──張り始めてから半刻ほどが過ぎた。
源一郎の向かいに、四十前後ほどの職人風の男が座っていた。
着物の袖口が擦り切れ、襟は垢じみている。頬がこけ、目の下に濃い隈が浮いているのに、目だけが異様なほどぎらついている異様な相貌。
男は張るたびに盆茣蓙の上の賽を睨みつけていた。唇が絶えず動いているのに声にはならない。その様は数を数えているようにも、何かを唱えているようにも見えた。
「勝負」
「三四の半!」
男は丁に張っていた。男の前の札が上札の手で掻き集められていく。
男の喉がひくりと鳴った。だがそれでも目は盆茣蓙から離れない。壺が振られ、次の勝負が始まる。すぐに残りの札を掴み、酷く強張った手で丁の場へ押し出した。
「……丁だ。次は丁だ。さっきは半が二度続いた。次は丁が来る。絶対に来る、絶対に丁が来る、絶対に……」
誰に聞かせるでもなく、自分に言い聞かせているようだ。
賭けられた駒が揃い、伏せられた壺が上がる。
「一二の半!」
男の札がまた消えた。
男はしばらく、空になった膝の前を目を見開いて凝視していた。その額にはびっしりと汗が浮かんでいる。座敷は煙管の煙と人の熱気で満ちていたが、それだけの汗ではなかった。
男の指先が細かく震えていた。
懐の内をまさぐり、何も出てこないと分かると、今度は着ている半纏の袖を掴んだ。質に入れてでも続ける気であるらしい。
脇の船頭が呆れたように首を振った。男は気づきもしない。半纏を半ば脱ぎかけたところで、中盆が低く言った。
「お客人。ここは質屋じゃござんせんよ」
男の手が止まった。
半纏を半脱ぎにしたまま男はよろよろと立ち上がり、帳場の前に膝をついた。
「頼んます、旦那。あと一回分だけ……あと一回分だけ張らしてもらえねぇか。次は必ず取り返す。ツキが戻ってきてるんだよ。俺には分かるんだ、今夜は必ず丁が来る。流れがこっちに向いてる」
帳場の男が算盤から顔を上げた。面倒くさそうな顔をして、若い衆に摘まみ出せと声を掛けようとした時──背後から声がした。
「貸してやんな」
帳場の背後の襖が開き、そこに男が一人立っていた。
三十代の後半であろうか。背は高くないが恰幅がいい。上等な着物に黒の羽織。顔は丸く、肌の色艶がいい。口元には人好きのする笑みが浮かんでいる。
源一郎の目を引いたのは、帯から提げた煙草入れの根付であった。
百足を象っている。象牙に細かく彫られた足が幾十本と並び、黒く塗った目が灯りを照り返していた。男は歩きながら、その百足の背を指の腹で撫でている。
男は職人の前へ歩いてきた。
「か、勘蔵の親分……」
職人が畳に額を擦りつけた。
「すまねぇ。恩に着る。必ず返す。次こそは」
「いいんだよ、三吉さん。困った時はお互い様だ」
勘蔵は職人の肩に手を置いた。
「帳場で証文を書いていきな。いつもの利でいい」
「へ、へぇ。ありがてぇ」
職人が目をギラつかせて帳場へ這ってゆく。帳場の男が慣れた手つきで紙を差し出した。職人が震える手で筆を取り、名を書き、爪印を押す。
その背に勘蔵がもう一言かけた。
「そういやぁ、三吉さん。お前さん、娘がいたっけな。将来綺麗になると、長屋で評判の」
職人の筆が止まった。
「……へ、へぇ」
「幾つになった」
「……十四に、なりやす」
「そうかい。そりゃあ、いい年頃だ」
勘蔵はにこにこと笑っていた。
「分かってんだろうね?」
それだけ言って、勘蔵は職人の肩をぽんと叩き、離れた。
職人の顔から血の気が引いていた。
しかし、それも束の間だった。帳場の男が札を差し出すと、職人の目に狂おしい熱が戻った。札を引ったくるように受け取って盆の端へ戻る。娘の名を出された怯えは、その顔のどこにもない。
壺が振られ、伏せられる。
職人は借りたばかりの札を、一枚残らず丁へ張った。
「勝負!」
「五六の半!」
職人の札が一度に消えた。
職人は何が起きたのか分からぬような顔で呆然としていたが、のろのろと顔を上げ、再び縋るような目で帳場の方を見た。
「だ、旦那っ、後生だっ、もう一度だけ……もう一度だけ……」
帳場の男は突き放すように算盤から顔を上げない。
「どうか、どうか、頼んます……頼んます……」
源一郎は盆茣蓙を向いたまま、指先で札を裏表に転がした。
──こうして人は賭博に絡め取られ、堕ちてゆくのだろう。
§
勘蔵が座敷を歩いている。
客の一人一人に声をかけているのだ。勝っている者には肩を叩いて祝い、負けている者には気にするなと酒を勧める。
どの客にも親しげに話しかける。女郎にしな垂れかかられた若旦那には「今夜は弁天様がついておいでだね」と笑いかけ、若旦那が照れたように札を積み増すのを見届けてから離れた。客たちは皆、媚びるような笑みで応えていた。
その時、船宿の入り口の方で騒ぎが起きた。
「離せ、離してくれ! 親分に会わせてくれ!」
ドカドカと大きな足音を立てて奥座敷へと近づいてくる。同時に、見張り役をしている若い衆の怒鳴り声も聞こえた。
賭博場の襖が開く。果たして──そこでは若い男が二人の若い衆に両腕を掴まれているところであった。二十歳を少し過ぎたくらいの、船頭風の男。暴れ、若い衆に乱暴に扱われているが張り上げる声は必死に訴え続けている。
「親分、親分っ! あと十日、あと十日だけ待ってくれっ! 漁が戻りゃあ、必ず返す! 頼む、頼むよ勘蔵の親分っ」
勘蔵は男の方を見向きもしなかった。客の一人と話を続けている。顔には変わらず笑みが浮かんでいた。
「何してるんだい? この賭けの場にあんなのは無粋だろう。さっさと連れて行きな」
しかし、いい加減煩かったのか、勘蔵が穏やかに言う。壁際の浪人の一人が、のそりと立ち上がり、男の腹に拳を入れた。そのまま首根っこを掴む。男の呻き声が喉の奥で潰れた。
若い衆と浪人が男を引きずって出ていく。廊下の奥で襖の閉まる音がして、それきり声は聞こえなくなった。
客たちは誰一人そちらを見なかった。そして、先ほどの職人についても。
職人は手元に何も残っていないのにまだ盆茣蓙の前に座り、生気の抜けた幽霊のように顔を白くしているばかり。この場では誰もが男を目には見えない、存在しえない幽霊のように扱う。
「丁方ないか、半方ないか」
中盆の声が、何事もなかったように響いている。