寝床に入っても、源一郎は眠れなかった。
天井を見上げる。屋敷の中はしんと静まり返っていた。屋敷奥にあるお絹の部屋からも、おたかの部屋の方からは物音一つ聞こえない。
明日の明朝にはまた品川へ発つ。あのままお鈴の顔を硬くさせたまま、幾日も家を空けることになるのかと思うと気が重い。
源一郎は身を起こした。
寝間着の上に羽織を引っかけ、廊下へ出る。床板の冷たさが足の裏に染みた。足音を殺して廊下を渡る。
角を曲がったところで、源一郎は危うく声を上げそうになった。
暗い廊下の真ん中に、菖蒲が座っていたからだ。
月明かりも届かぬ闇の中で、白い顔だけがぼうと浮かんでいる。黒い目が、じっと源一郎を見上げていた。
「……驚かすな」
源一郎は息を吐いた。菖蒲はしばらく源一郎の顔を見ていたが、やがて廊下の先、お鈴の部屋の方に視線を向けた。
「お鈴、さっき泣いてた」
源一郎はうっ、と言葉を詰まらせた。
菖蒲はそれだけ言うと、すっと立ち上がった。源一郎の脇をすり抜けていく。すれ違い、背後に回ると小さな両手で源一郎の腰を、とん、と押す。
振り返るとそこにはもう姿はなかった。
源一郎はしばらくその闇を見ていた。それからまた忍び足で歩き始め、お鈴の部屋の前で立ち止まる。
障子の内には、まだ灯りが残っていた。
「……お鈴。起きているか」
声をかけると中で鼻を啜る音、衣擦れの音がした。
「……はい、何のご用でございましょう」
「入るぞ」
返事を待つことなく、源一郎は障子を開けた。
お鈴は寝床の上に身を起こしていた。行灯の灯りの中、口元をへの字に曲げて源一郎を恨みがましそうに見上げている。しかし、その目は今夜初めてまっすぐにこちらを向いていた。その目の縁がわずかに赤くなっている。
源一郎は後ろ手に障子を閉め、お鈴の前に姿勢を正して膝をついた。
「役目に関わることは話せん」
お鈴が目を伏せた。
「だがな、お鈴。俺は、お前に顔向けできんようなことは何一つしていない」
「……殿方のことですから、私は何も気にしていません」
小さな声であった。
「でも」
お鈴は膝の上で手をぎゅっと握りしめた。
「白粉の匂いは嫌でございます」
拗ねた子供のような声であった。
源一郎は途端にホッとして、思わず笑みが浮かびそうになるのを堪えた。そして、お鈴の握りしめた手に自分の手を重ねた。師走の夜。冷えた指先であった。
「悪かった。……今日は寒いな。手も冷たい」
「……はい」
なら、温めてくださいまし──。
源一郎は行灯の火を吹き消した。
§
翌朝──。
源一郎が身支度を整えて玄関へ出ると、上がり框の端辺りに風呂敷包みが置いてあった。中身を確認すると、着替えがきちんと畳まれ包んである。
奥から急ぐような足を擦る音が近づき、床板の軋む音も聞こえてきた。それと、ちりん、という鈴の音も聞こえる。
「源一郎様、待ってっ。お待ちくださいっ」
お鈴であった。前掛けで手を拭きながら、竹の皮の包みを両手で持っている。台所から急いで出て来たのだろう、息が少しだけ上がっていた。その髪には源一郎の贈った鈴のついた簪が付けられている。
「道中でお腹が空くでしょうから、召し上がってくださいませ」
お鈴はにこにこと笑って、包みを風呂敷の上に載せた。
「中は握り飯でございます。おかかと、源一郎様のお好きな昆布の佃煮も入れておきました」
「そうか……いつも、すまんな」
昨夜の硬い表情が嘘のように晴れやかであった。
遅れて、おたかとお絹も見送りに出てくる。
お鈴の後ろで、お絹がやはりぽかんとした顔をしていた。昨夜のお鈴と今朝のお鈴を見比べて、どういう変化があったのか訳が分からずにいるらしい。その隣で、おたかが素知らぬ顔をして口元だけで笑っていた。
源一郎が包みを抱えて土間へ下り、草履を履く。
「旦那様」
お鈴が袂から火打ち石と火打金を取り出し、源一郎の背に回った。
カチッ、カチッ。
乾いた音が二度鳴り、切り火──小さな火花が源一郎の肩口で散った。その意図が厄除け、もとい女除けであるのかは……お鈴のみぞ知ることだ。
「お体に気をつけて。いってらっしゃいませ」
「ああ。行ってくる」
顔を上げると式台の端に、いつの間にか菖蒲が座っていた。おたかのすぐ隣である。
菖蒲は澄ました顔で源一郎を見ていた。色のない瞳でお鈴の方をちらりと見て、それからまた源一郎を見る。しかし何も言わない。
その代わりに小さな手を、ひょい、とあげ振る。
「……いってらっしゃい」
お絹が小首を傾げ、まじまじと菖蒲の見慣れない仕草を見ていた。源一郎は苦笑して、菖蒲にだけ分かるように小さく手を振り返す。
源一郎は屋敷を出た。
門を出て少し歩き、振り返る。門前では、外に出て来たお鈴がまだ見送っていた。
源一郎は片手を挙げて応え、今度は振り返ることなく役宅へ向かって歩き出した。懐に入れた竹の皮の包みは──昨日小柴に貰ったものより、随分と重たかった。