──離れが片づいた頃には、日は西の空に落ちかけていた。
畳は拭き清められ、隅には布団が畳んで積まれている。火鉢に炭が熾され、鉄瓶が湯気を立てていた。
源一郎は濡れ縁に腰を下ろし、空を眺めていた。
庭の向こうに天王社の森が黒々と見えている。夕暮れの空で烏が鳴きながら森へと帰っていく。母屋の方からは夕餉の支度をする音と、女たちの慌ただしい声が聞こえてきた。
──新吾は今頃、どうしているだろうか。
源一郎の渡した二朱で飯を食い、そのまま汐見屋へ行ったのか。それとも大人しく組屋敷に戻ったのか。
答えの出ぬことを考えても仕方がないと思いつつも気になってしまう。明日は江戸の役宅へ戻り、平蔵に報告をしなければならない。新吾のこと、辰五郎のこと、そして勘蔵の噂のこと。どこから話すべきか、そんなことをつらつらと考えていた。
「──旦那」
声がして源一郎は顔を上げた。
渡り廊下に膳を携えた女が一人立っていた。竈の前で火の番をしていた、あの痩せた女である。
夕暮れの薄明かりの中で見ると、昼間よりもいっそう痩せて見えた。襷は外して、地味な縞の着物の上に前掛けをしている。頬のこけた顔はそれでも整っており、若い頃はさぞ、と思わせる目鼻立ち。
「夕餉をお持ちいたしました」
女は濡れ縁の端に膳を置いた。麦飯に、汁、焼いた鰯、青菜の浸し。質素だが美味そうだ。
「すまんな」
「旦那のお世話は、あたしが仰せつかりましたもので。何かご用がございましたら、お申し付けくださいまし」
女は膝をついて頭を下げた。その所作に源一郎は目を留めた。
膝のつき方、手の揃え方、頭の下げ方。一つ一つに無駄がなく、手慣れた者の所作であると分かる。シンとした静かな色気が、目の前の痩せ細った体の線に宿っていた。
「名は?」
「小柴と申します」
「小柴か」
「はい」
小柴は顔を上げた。
昼間、竈の前で目が合った時にはすぐに伏せられたが、今は伏せられることなく静かに源一郎を見ている。
それから、ふっと目元が緩んだ。
「用心棒の先生がお見えになったと聞いて、どんなに怖いお方が、と思っておりました」
「怖かったか」
「はじめは髭だらけで、酒臭くて、刀の鍔を鳴らしながら歩くような浪人崩れを思い描いておりましたので」
源一郎は顎を撫でた。髭なら今朝、旅籠で剃った。毎日剃るのは武士の嗜みであるし、前世からの習慣でもある。
「髭は剃ってある。酒臭いかもしれんが、さっきまで親分に付き合っていたからな。そこは勘弁してくれ」
小柴が袖で口元を隠してクスクスと静かに笑った。
「今朝は若い者たちがとんだご迷惑を」
「気にするな。俺もやり過ぎた」
「いいえ。あの子たちも少しは懲りたでしょう。血の気は少し多いですが、悪い性根の人たちじゃないんですよ」
小柴は小さく笑う。それから急に口元を押さえ咳き込んだ。二つ、三つと細い肩が大きく揺れる。
「おい、大丈夫か」
「……平気でございます。いつものことですから」
小柴は咳を収め、何事もなかったように立ち上がった。
「冷めないうちに、お召し上がりくださいまし。お膳は後で下げに参りますので」
そう言って、小柴は渡り廊下から母屋の方へ戻っていった。痩せた背中が夕闇の中に溶けていく。
源一郎は膳に向き直り箸を取った。
鰯は脂が乗っていて、塩加減がちょうどよかった。
§
小柴が膳を下げに来たのは、すっかり日が暮れてからであった。
手燭を提げている。濡れ縁に置かれた膳がきれいに平らげられているのを見て、小柴は少し嬉しそうな顔をした。
「よかった。お口に合いましたか」
「鰯が美味かった。脂がよく乗っていたな」
「浜の漁師から分けてもらったものでございます。品川は海がそばにありますからね、魚はいつでも新鮮です」
小柴は膳を引き寄せながら、少し間を置いて話した。
「そういえば、怪我をした若い衆はどうしている」
「あたしらで手当てをしましたよ。お茂姐さんが膏薬を練るのが上手でしてね。特製の膏薬を塗られて、痛い痛いって泣きベソをかいておりました」
小柴はフフ、と笑う。
「あれくらい怪我のうちにも入りません。あの中には農民出の若い子もいるんですが、脇腹を押さえてぼやいていたら、旦那に刃物を向けたことを姐さんにこっぴどく叱られておりましたよ。骨の一本も折られずに済んだんだ有難いと思え、目端を鍛えなって」
「叱られたか」
「ええ。こーんな耳を引っ張られて」
小柴の仕草に源一郎も思わず笑った。
冷たい夜風が庭の木々を揺らした。小柴が小さく身を縮める。手燭の火が揺れた。
「寒いだろう。少し当たっていけ」
源一郎は部屋の中の火鉢を顎で示した。
「いえ、あたしは……」
「親分から世話を仰せつかったのだろう。世話役に風邪をひかれては俺が困る」
小柴は少し迷っていたが、やがて膳を脇に置き、濡れ縁から上がって火鉢の傍に膝を揃えた。痩せた指を炭の上にかざす。指先が赤く色づいていくのを、源一郎は黙って見ていた。
「このお屋敷はどうだ」
「どう、と申しますと」
「暮らしだ。朝は早いのか」
「ええ、それはもう」
小柴は、ぽつりぽつりと話した。
夜明け前に起きて竈に火を入れ、若衆の飯を炊く。朝のうちに持ち込まれた荷を仕分け、昼は床店へ出る者と屋敷に残る者とに分かれる。祭りが近づけば幟を干し、提灯を張り替え、葦簀を繕う。夜は夜で繕い物がいくらでもある。
「忙しいな」
「忙しゅうございます。でも」
小柴は炭の火を見つめていた。
「以前店にいた頃とは忙しさが違います。ここでは明日が来るのが嫌ではございません。誰に買われるでもなく、誰の機嫌を取るでもなく。自分の手で炊いた飯を自分の口で食べられる」
静かな声であった。
「親分さんは好きなだけいていいと仰ってくださいます。出ていきたくなったら、いつでも出ていっていいとも。あたしらのような者に、そんなことを言ってくださるお方は他にございません」
「ここへは来て長いのか」
「一年ほどになりましょうか」
「その前は?」
小柴の指が、ほんのわずかに止まった。
「……宿場の、とあるお店に」
それだけ言って小柴は火鉢から手を引いた。顔には笑みが残っていたが、その目はここではない何かを映しているようだ。
源一郎はそれ以上訊かなかった。煙管に火を移し、煙を吐く。
「俺はな、江戸では部屋住みの身でな」
源一郎は、話の向きを変えた。
「兄貴がうるさい。朝寝をすれば叱られる、遊びに出れば叱られる、飯の食い方にまで文句をつけられる。それで家に居づらくなって、こうしてふらふらしている」
遊び人源太の作り話である。小柴が顔を上げた。
「まぁ。旦那ほどのお方が」
「部屋住みなんぞ、どこもそんなものだ。居場所がない者同士だな」
「あたしと旦那を比べてはいけませんよ」
そう言いながらも、小柴は可笑しそうに笑った。笑って、また少し咳き込む。今度は二つだけで収まった。
「旦那は不思議なお方ですね」
「何がだ?」
「あたしらのような者にも変わらず口を利いてくださる。九人を投げ飛ばしたお方とは、とても思えません」
「投げ飛ばされるようなことをしたのは向こうだろう」
小柴は変わらずクスクスと笑い、それから膳を取って立ち上がった。
「長居をいたしました。明日は江戸へお発ちになるのでしょう。朝餉は早めにお持ちいたしますね」
「ああ、頼む」
「お休みなさいまし」
小柴は頭を下げ、手燭を乗せた空の膳を持って渡り廊下を戻っていった。小さな灯りが揺れながら、母屋の方へ遠ざかっていく。途中で一度、また小さく咳き込む音がした。
源一郎はその灯りが見えなくなるまで見送った。
──宿場の、とあるお店に。
そう言った時、小柴の手は止まった。笑みは崩れなかったが目には不安が宿っていたように思う。
──うちでは、そういう店から出てきた者も保護しておりやしてね。見つけた時はそりゃ……ひでぇもんでしたよ。
辰五郎の声が耳の奥で蘇る。
源一郎は煙管の灰を落とし、戸を閉めた。天王社の森のほうで梟が鳴いていた。