役宅の一室で、源一郎は再び遊び人源太の形に戻った。
深い青の小袖に袖を通し、派手な裏地の羽織を引っかける。帯を緩く締め、打刀を一本だけ落とし差しにする。最後に芝で求めた古い菅笠を手に取ると、鏡を見るまでもなく、火付盗賊改方与力としての渡辺源一郎はどこかへ消えていた。
廊下へ出ると、すれ違った同心が足を止め、慌てて頭を下げた。今度は誰も噂していなかった。だが、背中に刺さる視線は昨日よりも増えている気がした。
源一郎は笠を被り、役宅を出た。
役宅の置かれた麻布から三田、芝を抜けて高輪へ。昨日とは逆の道。懐に入れた竹の皮の包みが、歩くたびに揺れる。昼時を過ぎて腹も空いていたが、源一郎はなぜか包みを解く気になれず、そのまま八ツ山の裾を回ったのだった。
§
辰五郎の屋敷に着いたのは、八つ時を少し過ぎた頃だった。
「おや、旦那。もう戻ったのかい」
土間で荷を仕分けていたお茂が、真っ先に声を上げた。
「数日って言ってたじゃないか」
「用が早く片づいたものでな」
「そりゃあいい。ほら、あんたたち、旦那のお戻りだよ」
女たちが手を止めて、口々に声をかけてくる。源一郎は手を挙げてそれに応え、裏の離れへ回った。
濡れ縁に腰を下ろして笠を脱いでいると、小柴が茶を運んできた。
「お帰りなさいまし。お早いお戻りで」
「ああ。用事が早く済んだものでな」
源一郎はようやく腰を落ち着けて懐の包みを解いた。
竹の皮を開くと、握り飯が二つ並んでいた。どちらも角が丸く、形が揃っている。形が崩れぬようしっかりと握られているのに、指で押せばほろりとほどけそうな柔らかさが残っている。一つを割ると昆布の佃煮が覗き、もう一つからはおかかの醤油の香りが立った。
小柴が、その握り飯をじっと見ていた。
「……一つ、食うか?」
「いいえ、とんでもない」
小柴は首を振り、小さく笑った。
「昨日あたしがお渡ししたのとは、ずいぶん違います」
「そうか? 大きさなら、こちらの方が多少大きいと思うが」
「大きさではございませんよ」
小柴は割られた握り飯に目を落とした。米の粒は潰れずに立っている。塩は外側にだけ薄く当ててあった。
「あたしのは、お世話を仰せつかったから握ったもの」
小柴は少し間を置いた。
「でもこれは、旦那に食べて欲しくて握ったものでございましょう。どのくらいの塩なら旦那の口に合うか、どこまで力を入れれば崩れずに旦那の手に収まるか。一つ一つ考えながら握ったのだと思います」
源一郎は握り飯を持つ手を止めた。
「中身も、旦那のお好きなものなのでしょう?」
「……昆布は、まぁ、好物だ」
「やっぱり」
小柴は目を細めた。
「良いお方がいらっしゃるのですね」
からかう風ではなかった。どこか眩しいものを見るような声だった。
「……まぁな」
源一郎はそれだけ言って、握り飯に齧りついた。昆布の甘辛さが口に広がる。小柴は何も言わず、袖で口元を隠して笑っていた。
§
夕刻、源一郎は母屋の奥座敷で辰五郎と向かい合っていた。
「牛頭の親分。勘蔵の賭場を一度見ておきたいんだが」
源一郎が切り出すと、辰五郎は煙管を持つ手を止めた。
「賭場を?」
「用心棒をやるなら、相手の手の内を知っておいた方がいいと思ってな。どれほどの人数を抱えているのか、どんな連中を飼っているのか。自分の目で見ておきたい」
辰五郎はしばらく源一郎の顔を見ていたが、やがて煙を吐いた。
「勘蔵の賭場は、あいつの船宿の奥でさ」
「船宿にあるのか」
「歩行新宿の海っぺりに、表向きは船宿を構えておりやしてね。釣り客を江戸湾へ出したり、品川へ遊びに来た客を舟で運んだり。その奥座敷で、ほとんど毎晩のように賭場を開帳しておりまさ」
「毎晩、か」
「客は宿場の者もいりゃあ、江戸から遊びに来た者もいるそうで。旅の者も、漁師も、船頭も。誰でも入れる。銭さえ持ってりゃね」
辰五郎は煙管を長火鉢の縁に置いた。
「ただね、源太さん。一つ申し上げておきやすが」
「うん? 何だ」
「一昨日、お前さんは留たちの後ろを歩いて歩行新宿を抜けなすったでしょう。向こうの見張りに、その顔はとうに見られておりやすよ」
「だろうな」
「留ら若い衆を九人のしたってことも、もう勘蔵の耳に入ってると思った方がいい」
源一郎は口の端を上げた。
「それなら、それで使いようがある」
「……使いようですかい?」
「向こうが俺に興味を持ってくれるなら、賭場の奥まで覗ける」
辰五郎は源一郎の顔をもう一度じっと見て、ふっと息を漏らした。
「あまり深入りしすぎて、噛みつかれねぇように気を付けなせぇよ」
§
日が落ちて、源一郎は辰五郎の屋敷を出た。
北品川の町並みを北へ抜け、歩行新宿へ入る。
夜の宿場は、昼とはまるで違う顔をしていた。
軒という軒に提灯が灯り、通りは明るく活気がある。店の窓からは三味の音が溢れていた。どこかの座敷で太鼓が鳴らされ、鼓の乾いた音がそれに絡む。酔った客の手拍子に調子外れの騒ぎ唄。その合間を縫って、女の細い声で流行りの端唄を奏でる。
客引きの女たちが通りへ出ていた。
今朝、黙々と表を掃いていた女たちと同じはずである。けれど提灯の灯りで照らされた顔は、まるで別人だった。白粉を刷いた首筋が灯を吸って仄白く浮かび、紅を差した唇が濡れたように光っている。男の目には、抜いた襟から覗くうなじが闇の中で酷く艶めかしく映る。簪の飾りが揺れるたび、小さな光が散るようだ。
「ちょいと、そこの粋なお兄さん」
「寄っておいでよ。寒いだろう、あたしが温めてあげる」
白い手が伸びてきて、袖を引く。甘い白粉の匂いが鼻をかすめた。
「わりぃな。また今度頼むぜ、姐さん方」
源一郎は袖を引かれるたびに軽くいなした。その度に、昨夜のお鈴の横顔が頭をよぎった。これ以上、匂いを持ち帰るわけにはいかない。
海の方へ折れる。
路地を幾つか抜けると潮の匂いが濃くなった。三味の音が背後に遠ざかり、代わりに波の音が近づいてくる。浜沿いに船宿が幾軒も並び、店の外には舟を繋ぐ杭が並んでいる。
──その一番奥に、ひときわ間口の広い船宿があった。