情は、客人に話すことじゃござんせんね」
辰五郎はそれきり、その話をやめた。
──源一郎は黙って盃を見ていた。
昨夜、お縫から聞いた話が胸の内で蘇る。年季明けを前にして身請け話が持ち上がったと思った途端、守り袋すら置いていなくなるという女。それも将来を誓った馴染みの男にも一言もなく消えるという──。あの時は、勘蔵の黒い噂の一つとして聞いた。そして……今の辰五郎の話と並べてみると、どこかで噛み合っているような気もする。
噂は噂である。確かなものではない。だが、辰五郎の話には妙な重みがあった。
──それに、新吾のことだ。
歩行新宿の汐見屋にて。今朝方、店の表口で見た新吾の笑った顔と、暖簾の内へ戻っていった娘の姿が浮かぶ。あの男は、あの娘がいる限りこの宿場町から離れることはすまい。
本人は組には戻らないと言うが──それでも仲間だ。あの顔を思い出すたびに妙な胸騒ぎがする。あまり放置しては不味い気もする──宿場の内側に拠点があれば、監視もしやすくなるだろう。
源一郎は盃を置いた。
「牛頭の親分」
「へえ」
「さっきの話だがな」
辰五郎の目が、わずかに動いた。
「受けてもいい」
「ほう……そいつは──」
「ただし、条件がある」
源一郎は辰五郎の目を見据え、離すことをしない。
「盃は受けられんし、子分にもならん。腕を貸すだけだ。客分ってことで頼まぁ」
「……元より、お前さんを子分にしようなんざ思っちゃおらんさ。そんな器のお人じゃねぇだろう」
「それこそ買い被りというものだ──。それから、もう一つ。俺の出入りは勝手にさせてもらう。たまに留守にするが、それでいいな」
辰五郎はしばらく源一郎の顔を見ていた。それから笑みを浮かべ、深く頷いた。
「頼んでるのはこっちで。否やはござんせんとも」
迷いのない声であった。
「寝床と飯はこっちで用意させていただきやしょう。離れが一つ空いておりやす。謝礼もそれなりに」
辰五郎は源一郎の盃に酒を注いだ。それから自分の盃にも注ぎ、目の高さに掲げる。それに続くように源一郎も盃を上げた。
親分子分の盃事などではない、ただの一時の酒宴である。二人とも、それを承知で同時に飲み干した。
それからまた、しばらく飲んだ。辰五郎は勘蔵の話には二度と触れず、品川の祭りのことや、若い頃に東海道を上り下りした話を面白おかしく語った。徳利が一本、また一本と空いていく。
気がつけば──障子に差す陽の色が変わっていた。
「今日は江戸に戻りなさるのかね」
「いや……今から歩いても、着く頃には暗くなっちまう」
「なら、早速部屋を用意させましょうや」
源一郎は障子の外に目をやった。
上司である平蔵には明日の内に話を通さねばなるまい。火盗改の与力が香具師の元締の用心棒になるなど、調査のためとは言え決して表立って言えることではない。しかし──黙っていられることでもない。
辰五郎が手を叩くと、先ほどの年嵩の男が顔を出した。
「源太さんを離れへご案内しろ。今日から客分の先生としてお迎えする。女たちに支度をさせな」
「へえ」
年嵩の男は源一郎に向き直り、腰を低くした。
「では先生、こちらへ」
手慣れた物腰であった。辰五郎の屋敷には旅の渡世人が草鞋を脱いでいくことも少なくないのだろう。見知らぬ男が一日にして客分に収まることにも、この男は眉一つ動かさなかった。
廊下を抜け、裏の庭へ出る。
庭の奥に、小さな離れが建っていた。六畳一間に濡れ縁のついた、隠居所のような造りである。下に置けない客を泊めるための離れで、近頃はあまり使われていなかったのか雨戸が閉てられたままになっている。
その前に女たちが待ち構えていた。
「あらまぁ、この旦那かい。今朝、若いのを九人まとめてのしちまったってのは」
真っ先に声を上げたのは、四十前後の大柄な女であった。襷掛けの袖から、白く太い腕が覗いている。化粧気はない。だが、目元にも口元にも、不思議と女の艶が見えた。
「正確には八人だ。留は自分で転んだからな」
「あっはっは!」
腹を抱えて笑った。後ろの女たちも口々に笑う。
「聞いたかい、留は自分で転んだんだってさ」
「まったく。あの男威勢はいいけど、少し足元が見えてないんじゃないかい」
女たちが寄ってきて、源一郎を取り囲んだ。
まるで遠慮というものがない。六尺ある源一郎を上から下まで眺め回し、顔を覗き込み、中には腕の太さを確かめるように袖に触れてくる者までいる。遊び人の成りはしていても、精悍な顔立ちと、無駄な肉のない体つきは隠しようがない。男を見る目の肥えた女たちが、それを見逃すはずもなかった。
「まぁ、近くで見るといっそういい男だねぇ……」
「目つきがいいよ。体も締まってる。この腕の筋がいい」
「遊び人にしとくにゃ惜しいねぇ。あと十年若かったら、あたしがほっとかないのに」
「お前さん、これまで女を沢山泣かせてきた口だろう? 分かるんだよ、あたしには」
「ちょいと、お茂姐さん。独り占めしないでおくれよ」
女たちの中でも大柄な女がまとめ役で、お茂と言うらしい。その姦しさに源一郎は苦笑した。年嵩の男が目頭を押さえて咳払いをする。
「おめぇら、先生に失礼だろう。さっさと支度をしねぇか」
「なんだい偉そうに。言われなくたってやるよ。──ちょいと、そこの」
お茂と呼ばれた大柄な女が、庭の隅にいた若い衆を顎でしゃくった。脇腹をさすりながら源一郎を見て、ばつの悪そうな顔をしている。よく見れば、今朝方、浜で転がした男の一人であった。
「ぼさっと突っ立ってないで、雨戸を開けな。それから母屋の納戸から布団を運ぶんだよ。一番上等のやつだ」
「お、おい、俺ァ怪我人だぞ」
「どこがだい。腕一本折られちゃいないって聞いたよ。旦那に手加減してもらったんじゃないか。ほら、とっとと動く!」
若い衆はぶつぶつ言いながらも、雨戸に取りついた。別の女が、もう一人の若い衆の尻を叩いて布団を取りに行かせる。また別の女は、箒を持って濡れ縁の埃を掃き始めた。
源一郎は、呆気に取られてそれを見ていた。
彼らは源一郎に向けて匕首や長脇差を抜いた男たちである。その暴力慣れした破落戸が襷掛けの女たちに顎で使われ、文句を言いながらも逆らえずにいる。
「なんだ。驚いてるのかい、旦那」
お茂が源一郎の顔を見るなり、カラカラとおかしそうに笑う。
「あたしらはね、元はみんなどこかの店で客を取ってた女さ。年季が明けても帰るとこがなかったり、体を壊して店に置いてもらえなくなったり……そういうのを辰五郎の親分が拾ってくだすって、ここで使ってもらってるのさ」
「そうか」
「だから、男の扱いにゃ慣れてるんだよ。ああいう若いのは、まだ殻のついた甘ったれ。ちょいと尻を叩いて、後で優しくしてやるくらいで丁度いいのさ」
あっけらかんとした物言いであった。
苦界にいた女が、その過去を隠しもしない。源一郎は、ふと昨夜から今朝にかけて見た女たちの顔と比べた。朝の宿場には、この屋敷の女たちのような賑やかさはなかった。
そして、ここにいる者たちの表情は晴れやかである。
「さ、旦那。中が片づくまで、そっちの縁台でお茶でも飲んで待っといで。すぐに済むからさ」
そう言って、お茂もまた雑巾を手にしたのだった。