鬼切与力つなもり事件帖   作:mimick

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第百七十七話 指先を温める

 

 寝床に入っても、源一郎は眠れなかった。

 

 天井を見上げる。屋敷の中はしんと静まり返っていた。屋敷奥にあるお絹の部屋からも、おたかの部屋の方からは物音一つ聞こえない。

 

 明日の明朝にはまた品川へ発つ。あのままお鈴の顔を硬くさせたまま、幾日も家を空けることになるのかと思うと気が重い。

 

 源一郎は身を起こした。

 

 寝間着の上に羽織を引っかけ、廊下へ出る。床板の冷たさが足の裏に染みた。足音を殺して廊下を渡る。

 

 角を曲がったところで、源一郎は危うく声を上げそうになった。

 

 暗い廊下の真ん中に、菖蒲が座っていたからだ。

 

 月明かりも届かぬ闇の中で、白い顔だけがぼうと浮かんでいる。黒い目が、じっと源一郎を見上げていた。

 

「……驚かすな」

 

 源一郎は息を吐いた。菖蒲はしばらく源一郎の顔を見ていたが、やがて廊下の先、お鈴の部屋の方に視線を向けた。

 

「お鈴、さっき泣いてた」

 

 源一郎はうっ、と言葉を詰まらせた。

 

 菖蒲はそれだけ言うと、すっと立ち上がった。源一郎の脇をすり抜けていく。すれ違い、背後に回ると小さな両手で源一郎の腰を、とん、と押す。

 

 振り返るとそこにはもう姿はなかった。

 

 源一郎はしばらくその闇を見ていた。それからまた忍び足で歩き始め、お鈴の部屋の前で立ち止まる。

 

 障子の内には、まだ灯りが残っていた。

 

「……お鈴。起きているか」

 

 声をかけると中で鼻を啜る音、衣擦れの音がした。

 

「……はい、何のご用でございましょう」

「入るぞ」

 

 返事を待つことなく、源一郎は障子を開けた。

 

 お鈴は寝床の上に身を起こしていた。行灯の灯りの中、口元をへの字に曲げて源一郎を恨みがましそうに見上げている。しかし、その目は今夜初めてまっすぐにこちらを向いていた。その目の縁がわずかに赤くなっている。

 

 源一郎は後ろ手に障子を閉め、お鈴の前に姿勢を正して膝をついた。

 

「役目に関わることは話せん」

 

 お鈴が目を伏せた。

 

「だがな、お鈴。俺は、お前に顔向けできんようなことは何一つしていない」

「……殿方のことですから、私は何も気にしていません」

 

 小さな声であった。

 

「でも」

 

 お鈴は膝の上で手をぎゅっと握りしめた。

 

「白粉の匂いは嫌でございます」

 

 拗ねた子供のような声であった。

 

 源一郎は途端にホッとして、思わず笑みが浮かびそうになるのを堪えた。そして、お鈴の握りしめた手に自分の手を重ねた。師走の夜。冷えた指先であった。

 

「悪かった。……今日は寒いな。手も冷たい」

「……はい」

 

 なら、温めてくださいまし──。

 

 源一郎は行灯の火を吹き消した。

 

 §

 

 翌朝──。

 

 源一郎が身支度を整えて玄関へ出ると、上がり框の端辺りに風呂敷包みが置いてあった。中身を確認すると、着替えがきちんと畳まれ包んである。

 

 奥から急ぐような足を擦る音が近づき、床板の軋む音も聞こえてきた。それと、ちりん、という鈴の音も聞こえる。

 

「源一郎様、待ってっ。お待ちくださいっ」

 

 お鈴であった。前掛けで手を拭きながら、竹の皮の包みを両手で持っている。台所から急いで出て来たのだろう、息が少しだけ上がっていた。その髪には源一郎の贈った鈴のついた簪が付けられている。

 

「道中でお腹が空くでしょうから、召し上がってくださいませ」

 

 お鈴はにこにこと笑って、包みを風呂敷の上に載せた。

 

「中は握り飯でございます。おかかと、源一郎様のお好きな昆布の佃煮も入れておきました」

「そうか……いつも、すまんな」

 

 昨夜の硬い表情が嘘のように晴れやかであった。

 

 遅れて、おたかとお絹も見送りに出てくる。

 

 お鈴の後ろで、お絹がやはりぽかんとした顔をしていた。昨夜のお鈴と今朝のお鈴を見比べて、どういう変化があったのか訳が分からずにいるらしい。その隣で、おたかが素知らぬ顔をして口元だけで笑っていた。

 

 源一郎が包みを抱えて土間へ下り、草履を履く。

 

「旦那様」

 

 お鈴が袂から火打ち石と火打金を取り出し、源一郎の背に回った。

 

 カチッ、カチッ。

 

 乾いた音が二度鳴り、切り火──小さな火花が源一郎の肩口で散った。その意図が厄除け、もとい女除けであるのかは……お鈴のみぞ知ることだ。

 

「お体に気をつけて。いってらっしゃいませ」

「ああ。行ってくる」

 

 顔を上げると式台の端に、いつの間にか菖蒲が座っていた。おたかのすぐ隣である。

 

 菖蒲は澄ました顔で源一郎を見ていた。色のない瞳でお鈴の方をちらりと見て、それからまた源一郎を見る。しかし何も言わない。

 

 その代わりに小さな手を、ひょい、とあげ振る。

 

「……いってらっしゃい」

 

 お絹が小首を傾げ、まじまじと菖蒲の見慣れない仕草を見ていた。源一郎は苦笑して、菖蒲にだけ分かるように小さく手を振り返す。

 

 源一郎は屋敷を出た。

 

 門を出て少し歩き、振り返る。門前では、外に出て来たお鈴がまだ見送っていた。

 

 源一郎は片手を挙げて応え、今度は振り返ることなく役宅へ向かって歩き出した。懐に入れた竹の皮の包みは──昨日小柴に貰ったものより、随分と重たかった。

 

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