平蔵の眉が上がった。
「留まる」
「実は昨日、品川宿の香具師を束ねている元締の用心棒に収まりました」
平蔵は、一瞬ぽかんとした顔をした。それから腹を抱えて笑い出した。
「与力が──香具師の──用心棒だと──」
平蔵は笑いながら膝を叩いた。
「こいつは傑作だっ。どうやったらそんなことになる」
「成り行きです」
源一郎は煮売り屋台で起こった騒ぎを仲介したこと、帰りに高輪大木戸で破落戸たちに待ち伏せされたこと、浜で破落戸たちをのしたこと、その足で元締のもとへ話をつけに行ったこと、そこで酒を飲む内に用心棒を頼まれたこと──それらを掻い摘まんで話した。
「元締の名は、牛頭の辰五郎と申します」
その名を聞いた途端、平蔵の笑いが止まった。
「牛頭の辰五郎」
「ご存じでしたか」
「──いや、昔少しな」
平蔵は顎を撫でた。
「懐かしい名を聞いた」
平蔵の目がどこか遠くを見ていた。
「俺がまだ本所で銕と呼ばれて、ろくでもねぇ連中と遊び歩いていた時分の話だ。品川に面白ぇ香具師がいると聞いたことがある。祭りの差配をさせりゃ右に出る者がいねぇ。腰は低く穏健だが、喧嘩は強ぇ、筋だけは曲げねぇ男だって話さ」
「会われたことは」
「ねぇなぁ。噂だけだ」
平蔵は口の端を上げた。
「だが、あれから三十年近く経って、名を聞くとはな。品川で顔を張ってるってんなら噂は本当だったんだろうよ」
源一郎は長火鉢の向こうで手をつきながらも、視線を外さなかった男の顔を思い出した。
「して、品川に留まる訳は。新吾のことだけなのか」
「二つございます」
源一郎は言った。
「一つは、新吾から目を離さぬため。江戸から時折通うだけでは、あの男が何を思い、何をしようとしているのか分かりません。宿場の内に拠点があれば近くで見張ることも出来ます」
「ふむ……もう一つは」
「──宿場内で、どうにも気になることがございます」
源一郎は辰五郎から聞いた噂を話した。
歩行新宿の元締、大百足の勘蔵。数年前に跡目を継いでから縄張りを広げ、浪人を幾人も抱えるほどに羽振りがいい。その懐の出どころとして、博打や金貸しの上がり──それから女衒と組んで在方から娘を攫い、歩行新宿の店に入れて上前を撥ねているらしいこと。あわせて、出所は隠しつつも妖宿で耳にした、身請け話が持ち上がった途端に消える女の話。
いつの間にか、平蔵の顔から揶揄う色が消えていた。
「攫ってきた、か」
「噂にございます。確かなことはまだ何も」
「宿場の飯盛りは道中奉行の支配だ。俺たちがしゃしゃり出る筋じゃねぇ。──だがな、拐かしとなりゃ話は別だ。博打もな」
平蔵は言い、源一郎の目を見た。
「猶予は変わらず歳の暮れまでだ。その内までは好きにしろ。新吾のことも、その噂のこともだ」
「はっ」
「ただし」
平蔵の目が鋭くなった。
「確かなものを掴んだら言え。一人で片をつけようなんざ決して思うなよ」
「心得ております」
源一郎は深く頭を下げた。
顔を上げると、平蔵はもう元の顔に戻っていた。脇息にもたれ、ニヤニヤと源一郎の身なりを眺めている。
「それにしても、その格好で品川の女郎屋を歩いてるのか」
「……御頭」
「いや、なに。辰五郎の屋敷にも当然女はいるんだろう。女郎上がりなのが」
「おりますが」
「身バレしねぇように気をつけろよ。そういう女は怖ぇぞぉ。目端が阿呆ってほど利くからな」
源一郎は、昨日離れの前で女たちに取り囲まれたことを思い出し黙った。平蔵は、また声を上げて笑った。
──平蔵のいる書院を下がると、源一郎は役宅の一室で与力としての身なりに改めた。
冬の繁忙期に備え、しばらく泊まり込むつもりで持ち込んでいた着替えである。遊び人源太の小袖と羽織を畳み風呂敷に包む。いつものように帯を固く締め直し、刀を二本差すと、それでようやく浮ついていた腰が落ち着いた。
廊下へ出ると、すれ違った同心は今度はいつものように頭を下げた。ただ、その目だけはまだ何か言いたげで、源一郎が通り過ぎた後も背中を追っていたのだった。
§
──役宅からの帰路。本所の屋敷に着いたのは、夕暮れ時であった。
「お帰りなさいませ」
玄関で出迎えたのはお鈴であった。その後ろにお絹が膝をつき、夕餉の仕度の最中であったのだろう、奥からおたかが顔を出す。
「お疲れでございましょう。すぐに湯の支度をいたしますね」
お鈴は源一郎がどこへ行っていたのかも、何をしていたのかも何も訊かなかった。時代であるが、特に武士の家に住む女人は主の役目には口を挟まぬものと心得ていた。
源一郎は湯殿で湯を使い、着替えを済ませた。
湯殿から出ると、お鈴が籠の中の洗い物を取りに来たところであった。
「お召しになっていたものは明日洗濯いたしますね」
「すまんな、頼む」
お鈴は籠の中から、源一郎が脱いだ襦袢を取り上げた。畳もうとして、しかし、その手がピタリと止まった。
ほんの一瞬のことであった。お鈴はすぐに襦袢を畳み直し籠へと戻す。それから顔色も変えず、何事もなかったように籠を持って去っていく。
源一郎はお鈴の後ろ姿を見ながら、濡れた体を拭く手を止めていた。
あの襦袢は品川で三日間着通したものである。宿場の通りでは客引きの女に袖を引かれ、妖宿ではろくろ首のお縫の酌を受け……
──しまった。
襦袢に白粉の匂いが移っていたとしても、何の不思議もなかった。
品川へ発つ前、平蔵に言われた言葉が今になって蘇った。
『品川へ行くのであれば、着替えは持って行けよ』
『は?』
『お前は女遊びもせん堅物だから知らんのだろうがな──白粉の匂いというのは、思ったよりも落ちんものだ。俺は若い頃、奥に三日ばかりまともに口を利いてもらえんかったことがある』
あの時は、御頭の昔話と思い聞き流した。
源一郎は手拭いを握ったまま、廊下の先を見た。湯殿から上がったばかりだというのに、冷や汗が流れ出る。籠を抱えたお鈴の背中は、もう見えなくなっていた。
まとめて更新していきまっす。