「──よう、兄さん」
頭の上から声が降ってきた。
顔を上げると、勘蔵が源一郎の傍らに立っていた。手には徳利と盃を二つ持っている。
「見ねぇ顔だな。今日は楽しんでくれてるかい」
「まぁ、ぼちぼちだ」
「そうか。そいつはよかった」
勘蔵は源一郎の隣に腰を下ろした。盃を一つ押しつけ、断る前に酒を注ぐ。
「まぁ一杯やってくんな。ここの酒は品川で一番いいのを置いてる」
「そうかい。すまねぇな」
なに、いいってことよ──。源一郎が盃に口をつけると確かに上等な酒だった。
「勘蔵だ。この船宿の主をやってる」
「源太だ。俺はすることもねぇからな、日がな一日フラフラしてら」
「はは、そいつは難儀なことだ」
そう言って勘蔵は自分で注いだ酒を一息に呷る。
「一昨日、北品川の若いのを九人まとめて可愛がってくれたのは、兄さんだろう?」
勘蔵は上目遣いに源一郎を見た。笑みを浮かべてはいるが、その目の奥には人を人とも思わない暗い何かが潜んでいる。その正体を源一郎は知っていた──狂気である。
「うちの若ぇのが、たまたま大木戸の浜で見てたんだよ。匕首を抜いた奴も、長脇差を抜いた奴も、兄さんは素手であっという間に転がしちまったってな。あいつ、戻ってくるなり青い顔して、ありゃあとんでもねぇ達人だなんて言ってやがった」
「そう大騒ぎするようなことじゃねぇさ」
「へっ、へへへ」
源一郎は人数を訂正することもせず、ただ当然の成りゆきだと自信を滲ませる態度で示した。勘蔵は肩を揺すり、楽し気に声を上げて笑った。
「面白ぇ人だ。無手で九人とは大したもんだよ。どこで覚えた」
「さてな。喧嘩は場数を踏まなきゃ強くなれねぇだろ」
「喧嘩の場数ねぇ」
勘蔵の目が源一郎の膝に置いた手を見る。長く剣を振った者の手、盃を持つ指のタコを見て、視線を源一郎の顔へと戻した。
口元は笑みの形で、目尻も下がっている。しかし、細めた目に宿る狂気は尚も鋭い。
「で、兄さん。その後、留たちを引き連れて辰五郎の屋敷へ入っていったそうじゃねぇか」
「話をつけに行っただけだ。子分の不始末は、親分に片をつけてもらうもんだろう」
「違ぇねぇ。で、片はついたのかい」
「詫びは受けた。それで酒を馳走になった、それだけだ」
「それだけか、相変わらずケチ臭ぇ野郎だ」
勘蔵はしばらく源一郎を見ていた。指がまた根付の百足の背を撫でている。
「なぁ、源太さん」
勘蔵は声を少し落とした。
「辰五郎はな、もう終わりかけてる男だ。古い流儀にしがみついて、銭の稼ぎ方もまともに知らねぇ。あんたほどの腕がありゃあ、もっといい目が見られる」
「ほう」
「俺は腕の立つ男が好きでな。気前よく遇する。そいつが不遇な境遇で燻ってるってなら、酒も、女も、銭も、存分に腕を揮える働き場所だって用意する。もし今の生活に飽き飽きしてるってなら、いつでも顔を出してくんな」
現状に不満がある者にとっては、確かに甘く聞こえる言葉。ただ、口では腕の立つ男が好きだと言うが、本心では使える手駒が欲しいのであろう──源一郎は盃を干した。
「気が向いたらな」
「へへっ、つれねぇなぁ」
勘蔵は笑い、源一郎の盃にもう一杯注いだ。
その時、廊下側の襖が開き、男が一人入ってきた。
三十半ばほどの、細身の男である。地味な紬の着物だが仕立てがよく、襟元も裾も皺一つ残さず糊付けされて整っている。日に焼けた顔は表情が乏しく、商家の番頭と言われても通りそうな落ち着いた物腰であった。男が座敷を横切ると、戸口の若い衆が軽く頭を下げて道を空ける。壁際の浪人までが目を伏せて目礼をした。
表情は乏しくとも、目つきだけは違った。切れ長の三白眼。瞳の奥で黒目がぬらりと灯りを反射した、それは蛇のような目であった。
男は勘蔵の背後に膝をつき、その耳元に何事か囁いた。
囁きながら、男が源一郎を見る。
値踏みというより、人を人と見ていない商品の価値を検分するような目。その点でいえば勘蔵に共通する点と言えた。
源一郎はその視線を正面から受け止め、口の端を吊り上げて盃を軽く掲げてみせた。
男は眉一つ動かさなかった。ただ切れ長の目が細められ、それから何事もなかったように逸れた。
勘蔵が頷いた。男は音もなく下がり、座敷の隅の暗がりに紛れた。
「すまねぇな、源太さん。これで失礼するよ。ゆっくり遊んでいってくんな。俺はあんたが気に入ったんだ。さっきの話、覚えといてくれよ」
勘蔵は帳場の背後の襖を開け、その奥へ消えた。
源一郎は盃を置き、今一度座敷を見渡した。
新たに気づいたことだが──中盆も上札も壺振りも、帳場の年寄りを除けば皆比較的若い。三十に届くかどうかの者ばかりである。しかし、賭け札の捌きにも賭場の運営にも淀みはなく、戸口には見張り、壁際には用心棒と、要点はしっかりと押さえられている。先ほどの蛇の目の男にしても、勘蔵とさほど歳は違うまい。
古い流儀にしがみついている、と勘蔵は辰五郎を評した。若さの熱量と勢い──活気に満ちたこの座敷を見れば、そう言いたくなる気持ちも分からぬではなかった。
§
源一郎は、その後も小半刻ほど張りを続けた。
勝ちも負けもほどほどのところで札を銭に替えて、奥座敷を後にした。玄関の式台で預けていた刀を受け取る。
土間の隅には、先ほどの職人が蹲っていた。半纏を膝に抱え、燃え尽きたかのように壁に背を預けて、ただ虚空を眺めている。奥から「勝負」の声が漏れてきても何も反応することはなかった。
その傍らに、いつの間にか蛇の目の男が屈み込んでいた。
職人と目の高さを合わせてしゃがみ、低く平らな声で話しかけている。
「三吉さん。証文はこれで五枚目だ。利息が返済を追い越している。お前さんの稼ぎじゃ、もう追いつかない」
職人は答えない。
「娘さんを奉公に出せばいい。給金の前借で、親分への借りは綺麗に片がつく。娘さんも年季が明ければ、ちゃんと家へ帰れる。その間、家の食い扶持も一つ減って、おかみさんだって楽になるだろうよ」
声の調子は上がりも下がりもしなかった。感情を殺したような平坦な話し方であった。
「……奉公ってのは、どこへ」
「品川にもいい店はある。俺が責任を持って口を利こう。器量のいい娘だと聞いてるからな、高く買ってくれるだろうさ」
職人の肩が震えた。だが、最後の一線を踏み越えるべきか迷い、中々首を縦には振らなかった。
「心配することはない。何も親の借金で娘が奉公に出るのは、三吉さんのところだけではないのだから」
「だけど……」
「儒家の偉い方も言っている。孝とは子が親を敬い、尽くし、仕えることであると。三吉さんは何も間違ってはいないさ」
男は職人の腕を取って立たせ、着物の埃を払ってやった。それから職人の肩を押し、表ではなく奥の暗い廊下の方へ連れていく。
職人は一度だけ奥座敷にある賭場の方を振り返った。「勝負」の一声が漏れ、客たちの歓喜と落胆の騒めきが聞こえてくる。職人の喉が鳴り、それきり二人の姿は廊下の闇に消えていった。
源一郎は刀の柄を握ったまま、その場に立っていた。
止める筋合も道理もない。借金の証文があり、年季奉公という体裁がある限り、お上の目には奉公口の世話にすぎない。いま源太として口を出せば、何もかもが無駄になる。
吐き気がする。未来を知る源一郎にとって、江戸の世で馴染めない社会規範の一つ。源一郎は奥歯を噛み締めて表へ出た。
夜の浜風が、煙草の煙で燻された体を冷ます。
船宿を背にして帰り道を戻る。十歩も歩かぬうちに、背後に気配を感じた。
足音を殺そうとしているが殺しきれていない。草履の底が砂で擦れる微かな音。一人。少し離れて、もう一人。
源一郎は振り向くことなく、歩調も変えなかった。
歩行新宿の宿場の通りへ出ると、三味と太鼓の賑やかな音が再び耳を打った。源一郎は不自然にならないよう人波の中へ紛れ込み、客引きの女に袖を引かれるまま、旅籠屋の看板を掲げた女郎屋の軒先へ寄った。
「粋な旦那、今晩は一人なのかい。もしそうなら、あたしといておくれよ」
「悪いな、今日は先約があってな。客がつかないと飯も食えんだろう。これで温かいものでも食べな」
「旦那……いいのかい?」
女と話し、誘いの手に二朱銀──一分金の半分の価値の貨幣を握らせながら、軒の陰で通りを窺う。
人波の向こうに、男が二人立ち止まっていた。こちらを探すように彼方此方へと首を巡らせている。
源一郎は女と別れ、軒先から隣の路地へ滑り込んだ。路地は細く、両側から二階の庇が迫って暗い。突き当たりで右へ折れ、すぐにまた左へ。表通りの喧騒すら届きにくい闇の中、天水桶の陰に身を隠し息を殺した。
頭の上の座敷から、女の艶声が降ってきた。
ほどなく、路地から二人分の慌てるような足音が聞こえてくる。
「どっちへ行った」
「分からねぇ。見失った」
「くそ、親分に何て言やぁいい」
舌打ちが聞こえ、足音が遠ざかってゆく。
源一郎は足音が完全に消えるまで動かなかった。路地を抜け、裏道を選んで歩行新宿を南へ下る。北品川の町並みに入ってからも、追手の気配には気を配った。
もう誰もついてきてはいなかった。
§
辰五郎の屋敷に戻ったのは、夜も更けてからだった。
裏木戸から入り、庭を抜けて離れへ向かう。母屋の灯りはもうほとんど消えている。
濡れ縁に腰を下ろすと、源一郎はようやく長い息を吐いた。煙管を出したが、火を点ける気にはなれなかった。
帳場の襖の奥は押入れではない。床の間の裏には隠し間があり、その先は潜り戸から舟着き場へ抜けている。
蛇の目の男に連れられ、廊下の闇へ消えていった職人の背を思い出す。娘と自身の快楽を──いや、現実からの逃避すら天秤にかけていた。確信がある。あの職人の男は娘を売った後でも、賭博をやめることが出来ない。
勘蔵──目の奥に狂気を宿らせ、金を操ることで人を支配し、燻っている連中に利を与えて手足のように使う。賭博漬けで客に借金を背負わせ、身内の娘を女郎の苦界へと沈める。勘蔵には何一つ損のない仕組みになっていた。
源一郎は煙管を握りしめた。
一度食らいついたら骨までしゃぶる──ろくろ首のお縫は、そう言っていた。
実際に会って理解した。なるほど、大百足とはよく言ったものであった。