件の船宿は二階建てで、裏手は浜へ下りる河岸に面している。表の格子戸は閉まっていたが、二階の障子には灯りが透けていた。戸口の脇に、腕組みをして通りを睨む若い男が二人立っている。
源一郎は店の前に立つ前に、建物を一度ぐるりと眺めてみることにした。
表の間口は七間ほどか。浜側の河岸へ回り込むと裏手に小さな舟着き場があり、船宿の建物を見れば蔵造りの厚い漆喰壁が奇妙に張り出している。まるで後から付け加えたような形だ。壁に窓は一つもなく、舟着き場に面した側に低い潜り戸が一つあるきりである。舟からの荷を出し入れする戸だろうか。
源一郎は表へ戻り、戸口の男たちに近づいた。
「ここで遊ばせて貰えると聞いたんだが」
若い男たちが源一郎の顔を胡乱げに見た。
一人の顔色が変わった。目を見開いて半歩後ずさり、もう一人の袖を引いて囁く。
「……こいつ。浜で留んとこの連中を……」
囁かれた方がぎょっとした顔で源一郎を見直し、慌てて戸の内へ引っ込んだ。
残った男は源一郎と目を合わせようとしなかった。その腰がわずかに引けている。
見覚えのある顔だった。一昨日の朝、高輪大木戸で待ち伏せを受けて浜へ下りた際、松並木の陰からこっそり覗いていた男がいた。
ほどなく、引っ込んだ男が戻ってきた。
「……どうぞ。お入りなせぇ」
どうやら、賭博場に入場することは許されたらしい。
§
土間で草履を脱ぎ、式台で刀を預けた。
賭場では得物を預けるのが決まりである。源一郎は打刀を鞘ごと差し出し、廊下を奥へと進む。
丁半の丁の声が響き、突き当たりの襖が開かれると、人の熱気と煙草の煙が源一郎の身に打ち寄せた。
二十畳ほどの広い奥座敷。前世においては時代劇の中でしか見られなかった光景がそこにはあった。真ん中には盆茣蓙──畳に白い布を張った賭台が細長く延び、その両側に客がずらりと並んで座っている。
座敷には三十人はいるだろうか。船頭らしい日焼けした男、職人風の男、羽織を着た商家の若旦那、旅装束の者。皆、盆茣蓙の中央を食い入るように見つめていた。
中には女連れの客もいた。
上座に近い席で、羽織の若旦那の肩に女郎が一人しな垂れかかっている。島田髷に簪を挿し、白い指先を若旦那の膝の上で遊ばせていた。若旦那が張るたびに、女は何事かを囁いて楽しげに笑いかける。勝てば腕を抱いて喜び、負ければ袖で若旦那の額の汗を拭って励ます。しかしながら──熱に浮かされた若旦那を見る女の目の奥は、どこまでも冷めた色をしていた。
盆茣蓙の中央下座に肌脱ぎになった壺振り役が座っている。その向かいの上座では、中盆と呼ばれる進行役が客の張りを捌いていた。
前世における時代劇では壺振りが中盆を兼ねていることもあるが、あれは正式ではない。その事実が源一郎に現実感と緊張感を与えていた。
「さぁ、張った張った。丁方ないか、半方ないか」
中盆の声に客たちが木札を盆の上へ滑らせる。丁の側、半の側、札がそれぞれの場に積み上がっていき、丁半の賭札を対等に調整する段に入る。
「丁半、駒揃いました」
「勝負!」
壺振り役が壺台の上で伏せられた黒塗りの壺を上げた。賽が二つ、白い布の上に転がっている。
「四六の丁!」
どっと声が上がった。上札──中盆の隣に座る進行助手役により手際よく札が集められ、勝った側へ配っていく。その札の一部が上札の脇の小箱に入れられる。寺銭と呼ばれる、胴元の取り分である。
源一郎は座敷を見回した。
壁際に浪人が三人座っている。いずれも月代を伸ばし放題にした、薄汚れた着物の男たちである。一人は酒を舐めながら盆を眺め、一人は壁にもたれて目を閉じている。もう一人は入ってきた源一郎の方へじっと視線を向けていた。
賭場の敷かれた座敷の奥、帳場格子の向こうで年配の男が算盤を弾いていた。その背後の襖は閉ざされている。
源一郎は帳場で銭を札に替え、盆の端に空いていた席に腰を下ろした。
──しばらくは、ただ張った。
丁に張り、半に張る。大きく張らず、かと言って小さく張りすぎず、喜びと落胆を演じながら遊び人らしい張り方を心がける。目は盆茣蓙中央の壺を見ているようで、その実、座敷の隅々を観察していた。
──表の廊下へ出る襖。座敷奥にある一間半の床の間。その左隣に襖が二枚立ち、手前に帳場が据えられている。
床の間は円窓床──正面の壁に大きく丸い窓をあけ、障子を嵌めてある。浜に面した船宿の奥座敷にはよくある数寄屋造りの形で、昼はあの窓から海を眺めさせる趣向なのだろう。
……ところが、その円窓床の前には目隠しなのか屏風が置かれてある。
源一郎は、外から見た蔵造りの壁を思い出した。後から付け加えたように、一間ばかり張り出していた壁である。あの壁には窓など存在しなかった。
ちょうどその時、上札が寺銭の小箱を抱えて立ち上がった。帳場の年配の男に声を掛けると、背後の襖を開けて中へ入り、襖が閉まる。
源一郎は一旦張るのを止め、目を閉じて感覚を研ぎ澄ませた。
──床の軋む音が二歩、三歩。そこで止まる。
床の間の隣の襖といえば、大体が押入れになっている筈だ。だが、押入れに人が歩いて入れる筈がなく、あの襖の向こうは床の間の裏まで回り込んでいると考えられた。
やがて襖が開き、上札が手ぶらで戻ってきた。その隙間から、冷たい風がかすかに吹き込み、浜風の匂いがした。
船宿の裏手、外の壁には小さな潜り戸があったことを思い出す。どうやら、あの襖の奥の空間は万が一の逃げ道にもなっているらしかった。