鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百七十六話 弁慶の泣き所

 

 ──夕餉の膳が並んだ。

 

 台所に続く座敷には源一郎の膳。開け放った障子の向こう、台所の板間におたかとお鈴、お絹の膳が並ぶ。少し奇妙な並びであるが、この屋敷においてはいつもの夕餉の光景である。

 

 膳には麦飯に蜆の味噌汁、鰈の煮付け、大根の浸し。源一郎の好きなものばかり。この時代、江戸湾には鰈は多く生息しており、庶民にとっては身近な魚だったとは言え……好物が並んだのは、おたかやお鈴の心づかいがあったからに他ならない。

 

 そして、源一郎の膳には今宵も小さな小鉢が一つ添えられていた。芋の煮ころばしが二つ。この屋敷に住み着く座敷童子、菖蒲の分である。

 

「おお、今日は鰈か」

 

 源一郎は緊張感をひた隠し、努めて明るく言って箸を取った。

 

「これはありがたい。やはり家の飯が一番だ」

 

 さり気なく反応を探るも……返事はなかった。板間のお鈴は、黙って自分の汁椀を取り上げている。いつもなら、障子越しにあれこれと言葉が行き交うところである。

 

 妙に静かになった食事の場で、源一郎は煮付けを口に運んだ。とはいえ、一般の武家であれば食事とは黙食が基本である。好きに会話しながら食そうという渡辺の屋敷の方が変わっていると言えた。

 

「うん、美味い。お鈴の煮付けは相変わらずだな」

「お母さんが作りました」

「……そうか。いや、おたか、美味いぞ」

「坊ちゃんの好物ですからね。それはようございました」

 

 おたかが箸を持ったまま答えた。どこか笑いを堪えているような声である。

 

 源一郎が空の飯茶碗を控え目に差し出すと、お鈴は箸を置いて黙って立ち上がり、黙って飯櫃からよそい、黙って返して、また黙って自分の膳へ戻った。目も合わない。いつもなら何かしら一言添えるところだが、本当に何もない。源一郎は自らの迂闊を呪った。

 

 困惑した様子のお絹が箸を止めて、座敷の源一郎と隣のお鈴の顔を見比べている。まだ渡辺の屋敷に入って日の浅いお絹からしてみれば、居心地の悪いことこの上ないであろう。

 

 ふと、座敷の空気がわずかに動いた。

 

 気がつけば、源一郎の膳の傍らに、おかっぱ頭の童女がちょこんと座っていた。黒い着物に白い顔。幼い姿の座敷神。源一郎の幼い頃から、ちっとも変わらない菖蒲である。

 

 おたかはそちらを見ない。視えぬからである。お絹の目だけが、ちらりとそちらへ動いた。

 

 菖蒲は源一郎の顔をじっと見上げていたが、やがて小さな鼻で、すん、と一つ嗅ぐ。表情の薄い白い顔がわずかに顰められた。

 

「白粉臭い」

 

 ぽつりと言った。……湯で落とした筈の白粉の匂いを嗅ぎ取ったらしい。どうやら匂いは完全には消せていないようだった。

 

 お絹が飲みかけていた汁に噎せた。慌てて口元を押さえ身を縮めている。板間のお鈴の箸が、ほんの一瞬だけ止まった。

 

「……菖蒲」

 

 源一郎が小さく呼ぶと、菖蒲はつんと顔を背けた。

 

「あ、おい」

 

 そして、小さな手を伸ばし、源一郎の膳から鰈の煮付けの一番身の厚いところを、ひょいとつまみ上げ頬張った。止める間もなかった。

 

 菖蒲はそのまま立ち上がり、すたすたと障子の敷居を越えて板間へ渡った。お鈴の傍らに腰を下ろす。自分の分の小鉢の芋には目もくれず、頬張った鰈を小さな口で食む。そこから動かなくなった。

 

 お鈴は菖蒲の方を見なかったが、その口の端がほんの少しだけ笑みの形に動いている。

 

 源一郎は身の削がれた鰈を見下ろした。

 

 この座敷童子は二十年来の付き合いである源一郎よりも、お鈴の側につくことに決めたらしい。

 

 源一郎は黙って飯を食った。折角の好物である鰈の味が急に分からなくなっていた。

 

 言い訳をしようにもできない。品川で何をしていたかを話せば、此度の役目や目的のことも話さねばならない。屋敷の内であっても、例えそれが身内であったとしても、事情をおいそれと口にする訳にはいかないのだ。

 

 悲哀。あぁ──男はつらいよ。

 

 しかしこのまま居心地の悪いままで過ごすべきか。否──何とかしてお鈴の機嫌を取るしかない。それが源一郎の出した答えだった。

 

 §

 

 夕餉の後、お鈴が膳を下げて台所へ向かうと、源一郎は少し間を置いて後を追った。

 

「お鈴。何か、手伝うことはあるか」

「ございません」

 

 即答であった。

 

 源一郎は台所の入り口に立ち尽くした。おたかが竈の火の始末をしながら、横目でこちらを見ている。様子を見るばかりで仲立ちする気はないらしい。

 

 お鈴は器を洗い終えると、手を拭いて裏口から井戸端へ出た。源一郎も慌ててついていく。

 

「今日は特に冷えるな。どれ、貸してみろ。水は俺が汲もう」

「結構でございます」

 

 源一郎が手を伸ばすより先に、お鈴はさっさと釣瓶を引き上げてしまった。桶に水を移すと台所に戻り、さっさと明日の米を研ぎ始める。しゃっ、しゃっ、と米の擦れる音だけが、冬の夜気の中に響いた。

 

「お鈴の研いだ米は、炊き上がりが違うからな。明日の飯が楽しみだ」

「……」

「いや、本当だぞ。品川宿の飯は──」

「へぇ──品川宿ですか」

 

 言いかけて、源一郎は口を噤んだ。口が滑った。これでは品川で遊んできたと言っているようなものだ。

 

 お鈴が研いだ米をお釜へと入れ、水を加えて浸す。源一郎はお鈴の後をついていく。台所から廊下へ。廊下から納戸へ。納戸で明日の支度をするお鈴の後ろに立ち、お鈴が台所へ戻ればその後ろを歩く。

 

 お鈴は一度も振り返らなかった。話しかければ返事はする。はい。いいえ。結構でございます。だが、それだけである。

 

 廊下の角で、お絹とすれ違った。

 

 お鈴の後ろを雛鳥のようについて歩く源一郎を見て、お絹はまた目を丸くした。口を半ば開けたまま、二人が通り過ぎるのを見送っている。

 

 その目が、ふと源一郎の背後へ移り、困惑に瞬かせた。

 

 源一郎が振り返ると菖蒲がいた。三歩後ろを、源一郎と同じ歩幅で同じように少し背を丸めてついてくる。源一郎が足を止めると、菖蒲も止まった。源一郎が歩き出すと、菖蒲も歩き出した。

 

 お鈴、源一郎、菖蒲。廊下に妙な行列ができていた。

 

「……ついてくるな」

 

 小声で言うと菖蒲は首を傾げた。

 

 源一郎はお絹からの視線を背中に感じながら、それでもお鈴の後をついていった。これで恥じていては機嫌など取りようがない。

 

 ──夜もだんだんと更け、源一郎は納戸で繕い物をするお鈴に声をかけた。

 

「……お鈴」

「はい」

「明日の朝、発つ。また、しばらく家を空けることになる」

 

 お鈴の針が一瞬止まった。

 

「さようでございますか」

 

 それだけであった。

 

 いつ戻るのかとも訊かない。お体に気をつけてとも言わない。行灯に照らされた横顔は静かで、穏やかで……どこまでも遠く見えた。

 

 源一郎は弱った。

 

 捕物の場で刃を向けられようとも、これほど気がそぞろになるようなことはない。

 

「旦那様の着替えは明朝までに包んでおきます。どうぞお先にお休みなさいませ」

 

 お鈴は繕い物を畳んで頭を下げ、納戸を出ていった。源一郎は……その場に立ち尽くした。

 

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