翌朝のこと──。源一郎が離れで身支度を整えていると、小柴が朝餉の膳を運んできた。
麦飯に香の物、それに昨夜の残りの鰯を炙ったもの。小柴は膳を置くと、竹の皮の包みを別に取り出した。
「道中で小腹が空きましたら、どうぞ」
「握り飯か」
「梅干しを入れておきました。江戸までとは言え、少々歩きますから」
源一郎は包みを受け取った。まだ温かい。
「すまんな」
「いいえ。お世話を仰せつかっておりますので」
小柴は小さく頭を下げた。今朝は咳をしていなかった。顔色も昨日の夕暮れよりは幾分ましに見える。
膳を平らげて離れを出ると、母屋の土間で女たちが朝の仕事に取りかかっていた。お茂が源一郎を見つけて声を張り上げる。
「おや旦那、もうお発ちかい」
「江戸に用がある。数日で戻る」
「早く帰っておいでよ。旦那がいないと、ここの男どもは緊張感ってもんがなくっていけない」
「そうそう。それに目の保養ができなくなっちまうからね」
女たちがどっと笑った。源一郎は苦笑して手を挙げ、表へ出た。
§
北品川から歩行新宿を抜け、八ツ山の裾を回る。
朝の東海道は江戸へ向かう者で賑わっていた。昨日の朝と同じ道である。大木戸の手前の茶屋を通りかかったが、床几に留たちの姿はない。茶屋の親父が、昨日とは打って変わって穏やかな顔で客に茶を出していた。
高輪の坂を過ぎたあたりで、源一郎は道端の石に腰を下ろし、竹の皮を解いた。ちと早いが食べてしまおうという考えだ。
握り飯が二つ。塩がよく利いていた。海苔も巻いていない、ただの握り飯である。齧ると、真ん中から梅干しの酸味が広がった。
源一郎は海を眺めながら、ゆっくりと二つを平らげ、指先を舐めた。
そうして歩みを進め、芝へ入ったところで、源一郎は辻の古道具屋の軒先に吊るされた菅笠に目を留めた。古びて縁がほつれかけているが被れないことはない。
この形のまま江戸の内を歩いて、知った顔に出くわすのは少々具合が悪い。源一郎は幾文かを払って笠を求め、目深に被った。
芝から三田、麻布へ──火付盗賊改方の役宅の門をくぐろうとした時である。
「おい、待て」
門番の小者が、六尺棒を横にして前を塞いだ。
「ここは火付盗賊改方の御役宅だ。笠も取らずに、遊び人が何の用だ」
源一郎は足を止めた。笠の下から門番の顔を窺う。見知った顔である。向こうはまだ気づいていない。
「俺だ、通してくれ」
「なに、俺だと? どこの俺だ。用がないなら帰れ」
「……この顔を見忘れたのか? 渡辺だ」
源一郎は笠の縁を指で押し上げた。
「渡辺──」
門番の顔が、見る見るうちに青くなった。
「わ、渡辺様っ!」
六尺棒が音を立てて地面に転がった。門番は平伏せんばかりに腰を折る。
「も、申し訳ございません! まさか、そのようなお姿で……」
「気にするな。俺も正装で来れば良かったのだからな」
源一郎は門番の肩を叩いて、門をくぐった。
玄関で笠を脱ぎ、廊下を奥へ進む。すれ違う同心がギョッと目を丸くして詰所に駆け込んだ。小者が源一郎の姿を見ては足を止めて呆け、慌てて道を空ける。
同心たちの詰所の前を通りかかると、筆を取り落とす音がした。誰かが茶に噎せて咳き込んでいる。障子戸が音もなく開き、幾つもの顔が覗いた。
「おい……あれは本当に渡辺様か」
「まさか。渡辺様があのような格好を……」
「間違いない。あの歩き方は渡辺様だ」
「品川に用事があると聞いたが……あの渡辺様が、もしや女郎遊びを……?」
「馬鹿を言え。女好きの本太郎ではあるまいし……吉原だの岡場所だの、そんな話は一度も聞いたことのない御方だぞ」
「縁談とて幾度も流れておいでだしな……」
「だが、あの羽織の裏地を見てみろ。あれは遊び慣れた者の拵えだぞ」
「嘘だろう……あの堅物が……」
あの石部金吉が、いやいやまさか、何かの変装だろうよ……ひそひそと交わされる声が、廊下まで筒抜けであった。
源一郎は構わず歩いた。構わず歩いたが、背中に刺さる視線の数には、さすがに居心地の悪さを覚えた。
平蔵の執務室となっている書院の前で膝をつき、声をかける。
「渡辺にございます」
「おう、入れ」
障子を開けると平蔵は文机に向かって書付に目を通していた。顔を上げ源一郎を見る。
そのまま、しばらく黙っていた。
上から下まで、ゆっくりと眺める。深い青の小袖。派手な裏地がちらりと覗く羽織。緩く締めた帯。腰には打刀が一本きり。
平蔵の口元が、堪えられぬとばかりにニヤリと歪んだ。
「おいおい、どこの色男が紛れ込んだかと思ったぞ」
「……お戯れを」
「戯れちゃいねぇよ。似合ってるじゃねぇか。なぁ源一郎、お前、与力より遊び人の方が性に合ってるんじゃねぇのか」
源一郎は苦い顔をして、平蔵の前に座った。
「これは久兵衛の見立てにございます」
「衣紋の久兵衛の仕業か。相変わらず、あいつの目と腕に狂いはねぇな」
平蔵は筆を置き、楽しげに脇息にもたれた。
「その派手な裏地は何だ。どういう了見なんだ」
「……遊び人は普段目に見えぬところに金をかけるものだと」
「かかっ! 違いねぇ!」
平蔵は声を上げて笑った。
「で、出来上がったのがその色男か。品川の女にはさぞモテたろう」
「──御頭」
「怒るな怒るな。いや、しかし、よく化けたもんだ。門番の奴、腰を抜かしたろう」
「どこの俺だ、用がないなら帰れと言われ、気づくと棒を落としておりました」
「だろうなぁ。詰所の連中も今頃は大騒ぎだろうよ。堅物の渡辺がとうとう品川で身を持ち崩した、って具合にな」
「……既に、そのような話が聞こえていました」
「かかかっ!」
平蔵はひとしきり笑ってから、ふっと笑みを収めた。
「──で? 新吾の奴はどうだった」
声の調子が変わった。源一郎は居住まいを正した。
「昨日の朝、会って参りました」
源一郎は話した。
汐見屋の表で見たこと。新吾が女に見送られて笑っていたこと。役宅では一度も見せたことのない顔であったこと。谷山稲荷の境内で新吾と話したこと。肩の傷は塞がったが、木刀を構えると腕が竦んで思うように振れぬこと。刀の振れぬ者が先手組にいてよいものかと思い詰めていること──。
平蔵は黙って聞いていた。
「入れ込んでいる女は、お駒という汐見屋の女郎にございます。年が明ければ年季明けが近くなるそうで。新吾はその女の国へ共に行き、小料理屋でも開いて暮らしたいと申しておりました」
「小料理屋、か」
「役目は返上し、家には親戚筋から養子を入れる算段まで頭にあるようです。──組に戻る気はないと、はっきり申していました」
平蔵は目を閉じた。
「引き留めたのか」
「……いえ」
源一郎は首を振った。
「どう話しても軽い言葉になってしまう気がして、掛ける言葉が見つかりませんでした。ただ、早まるなとだけ。役目の返上も養子の件も、今日明日に決めねばならぬことではあるまい、と」
「猶予のことは」
「伝えておりません。戻らぬと言い切った者に、戻る期限を告げても意味がないと判断しましたので」
平蔵はしばらく黙っていた。
庭で鵯が鳴いた。障子越しの冬の陽が、畳の上に白く伸びている。
「──刀が振れねぇ、か。そいつは体の傷が原因じゃねぇな」
「やはり……」
「斬られた時のことを、体が覚えちまってるんだろう。頭で分かってても体が言うことを利かねぇ。そういう奴は、昔から戦があると幾人も出たと聞く」
平蔵は目を開けた。
「真面目な奴ほどそうなるんだろうなぁ。己に言い訳ができねぇからな。新吾は、あぁ見えて糞がつくほど真面目な男だ」
「……はい」
「それで女に逃げたか。──いや、逃げたと言っちゃあ気の毒か」
平蔵は脇息から身を起こした。
「源一郎。お前、どう見た」
「腐っているのではないと思います。ただ……迷っているのかと。いえ、迷っていることに当人も気づいていないようにも見えました」
「ふん」
平蔵は鼻を鳴らした。
「で、どうする」
「──そのことで、お願いがございます」
源一郎は膝の前に手をついた。
「しばらく、品川に留まろうかと思います」
ふぃー……
大変、おまんたせいたしました。
これで取り敢えず更新終わり!
大量更新大変だからまた単話更新に戻すか……