鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百七十四話 遊び人、役宅に戻る

 翌朝のこと──。源一郎が離れで身支度を整えていると、小柴が朝餉の膳を運んできた。

 

 麦飯に香の物、それに昨夜の残りの鰯を炙ったもの。小柴は膳を置くと、竹の皮の包みを別に取り出した。

 

「道中で小腹が空きましたら、どうぞ」

「握り飯か」

「梅干しを入れておきました。江戸までとは言え、少々歩きますから」

 

 源一郎は包みを受け取った。まだ温かい。

 

「すまんな」

「いいえ。お世話を仰せつかっておりますので」

 

 小柴は小さく頭を下げた。今朝は咳をしていなかった。顔色も昨日の夕暮れよりは幾分ましに見える。

 

 膳を平らげて離れを出ると、母屋の土間で女たちが朝の仕事に取りかかっていた。お茂が源一郎を見つけて声を張り上げる。

 

「おや旦那、もうお発ちかい」

「江戸に用がある。数日で戻る」

「早く帰っておいでよ。旦那がいないと、ここの男どもは緊張感ってもんがなくっていけない」

「そうそう。それに目の保養ができなくなっちまうからね」

 

 女たちがどっと笑った。源一郎は苦笑して手を挙げ、表へ出た。

 

 §

 

 北品川から歩行新宿を抜け、八ツ山の裾を回る。

 

 朝の東海道は江戸へ向かう者で賑わっていた。昨日の朝と同じ道である。大木戸の手前の茶屋を通りかかったが、床几に留たちの姿はない。茶屋の親父が、昨日とは打って変わって穏やかな顔で客に茶を出していた。

 

 高輪の坂を過ぎたあたりで、源一郎は道端の石に腰を下ろし、竹の皮を解いた。ちと早いが食べてしまおうという考えだ。

 

 握り飯が二つ。塩がよく利いていた。海苔も巻いていない、ただの握り飯である。齧ると、真ん中から梅干しの酸味が広がった。

 

 源一郎は海を眺めながら、ゆっくりと二つを平らげ、指先を舐めた。

 

 そうして歩みを進め、芝へ入ったところで、源一郎は辻の古道具屋の軒先に吊るされた菅笠に目を留めた。古びて縁がほつれかけているが被れないことはない。

 

 この形のまま江戸の内を歩いて、知った顔に出くわすのは少々具合が悪い。源一郎は幾文かを払って笠を求め、目深に被った。

 

 芝から三田、麻布へ──火付盗賊改方の役宅の門をくぐろうとした時である。

 

「おい、待て」

 

 門番の小者が、六尺棒を横にして前を塞いだ。

 

「ここは火付盗賊改方の御役宅だ。笠も取らずに、遊び人が何の用だ」

 

 源一郎は足を止めた。笠の下から門番の顔を窺う。見知った顔である。向こうはまだ気づいていない。

 

「俺だ、通してくれ」

「なに、俺だと? どこの俺だ。用がないなら帰れ」

「……この顔を見忘れたのか? 渡辺だ」

 

 源一郎は笠の縁を指で押し上げた。

 

「渡辺──」

 

 門番の顔が、見る見るうちに青くなった。

 

「わ、渡辺様っ!」

 

 六尺棒が音を立てて地面に転がった。門番は平伏せんばかりに腰を折る。

 

「も、申し訳ございません! まさか、そのようなお姿で……」

「気にするな。俺も正装で来れば良かったのだからな」

 

 源一郎は門番の肩を叩いて、門をくぐった。

 

 玄関で笠を脱ぎ、廊下を奥へ進む。すれ違う同心がギョッと目を丸くして詰所に駆け込んだ。小者が源一郎の姿を見ては足を止めて呆け、慌てて道を空ける。

 

 同心たちの詰所の前を通りかかると、筆を取り落とす音がした。誰かが茶に噎せて咳き込んでいる。障子戸が音もなく開き、幾つもの顔が覗いた。

 

「おい……あれは本当に渡辺様か」

「まさか。渡辺様があのような格好を……」

「間違いない。あの歩き方は渡辺様だ」

「品川に用事があると聞いたが……あの渡辺様が、もしや女郎遊びを……?」

「馬鹿を言え。女好きの本太郎ではあるまいし……吉原だの岡場所だの、そんな話は一度も聞いたことのない御方だぞ」

「縁談とて幾度も流れておいでだしな……」

「だが、あの羽織の裏地を見てみろ。あれは遊び慣れた者の拵えだぞ」

「嘘だろう……あの堅物が……」

 

 あの石部金吉が、いやいやまさか、何かの変装だろうよ……ひそひそと交わされる声が、廊下まで筒抜けであった。

 

 源一郎は構わず歩いた。構わず歩いたが、背中に刺さる視線の数には、さすがに居心地の悪さを覚えた。

 

 平蔵の執務室となっている書院の前で膝をつき、声をかける。

 

「渡辺にございます」

「おう、入れ」

 

 障子を開けると平蔵は文机に向かって書付に目を通していた。顔を上げ源一郎を見る。

 

 そのまま、しばらく黙っていた。

 

 上から下まで、ゆっくりと眺める。深い青の小袖。派手な裏地がちらりと覗く羽織。緩く締めた帯。腰には打刀が一本きり。

 

 平蔵の口元が、堪えられぬとばかりにニヤリと歪んだ。

 

「おいおい、どこの色男が紛れ込んだかと思ったぞ」

「……お戯れを」

「戯れちゃいねぇよ。似合ってるじゃねぇか。なぁ源一郎、お前、与力より遊び人の方が性に合ってるんじゃねぇのか」

 

 源一郎は苦い顔をして、平蔵の前に座った。

 

「これは久兵衛の見立てにございます」

「衣紋の久兵衛の仕業か。相変わらず、あいつの目と腕に狂いはねぇな」

 

 平蔵は筆を置き、楽しげに脇息にもたれた。

 

「その派手な裏地は何だ。どういう了見なんだ」

「……遊び人は普段目に見えぬところに金をかけるものだと」

「かかっ! 違いねぇ!」

 

 平蔵は声を上げて笑った。

 

「で、出来上がったのがその色男か。品川の女にはさぞモテたろう」

「──御頭」

「怒るな怒るな。いや、しかし、よく化けたもんだ。門番の奴、腰を抜かしたろう」

「どこの俺だ、用がないなら帰れと言われ、気づくと棒を落としておりました」

「だろうなぁ。詰所の連中も今頃は大騒ぎだろうよ。堅物の渡辺がとうとう品川で身を持ち崩した、って具合にな」

「……既に、そのような話が聞こえていました」

「かかかっ!」

 

 平蔵はひとしきり笑ってから、ふっと笑みを収めた。

 

「──で? 新吾の奴はどうだった」

 

 声の調子が変わった。源一郎は居住まいを正した。

 

「昨日の朝、会って参りました」

 

 源一郎は話した。

 

 汐見屋の表で見たこと。新吾が女に見送られて笑っていたこと。役宅では一度も見せたことのない顔であったこと。谷山稲荷の境内で新吾と話したこと。肩の傷は塞がったが、木刀を構えると腕が竦んで思うように振れぬこと。刀の振れぬ者が先手組にいてよいものかと思い詰めていること──。

 

 平蔵は黙って聞いていた。

 

「入れ込んでいる女は、お駒という汐見屋の女郎にございます。年が明ければ年季明けが近くなるそうで。新吾はその女の国へ共に行き、小料理屋でも開いて暮らしたいと申しておりました」

「小料理屋、か」

「役目は返上し、家には親戚筋から養子を入れる算段まで頭にあるようです。──組に戻る気はないと、はっきり申していました」

 

 平蔵は目を閉じた。

 

「引き留めたのか」

「……いえ」

 

 源一郎は首を振った。

 

「どう話しても軽い言葉になってしまう気がして、掛ける言葉が見つかりませんでした。ただ、早まるなとだけ。役目の返上も養子の件も、今日明日に決めねばならぬことではあるまい、と」

「猶予のことは」

「伝えておりません。戻らぬと言い切った者に、戻る期限を告げても意味がないと判断しましたので」

 

 平蔵はしばらく黙っていた。

 

 庭で鵯が鳴いた。障子越しの冬の陽が、畳の上に白く伸びている。

 

「──刀が振れねぇ、か。そいつは体の傷が原因じゃねぇな」

「やはり……」

「斬られた時のことを、体が覚えちまってるんだろう。頭で分かってても体が言うことを利かねぇ。そういう奴は、昔から戦があると幾人も出たと聞く」

 

 平蔵は目を開けた。

 

「真面目な奴ほどそうなるんだろうなぁ。己に言い訳ができねぇからな。新吾は、あぁ見えて糞がつくほど真面目な男だ」

「……はい」

「それで女に逃げたか。──いや、逃げたと言っちゃあ気の毒か」

 

 平蔵は脇息から身を起こした。

 

「源一郎。お前、どう見た」

「腐っているのではないと思います。ただ……迷っているのかと。いえ、迷っていることに当人も気づいていないようにも見えました」

「ふん」

 

 平蔵は鼻を鳴らした。

 

「で、どうする」

「──そのことで、お願いがございます」

 

 源一郎は膝の前に手をついた。

 

「しばらく、品川に留まろうかと思います」




ふぃー……
大変、おまんたせいたしました。
これで取り敢えず更新終わり!
大量更新大変だからまた単話更新に戻すか……
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